Chapter 1 of 7

山根省三は洋服を宿の浴衣に着替へて投げ出すやうに疲れた体を横に寝かし、片手で肱枕をしながら煙草を飲みだした。その朝東京の自宅を出てから十二時過ぎに到着してみると、講演の主催者や土地の有志が停車場に待つてゐてこの旅館に案内するので、ひと休みした上で、二時から開催した公会堂の半数以上は若い男女からなつた聴講者に向つて、三時間近く、近代思想に関する講演をやつた若い思想家は、その夜の八時頃にも十一時頃にも東京行きの汽車があつたが、一泊して雑誌へ書くことになつてゐる思想を纒めようと思つて、せめて旅館までゞも送らうと云ふ主催者を無理から謝絶り、町の中を流れた泥溝の蘆の青葉に夕陽の顫へてゐるのを見ながら帰つて来たところであつた。

それは静かな夕暮であつた。ゆつくりゆつくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらへて、それが窓の障子の方へ上斜に繋がつて浮いて行つた。その障子には黄色な陽光がからまつて生物のやうにちら/\と動いてゐた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思ひ浮べてそれを吟味してゐた。彼が雑誌へ書かうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云ふ論文に対する反駁であつた。

「御飯を持つてまいりました、」

女中の声がするので省三は眼をやつた。二十歳ぐらいの受け持ちの女中が膳を持つて来てゐた。

「飯か、たべよう、」

省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがつたが、脇の下に敷いてゐた蒲団に気が付いてそれを持つて膳の前へ行つた。

「御酒は如何でございます、」

女中は廊下まで持つて来てあつた黒い飯鉢と鉄瓶を取つて来たところであつた。

「私は酒を飲まない方でね、」

省三はかう云ふてから白い赤味を帯びた顔で笑つてみせた。

「それでは、すぐ、」

女中は飯をついで出した。省三はそれを受け取つて食ひながらこんな世間的なことはつまらんことだが、こんな場合に酒の一合でも飲めると脹みのある食事が出来るだらうと思ひ思ひ箸を動かした。

「今日は長いこと御演説をなされたさうで、お疲れでございませう、」

その女中の声と違つた暗い親しみのある声が聞えた。省三は喫驚して箸を控へた。其所には女中の顔があるばかりで他に何人もゐなかつた。

「今、何人かが何か云つたかね、」

女中は不思議さうに省三の顔を見詰めた。

「何んとも、何人も云はないやうですが、」

「さうかね、空耳だつたらうか、」

省三はまた箸を動かしだしたが彼はもう落ち着いたゆとりのある澄んだ心ではゐられなかつた。急に憂鬱になつた彼の眼の前には頭髪の毛の沢山ある頭を心持ち左へかしげる癖のある若い女の顔がちらとしたやうに思はれた。

「お代りをつけませうか、」

省三は暗い顔をあげた。女中がお盆を眼の前に出してゐた。彼は茶碗を出さうとして気が付いた。

「何杯食つたかね、」

「今度つけたら三杯目でございます、」

「では、もう一杯やらうか、」

省三は茶碗を出して飯をついで貰ひながらまた箸を動かしはじめたが、膳の左隅の黒い椀がそのまゝになつてゐるのに気が付いて蓋を取つてみた。それは鯉こくであつた。彼はその椀を取つて脂肪の浮いたその汁に口をつけた。それは旨いとろりとする味であつた。……省三は乾いた咽喉をそれで潤してゐるとその眼の前に青々した蘆の葉が一めんに浮んで来た。そしてその蘆の葉の間に一筋の水が見えて、前後して行く二三隻の小舟が白い帆を一ぱいに張つて音もなく行きかけた。舵が少し狂ふと舟は蘆の中へずれて行つて青い葉が舟縁にざら/\と音をたてた。薄曇のした空から漏れてゐる初夏の朝陽の光が薄赤く帆を染めてゐた。舟は前へ/\と行つた。右を見ても左を見ても青い蘆の葉に鈍い鉛色の水が続きそのまた水に青い蘆の葉が続いて見える。

(先生、これからお宅へお伺ひしてもよろしうございませうか)

若い女は持前の癖を出して首をかしげるやうにして云つた。

(好いですとも、遊びにいらつしやい、月、水、金の二日は、学校へ行きますが、それでも二時頃からなら、大抵家にゐます、学生は土曜日に面会することにしてありますがあなたは好いんです、)

(では、これから、ちよい/\お邪魔致します、)

(好いですとも、お出でなさい、詩の話でもしませう、実に好いぢやありませんか、この景色は、)

(本当にね、誰かの詩を読むやうでございますのね、蘆と水とが見る限りこんなに続いてゐて、)

「鯉こくがおよろしければ、お代りは如何でございます、」

省三は女中の声を聞いて鯉の椀を下に置いた。鯉の肉も味噌汁ももう大方になつてゐた。

「もう沢山、非常に旨かつたから、つい一度に食べてしまつたが、もう沢山、」

省三は急いで茶碗を持つて飯を掻き込むやうにしたが、厭やなことを考へ込んでゐたゝめに女中が変に思つたではないかと思つてきまりが悪るかつた。そしてつまらぬ過去のことは考へまいと思つて飯がなくなるとすぐ茶を命じた。

「もう一つ如何でございます、」

「もう沢山、」

「では、お茶を、」

女中は茶器に手を触れた。

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