Chapter 1 of 4

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山根謙作は三の宮の停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ支那の方へ往ってその年まで内地に帰って来なかったので、うっすらした輪廓が残っているだけであった。

謙作は台湾で雑貨店をやっていた。汽船会社の先輩の世話で上海航路の汽船の事務員になって、上海へ往く途中で病気になり、その汽船会社と関係のある上海の病院に入院中、福岡県出身の男と知己になって、いっしょに広東へ往き、それから台湾へわたって、あっちこっちしているうちに、今の店を独力で経営するようになって、細君も出来、小供も出来て、すこしは金の自由も利くようになったので、商用をかたがけて墓参に帰って来たところであった。

空気は冷たかったが静な煙ったように見える日で、輝のない夕陽がそのまわりをほっかりと照らしていた。彼は気が注いてその陽の光にやった眼をすぐそこの建物にやった。青いペンキの剥げかかった木造の二階建になった長い長い洋館で、下にはたくさんの食糧品を売る店がごたごたと入口を見せていた。生のままの肉やロースにしたのや、さまざまの獣肉を店頭に吊した処には、二人の壮い男がいて庖丁で何かちょきちょきと刻んでいた。そこには三四人の客がいたが、その一人は耳輪をした支那人の老婆で、それは孫であろう五つばかりの女の子の手を握っていた。好く見ると老婆の右側に並んでいるのも、耳輪をした壮い支那の婦人であった。壮い婦人の右側には白痘痕のある労働者のような支那人が立っていた。

彼はふとここは支那人街だなと思った。彼はそう思いながらあたりに眼をやった。そこは狭い黒ずんだ街路になっていて、一方にも食糧品を売る店がごたごたと並んで、支那人がおもにそこを往来していた。大きな酒瓶のような物を並べた店も、野菜を並べた店も、乾して蛇とも魚とも判らない物や、また芋とも木の根とも判らない物などを並べた店も眼に注いた。その店さきのガラス戸や内の鴨居などには赤い短冊のような紙片を貼ってあるのが見えた。それは謙作が見慣れている支那街の色彩であった。

謙作は酒のことを思いだした。そして内地に帰って来て一箇月ばかりの間に飲み馴染んでいた灘の酒に、いよいよ別れて往かなくてはならぬと云う軽いのこり惜しさを感じて来た。彼は六時出帆の船を待つ処をまだはっきりと定めていなかったので、すぐどこかで一杯やりながらそれを待とうと思いだした。彼は既に十里手前の町で船室を定め、一切の荷物も積んで、着たままの洋服に籐のステッキ一本と云う身軽な自由な体になっていたので、身のまわりのことに就いては気になることはなかった。彼はちょっと左の手をあげて手首に着けている時計に眼をやった。時計は三時を過ぎたばかりであった。六時までにはまだ三時間ある、二時間はどこにゆっくりしていても宜いと思った。彼はどこか入るに宜い簡単な処はないかとむこうの方に眼をやった。すぐ右側に赤いポストの立っている処があって、そこから横街の入口が見え、そのむこう角になった処に黄な覆を垂らした洋食屋らしい店があった。

洋食ではいけない、なるべくなら日本料理が宜いが、日本料理はないだろうかと思った。しかし、それは絶対に洋食が厭と云うでもなかった。彼は洋食と云っても魚のフライ位は出来るだろうと思った。彼はもうその洋食屋の前へ往っていた。

もうすこし前へ往ってみたら何かあるかも判らないと思った。彼はちょと足を止めて、前へ往こうか入ろうかと考えたが、ぐずぐずしていて時間が経ってはつまらないと思いだした。彼は横街の方から洋食屋へ往った。

磨りガラスの障子がすこし開きかけになっていた。もう夕方のように微暗い土間には七つか八つの円いテーブルが置いてあって、それに三人ばかりの客が別れ別れに腰をかけていた。謙作の眼はすぐ入口のテーブルに内の方を向いて腰をかけている、茶のぼろぼろになった洋服を着た日本人とも支那人とも判らないような男の横顔へ往った。右のむこうの隅には濃い髪を束髪にした女が錦紗らしい羽織の背後姿を見せて、前向きに腰をかけていたが、その束髪に挿した櫛の玉が蛇の眼のように暗い中にちろちろと光って見えた。

