奇怪な眠り
「や、おまたせしました……」
と、博士は部屋にはいると、まず平松看護婦が記しておいたカルテをとりあげました。
熱三十八度二分。脈、百三十……。住所、東彼杵郡東戸松村字白上二二三番地。津田まさの孫よし子二歳。
「ほほう、これはたいへんだね……」
と博士は、カルテをながめて、びっくりされました。
博士がびっくりされたのは、赤ン坊の容体でもなければ、またこの老婆のことでもありません。じつはこの患者の住所が、あまりにも遠いのにおどろかれたのです。
この老婆のすんでる東戸松村というのは、博士のすんでいる上小路からでは、つづらおりの嶮岨な山道を、およそ八里くらいもはなれた山奥……おまけにその白上という部落は、佐賀県とのさかい、多良岳のふもとで、そんなところから、こんな老婆の足で、けわしい山坂をこえてきたのでしょうか?
「さ、拝見しましょうかね」
と回転椅子をまわして、老婆とまともに顔があったとたん、博士は、もういちど、目をみはらずにはいられませんでした。
なんというひどいやつれかたでしょう! やせてること、まるで骸骨のようです。そしてはだけた胸から、肋骨がひとつひとつ透いてみえて、さながら昔話にある安達ヶ原の鬼婆があらわれでてきたようです。
「わたしがみてあげたいのは、赤ちゃんより、お婆さんのほうだね」
と、笑いにまぎらして、それとなくいってみましたが、きこえたのかきこえないのか、老婆はそしらぬ顔をしています。
「どれ、赤ちゃんの胸をはだけてごらん……そう……そうやって、膝に抱いて……」
聴診器をあててみましたが、瘠せおとろえた老婆とちがって、赤ン坊はまるまるとふとって、べつだん異常もみとめられず、どこから熱がでているのかわかりません。
「おかしいな? どれ! ここへ寝せてごらん」
と、博士は壁際のベッドを指さしました。
「ああ、これだな……」
ふとももにポツンと赤くはれあがって、根をはった腫物がひとつ……これが原因だとわかりました。
「熱はこれのためだね。……お母さんのおっぱいを、あまり飲まなかったでしょう?」
しかしあいては、うなずいただけで、べつだんなんとも返事をいたしません。
「たいしたこともないがね、膿をだして、すこしらくにしてあげましょう」
赤ン坊の治療はかんたんにすみました。が、それにしても気になるのは、あまりにも瘠せおとろえたこの老婆のほうです。このやつれかたはただごとではありません。
「お婆さん、どこかぐあいでも、悪くはないのかね?」
うんにゃ、おらがは、なんともねえでやす! といわんばかりに頭をふりました。しかし、医者として、このからだがどうしてみすごしにできましょう。
「どれ、ちょっと、手をだしてごらん!」
と、脈をにぎったとたん、不安そうにさっきから、下目づかいに博士の顔を見まもっていた老婆は、腹だたしげに、その手をふりはらってしまいました。
「おらがは、なんともねえだてえのに! おらがは病気じゃねえだったらようッ!」
かみつかんばかりの、おそろしい顔なのです。
そしてその瞬間、なんともいえぬなまぐさいにおいが、プウンと鼻をうって、おそらく顔も口も洗ったことがないらしく、おもわず博士も、顔をそむけてしまいました。
「そうかね、わたしのからだじゃないんだから、お婆さんが、イヤならしかたがないが……」
しかたなく博士は机にむかって、カルテに、いまの処置を書きいれはじめました。
看護婦の平松は老婆のせなかに、泣いている赤ン坊をおぶせてやって、手当のすんだばかりの油紙や、膿盤やメスなどを、かたづけていたように思われました。
そして老婆は博士のうしろで、かえりじたくをしていたようにおぼえていましたが、ちょうどそのときだったのです。なんというふしぎなことでしょう。
机にむかってペンをはしらせていた博士は、老婆に背をむけたまま、とつぜんに、ひきいれられるような、睡気をもよおしてきました。トロトロ、トロトロと、たまらない睡気です。ハッ! として気がついて、どうしたのだろう? と、ふしぎそうに部屋を見まわすと、そこにたたずんでジーッとじぶんを見つめているおそろしい老婆の顔が、目にはいりました。
その異様な底光りのする瞳に、ギョッとしたのもつかのま、また、トロトロと、頭のしんがしびれるばかりの睡気におそわれてきました。いま目にうつった老婆の顔も、赤ン坊の顔も、だんだんと遠のいていって、ペンをにぎったまま、ガックリと博士は机にうつ伏してしまいました。
「……あなた……あなた……あなたったら! まア! どうなさったの? こんなところで居眠りなんかなさって! ……あら、平松さんまで…… さア、お起きなさいよ、平松さん!」
