人魂
博士のすんでいられたこの家が、このあたりでもひときわ人目をひいて宏荘なのもどうり! いまから何代かまえまでは、いまも町はずれにのこるお城の城代家老、石藤左近将監というかたが、金と権力にあかせて建てられた住居だったのです。
城代家老といえば、藩でも殿さまのつぎにくらいするおかたで、このかたが、たいそうさざんかをお好みになり、さざんかの名木という名木をあつめ、屋敷のまわりへおうえになったので、いまでも山茶花屋敷といえば、この近郷だれしらぬものもない、なりひびいたお屋敷だったのです。
もちろん今では、そのご家老の子孫は死にたえて、だれひとりのこっていられるかたもありませんでしたが、さすがは一藩の城代家老だったかたの住居だけに、苔むした築山、石灯籠、泉水などの広い庭、表や奥の書院から仲間部屋、女中部屋にいたるまで、ありし日のおもかげをそのままにしのばせているのです。
そして頼子夫人の実家というのは、何代かまえから、このご家老の縁つづきになっていられたので、この宏大な屋敷は、いつのころからか夫人の実家のもち家になっていたのです。
頼子夫人の実家は、ここから六里半ばかりはなれた、吉浦という海岸にある、県下きっての大網元で、夫人にはもう両親もなく、たったひとりのお兄さまがあとをついでいられました。
が、そのお兄さまとて、じぶんの事業がいそがしくて、とてもこんな辺鄙な、ふるくさい屋敷などにすんではいられません。そこでながくたちくされ同様に、雨戸をたてきっておきましたが、こんど夫人が病気で帰郷して、
「あのお家に、わたし、すみたいわ……お兄さま、わたしにかしてくださらない?」
とたのみましたが、
「ばかな、あんなところへすんでごらん、夜になると、キツネがないてでるぜ!」
と、はじめはお兄さまもあいてにされませんでした。
「それより、もっとよい場所に、あたらしく家をたててあげるよ。そこでゆっくりと保養をするんだな?」
しかし夫人は、あたらしい家をこしらえていただくよりも、ただ無性にこの山茶花屋敷ばかりが頭にこびりついてはなれなかったのです。
いまから思いあわせると、もうそのころから、そろそろ夫人のうえには、あやしい影がおおいはじめていた証拠だといえるのかもしれません。
とにかく、夫人のように胸をわずらっている病人にとっては、この山茶花屋敷ほど、絶好なところはないのです。
はるかに大村湾のけしきを一望のうちにのぞんで、遠くむらさきいろにかすんだ島原半島の山々をながめ、小だかい丘を背に、庭はひろびろと林にかこまれて陽あたりがよく、これほどうってつけのところはありません。
それに、博士も、一も二もなく夫人にさんせいされましたので、お兄さまも、やっとのことでここへすむことを同意されました。そして、玄関のとなりへ診察室と待合室をつくって、裏庭の池にのぞんだ築山のかげには、夫人のために洋風の寝室を建てましされました。
お兄さまは、妹夫婦のために、じぶんのかかえ車夫だった吉蔵という屈強な男と、おもとという忠実な女中とをまわしてよこされ、それでもまだ気にかかるのか、夜が無用心だろうと、何万円というお金をだして土佐からとりよせた、五郎丸という犬までつれてきてくださったのです。
そんなわけで、たださえ近在になりひびいている侍小路の山茶花屋敷に、このごろは、吉浦の網主のうつくしい妹ごさまがおうつりになったそうな、そしてだんなさまは、東京の大学のえらい先生さまで、お医者さまだそうなと、たちまち近郷近在のうわさのたねになりました。
そしてくる患者くる患者、みてもらったかえりに、どれ、山茶花屋敷のお庭を拝見してかえろうかなと、奥庭から、なかには書院のほうまで無えんりょにのぞきこんでいくのでした。
この田舎の人のぶさほうさを、博士も夫人も、いちいち気にもできず、ただ苦笑しているほかはありませんでしたが……
そういうぶさほうな習慣を見なれていたばっかりに、いまこのあやしげな老婆が、夫人の居間をのぞきこんだときいても、博士も夫人も、さして深くは気にとめていられなかったのです。
さて、その翌日は、博士は長崎の医科大学の会合に出席して、町の停車場までかえりついて、むかえにきていた吉蔵のくるまにのったのは、もうかれこれ五時すぎぐらいになっていたかもしれません。
停車場から博士の屋敷までは小一時間くらいの道のりで、もうそのじぶんには、いりあいの鐘がちかくの寺からなりひびいて、町には灯がはいっていました。
きのういらい、この地方特有の南風がはげしくふきまくっているせいか、町の商店は大戸をおろして、往来には人影ひとつ見えません。
そのひっそりとした夕方の田舎道を、くるまに母衣をおろして走るうちに、いつか町もぬけて、村の入口の石橋をわたると、もうあたりは収穫のすんだ、ひろい一面のたんぼになっています。
そしてくるまの進みがだいぶおそくなって、吉蔵のはく息が、ハァハァと苦しげになってきたのは、屋敷へのぼるだらだら坂へかかってきたからなのでしょう。
この坂さえのぼりきってしまえば、山茶花屋敷は目と鼻のさきなのです。と、そのとたんに、
「あッ!」
と、いきなり吉蔵が梶棒をとめました。
「ど、どうした! 吉蔵!」
「だ、だんなさま! た、たいへんなものが飛んで!」
「とんだ? なにが?」
「ひ、人魂が……と、飛んでいきやしたが……」
「バカ! あんなものは、人魂じゃない! ばかなことをいわずに、早くやってくれ!」
もちろん、博士も、いま、くらい空に光をはなって、ながい尾をひきながら、右手のやぶかげの墓場へ消えてゆくものを見ました。が、しかし、いまの世のなかに、いったい人魂などというものがあるでしょうか? 医学者である博士は、そんなことを信じてはいませんでした。
と、その瞬間、こんどは博士のほうが「あッ!」と思わず声をあげるところでした。
なんとその刹那、音もなくくるまの母衣をめくって、ジロリと博士の顔を見あげたものは! やせおとろえたまっさおな額に、たれさがったバサバサの髪! 赤ン坊をおぶったおそろしい目!
昨夜の老婆なのです! が、声をあげるひまもなく、母衣はたちまち何事もなかったようにおろされました。
と、そのとたん、
「あ、いけねえ!」
と、こんどは、ガクンとまえのめりにくるまがとまりました。
「ど、どうしたんだ! 吉蔵!」
「うごかねえだ! 誰かくるまをうしろからおさえていますだ!」