好い女がいるな、と謙作は男の何人でも思うようなことをちょと思い浮べながら、右側のテーブルへ往ってぼろぼろの洋服の男の横顔の見えるように、白く塗った板壁を背にして腰をかけた。壮い女給の一人がひらひらと蝶のようにその前へやって来た。

「召しあがり物は」

謙作は籐のステッキを右側の壁に立てかけていた。

「魚を喫いたいが、何か魚のフライでももらおうか、フライは何ができるかね」

「鯛でも鰆でも、どっちでもできます、お魚軒がお入用なら、お魚軒もとれます」

謙作は嬉しかった。

「あ、あ、魚軒がとれる、これはありがたい、では、ね、姐さん、その魚軒とフライをもらおうか」

「承知いたしました、御酒も召しあがりまして」

「そうだ、その御酒が第一の目的と云うところだ、これから復た暫らく飲めないことになるからね、船が出るまでには心遺りのないように、うんと本場の酒を飲んで置こうと云うところだ、好い奴を持っといで」

謙作は台湾の陽に焦げた肉の締った隻頬に笑をちょと見せた。

「承知いたしました」

女も口元に笑いを見せてから引返して往った。謙作は宜い気もちになって衣兜から敷島の袋を出し、その中から一本抜いて火を点け、それをゆっくりと吸いながら、やるともなしにぼろぼろの洋服の男に眼をやった。

洋服の男は盃を口のふちに持って往ったままで、とろりとした眼をしてなにか考えている容であった。その洋服の男の前のテーブルにも街路の方を背にして、鳥打帽を冠た筒袖の店員のような壮い男がナイフとホークを動かしていた。そこには女給の一人が傍の椅子に腰をかけて、その男と何か話していた。

謙作はふと女のことを思いだしたので右の方に眼をやった。女の束髪の櫛からはやはり蛇の眼のようなちろちろした光が見えていたが、何か物を飲んでいるのかすこし体を反して、右の手をちょと曲げていた。

「お待ちどおさま」

はじめの女給が銚子と盃を持って来て、もう盃を出していた。

「や、ありがとう」

謙作は煙草の吸いさしを前の灰皿の中へ入れてから盃を持って女に酌をしてもらった。

「すこしお温いかも知れません、お温ければなおします、如何でございます」

燗は飲みかげんであった。

「けっこう、けっこう」

「では、すぐお料理を持ってまいります」

女は銚子を置いてくるりと背後向きになった。

「おい、酒だ」

洋服の男が右の指端でテーブルの上を軽く叩いた。謙作のテーブルから離れて往きかけた女が足を止めた。

「まだおあがりになります」

それは愛嬌のない聞く者をして反感を起させる詞であった。と、洋服の男のテーブルがどんと鳴った。

「おい、なにがまだだい、姐さん、ばかにしちゃいかんよ、俺はお前さんのおしきせを飲んでるのじゃないよ、が、まあ、宜い、黙って酒を持って来た」

女は洋服の男の権幕に驚いたのかそのままむこうへ往った。

「あの玉があってみろ」

洋服の男は独りでこんなことを云ってから、またテーブルの上を叩いて思いを遠くの方へ馳せるようにしたが、その拍子に隻方の赤濁りのした眼がちらと見えた。謙作は玉とはなんのことだろうと思って、考えてみたがさっぱり見当がつかなかった。

「お待ちどうさま」

女が魚軒の皿とフライの皿を提げて来ていた。

「あ、これは宜い、後をすぐ浸けておくれ、すこし時間があって、ね、船に乗るところだからね」

「どちらへいらっしゃいます」

「台湾へ帰るところだよ」

「おや、台湾へ、それは大変でございますのね」

「あ、あ、ちょと途が遠くってね」

謙作は魚軒に添えた割箸を裂いて、ツマの山葵を醤油の中へ入れた。

「台湾は宜いな、台湾にいたのですか」

それは洋服の男が己の方へ向って云った詞であった。謙作は箸を控えて顔をあげた。洋服の男は赧黒い細長い顔をこっちへ向けていた。

「そうです、もう十年あまり、むこうで商売をやってるのです」

「基隆ですか、台中ですか」

「台中です」

「そうですか、台湾は暢気で宜いのですなあ、私も台湾にすこしいたことがあるのです、私はシンガポールにも、バタビヤにも、広東にも、マニラにも、上海にも、南京にも、東洋の名高い港と云う港は渡り歩いてるのですがね」