夫人にゆりおこされて、ハッとして博士が目をさましたときは、もう老婆のすがたはそこにはなく看護婦の平松までが博士同様に、スグかたわらの寝台にもたれてねむりこんでいました。
「へえ! 眠ったのかい?……ちっとも知らなかった! いったいどうしたわけなんだ」
と博士はぼんやりして、あたりを見まわしました。
「まア、奥さま……わたし、どうしたんでしょう?」
平松もきまりわるげに、キツネにつままれたような顔をしています。
「あなたは、机にむかったままで眠ってらっしゃるし……平松さんは、その寝台にもたれて、絆創膏なんぞもったまま、眠っていらっしゃるし………どうなさったのかと思いましたわ」
と夫人はおかしさをこらえながら、けげんな顔をしているのです。
「でも、いまのお婆さんはおそろしい人ね……わたし、身ぶるいしてしまいましたわ! そっと奥まではいりこんできて、部屋のなかをのぞきこむんですもの……とても気味の悪い人よ」
「部屋のなかをのぞきこんでた? ……そういえば、あのお婆さんはどうしたんだろう? ……」
「いまごろ、そんなことをおっしゃったって、もう、いやしませんわ、わたしがいま、送りだしたばっかりなんですもの」
と夫人はちょっと笑いをうかべましたが、しかし、あの老婆がよほどこわかったとみえ、その顔は、スグ気味悪そうにひきしまりました。
そして椅子に腰をおろしながら、夫人の話というのは、こうだったのです。
赤ン坊が雨にぬれているときいて、かわいそうに思った夫人は、お乳でもこしらえてあげようと台所に立ちました。できたミルクもころあいにさめたので、診察室にもってこようと思って、長廊下をあるいてきたとたん、ふと思いもかけずそこに見たのは、電灯の光もとどかぬ薄暗い廊下のかどに、中腰をして赤ン坊をおぶったあの老婆が、ふすまのかげから、ジッと茶の間のようすをうかがっていたというのです。そのときの夫人はべつだん恐ろしいとも思わず、きっとお手洗へでもいったかえりに、部屋をまちがえているのだと思いましたから、
「部屋をおまちがえになったんじゃありません? 診察室は、あちらですのよ」
と、声をかけてみたというのです。
と、だまって立ちあがって、ジロリと夫人のほうをふりむいた顔は……とたんに、夫人はおもわず総毛だって、あッ! とすんでのことによび声をあげようとしました。恐ろしいとも、恐ろしいとも! くらい廊下のなかで、ギラッと目ばかりをひからせて、ニタリと笑った口は耳もとまで裂けて……まだこんなおそろしい顔は、いままでに見たことがありません。
「……あ! ……あの……診察室はこちらですのよ」
と、それでも夫人はふるえながらも、老婆をつれてこようとすると、老婆はさっとじぶんでさきに立って、もときたほうへもどっていってしまったというのです。
そして、返事もしなければ、夫人にあいさつもせず、さっさと下駄をはいて、そのままあとをふりむきもせずに、雨のなかをかえっていってしまったというのです。
「ほんとうに恐ろしくて、わたしふるえてしまいましたわ」
「うむ、山奥の婆さんだからね、礼儀もなにも知らないのだろう。……それにしても、ぼくたちふたりして眠りこんでしまうなんて、ふしぎだね。……なんだか怪談みたいだね。ふしぎな晩だよ。おまけに雨がショボショボふって、まるでむかしのおばけ話にそっくりじゃないか!」
と博士はべつだん気にもとめず、腹をゆすって、笑いだしました。
五郎丸もほえるのをやめたらしく、そとの雨脚だけが、だいぶ烈しくなってきたようすです。
「この雨じゃ今夜はもう患者もこんだろう。どれ、一風呂浴びてくるかな」
と、博士は、ウーンとひとつ伸びをしてたちあがりましたから、それでこの話もそれっきりになってしまいました。
が、いまから思えば、もしこのときに博士や夫人が、もうすこしこの老婆のあやしいそぶりに気をくばって、そして老婆のおそろしい正体に、たとえすこしでも気がついていられたら、まさか、あんな悲惨な目にもあわなかったのではあるまいかと、なにかそのてんに心のこりなものが感じられてなりません。
というのは、博士や夫人は気づかれなかったかもしれませんが、読者のみなさまは、もう、この老婆のあやしいそぶりの数々には、とっくに気がついておいでになりましょう。
ですから、あとでこの話をきいたとき、わたしは、なぜだれかひとりでもそのときに、この老婆のあやしいそぶりに気がつかなかったのだろうか? と、じだんだふみたいほど、残念に感じられてならなかったのです。
しかしくわしい事情をきいてみれば、そこにはまた、なるほどと思われることがないでもありませんから、それをみなさまにも呑みこんでいただくために、この博士夫妻がすんでいられたこの家が、どういう由来の家であったかということを、いちおう申しあげておくことにいたしましょう。