「そうですか、私も上海と広東へは、ちょと往ったことがあります、何か御商売でも」と謙作は云ったものの、その男の風体から押して漂泊癖のある下級船員ののんだくれであろうと思った。

「なに風来坊ですがね、すこし探しているものがあるのですが、ね、しかし、もうだめです」

洋服の男はどろんとした手でまたテーブルの上をどんと打った。

「なんです、何か旨い儲け口ですか」

謙作はそう云って魚軒を口にしながらその後で盃を持った。

「そんなものじゃないのです、石です、へんな石ですがね」

謙作はふと洋服の男がさっきあの玉があってみろと云ったことを思いだして好奇心を動かした。

「そうですか」

そこへ女が後の銚子を持って来た。謙作は洋服の男が前に酒を注文したことを思いだしたので、ちょと指を洋服の男の方へ差した。

「このお客さんが早かった、まあ、前へあげておくれ、後で好い」

女はちょとへんな顔をしたが、そのまま黙って洋服の男の方へそれを持って往った。

「姐さん、まあ、憤るなよ、お客さんの好意じゃ、俺にくれ」

洋服の男は嘲るような笑いかたをして、女の置いた銚子をすぐ執って盃に注いだ。

「石ってなんです、宝石かなんかですか」

謙作は深入りしてはいけないと云う用心を一方に持ちながら訊いてみた。洋服の男はなんと思ったのか、口のふちにやっていた盃を急いでぐっと飲んで、下に置くなり起って来て、謙作の前の椅子を引寄せた。

「あなたに一つお話しましょう、すこし、へんな話しですが、聞いてくれるのですか」

そう云って洋服の男は腰をおろした。謙作は煩さい話になっては困るなと思ったが、断るわけにもゆかないのでしかたなしに盃をだした。

「一つあげましょう」

洋服の男は隻手でそれを遮るようにした。

「いや、それは戴きません、そう云うことは煩さいことですから、いただきません、あなたはかまわずに飲んでください、私も飲みたくなったら、己で執って来て飲みます」

「そうですか、では、あげますまいか」

「そうしてください、そうしていただくと私も自由で宜いのです」

「では、どうぞ御自由に」

謙作はその盃に己で酒を注いで飲みながら洋服の男の云いだす話を待っていた。

「それじゃ、これからお話しますがね、すこしへんな話ですよ、アインスタインだの、なんだのと云う今の世の中に、ちょっと変った話ですからね」

「まあ、まあ話してください」

「では話しますが、ね、私の生れた処は申しますまい、私は支那におれば、支那の詞を遣います、ジャワにおれば、ジャワの詞をつかいます、私がどこの者であるかは、あなたの推測にまかせますが、私の家はその土地でも有数な富豪で、父には七人の妾があったのです、私は他の兄弟もない独り児のことでしたから、非常に父からも母からも可愛がられていたのです、教育もフランス人とイタリヤ人の二人の教師を家へ呼んで、それからひととおりのことを教わったのですが、私には、みょうに奇を好む性癖がありまして、今でしたら飛行機にも乗ったでしょう、珍らしい遊戯とか、興業物とかがあると、金にあかしてそれを教わったものです、その結果、私は印度から来た女奇術師の一座を暫らく別荘へ置いて、それからいろいろな奇術を教わったのです、石を投げると、それが鳩になって飛んだり、ステッキを地べたへ置くと、それが蛇になって這ったり、帽子の中から犬を出したり、皆、ちゃんと仕掛けがあって、教わってみればつまらないものですが、見ている者が感心するので、それがばかに面白くって、時どき裏庭へ隣の人や朋友を入れて、それに見せてやったのです、そうです、ね、そのとき、私は十七でしたよ、お話の眼目はこれからですが、どうか、さあ、私にかまわずに、あなたは飲んでください」

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