七 さんざんな初舞台
ある日の夕がた、壁紙のよごれた部屋へ主人がはいって来て、もみ手をしながら、言った。
「さあ……」
彼は、あとをつづけようとしたが、言わないで出て行った。けいこのあいだに主人の顔つきや声の調子をすっかりのみこんでいたおばさんは、主人が興奮して、やきもきして、なにかじりじりしているらしい、と気づいた。しばらくすると、主人がもどってきて、言った。
「きょうは、おばさんとフョードル・チモフェーイチをつれて行く。エジプトのピラミッドでは、おばさん、きょうは、おまえが死んだイワン・イワーヌィチの代役をつとめるんだ。ちぇっ、どうなることやら! 準備ひとつしちゃいないし、ろくろく教えてもありゃしない、まったく練習不足だ! 恥をかかなきゃいいが、しくじらなきゃいいがな!」
そう言うと、主人はまた出て行ったが、すぐにこんどは、毛皮の外とうを着て、山高帽をかぶってひきかえしてきた。彼はねこに近づくと、前足をつかんで持ちあげ、外とうの胸の中へかくした。そのあいだもフョードル・チモフェーイチは、いたって平気なもので、目をあけようともしなかった。彼にとっては、横になっていようと、足をつかんで持ちあげられようと、ふとんの上に寝ころがっていようと、主人の外とうの胸にぬくぬくとおさまっていようと、まるで同じことだったらしい。……
「おばさん、行こう」と、主人が言った。
何もわからないけれど、おばさんはしっぽをふって、主人のうしろからついて行った。まもなくおばさんは、そりの中で主人の足もとにすわって、主人が寒さと興奮に身をひきしめながら、つぶやくのを聞いていた。
「恥をかかなきゃいいが! しくじらなきゃいいがな!」
そりは、スープ入れをさかさにしたような、大きな、妙な家のそばにとまった。このうちの長い車よせには、ガラスのとびらが三つあって、一ダースもある明るい燈火が、あかあかとともっていた。扉が音をたてて開くたびに、まるで口のように、車よせのそばをうろうろしていた人びとをのみこんだ。たいへんな人で、車よせへはたびたび馬もかけつけたが、犬は一匹も見あたらなかった。
主人はおばさんを両手でだきあげて、フョードル・チモフェーイチのいる外とうの胸の中へおしこんだ。そこは、暗くてむっと暖かかった。一瞬、緑色のぽうっとした火花が二つ、ぱっともえあがった。――それは、おばさんのつめたいごつごつした足におどろいたねこが、目をあけたのだ。おばさんは、彼の耳をなめてから、できるだけぐあいよくすわろうと思って、ごそごそ動いているうちに、つめたい足で、ねこをふみつけて、そのはずみに、思いがけなく、外とうの下から頭をだしてしまったが、すぐにおこったようになって、外とうの下へもぐりこんだ。――瞬間、怪物のいっぱいいる、だだっぴろい、うす暗い部屋を見たような気がしたのだ。部屋の両がわのしきりやさくの向こうから、馬の顔や、角のはえた顔や、耳の長い顔や、鼻のかわりにしっぽがはえ、口からむきだしの長い二本の骨がつき出ている、ふとった、ばかでかい顔など、いろいろなおそろしい顔が、こっちをのぞいていたのである。
ねこはおばさんの足の下で、にゃあにゃあしわがれ声をあげ始めたが、ちょうどそのとき、外とうの前があいて、主人が≪おりろ!≫と言ったので、フョードル・チモフェーイチとおばさんは、いっきに床の上にとびおりた。そこはもう、灰色の板壁にかこまれた小さな部屋の中だった。この部屋には、鏡をのせた小さなテーブルと、腰かけと、部屋のすみずみにぶらさげたぼろをのぞいては、家具と名のつくものは何ひとつなく、ランプやろうそくのかわりに、壁に細い管を打ちつけて、そのさきに明るいおおぎ形の燈火をとりつけてあった。フョードル・チモフェーイチは、おばさんにふみつけられた自分の毛皮外とうをひとしきりなめまわしてから、腰かけの下へはいって横になった。主人はあいかわらず興奮して、しきりにもみ手をしながら、着がえにかかった。……彼は、いつも家で、あらラシャの毛布をかぶって寝るまえに、着がえをするときのように、下着一まいになってから、腰かけにすわって、鏡をのぞきながら妙なことをし始めた。まずさいしょに、髪のわけめと、角のような前髪が、二つついたかつらを頭にかぶり、それから顔じゅうまっ白にぬって、その白いおしろいの上に、まゆ毛や、口ひげや、赤いもようをかいた。彼のおめかしは、それだけではなかった。顔と首の細工がおわると、こんどはちんちくりんな、おかしな服を着始めた。おばさんは今までそんな服を、うちの中でも、通りでも、一度も見たことがなかった。まあ、おそろしく幅の広いズボンを想像していただけばいい。――よく町人の家で、窓かけや、家具のおおいに使われるような、大きな花もようのサラサでぬってあって、わきの下で、ボタンをかけるようになっている。そして一方の足が褐色で、もう一方がうす黄色なのだ。主人はこのズボンの中に、すっぽりはいると、大きなぎざぎざのえりと、背中に金の星のついたサラサのジャケツを着て、色とりどりの長靴下と緑色の靴をはいた。……
おばさんは、目がちらついて気がへんになってきた。たしかに、このまっ白い顔をしただぶだぶな服を着た人からは、主人のにおいがしたし、声も聞きなれた主人の声だったが、ときどきひょっと疑わしくなってきて、このまだらの人から逃げだして、ほえようとすることがあった。見なれない場所、おおぎ形のあかり、におい、主人の変装――こうしたことが、すべておばさんにわけのわからないおそろしさをいだかせ、きっとこれから、あの鼻のかわりにしっぽを持った、ふとった顔みたいな、おそろしいばけものに出あうにちがいない、という気がした。おまけに、壁の向こうのどこか遠くで、むかむかする音楽が鳴っていて、ときどきわけのわからないほえ声が聞こえた。ただ一つおばさんを安心させたのは――フョードル・チモフェーイチが平気でいることだった。彼は腰かけの下でゆうゆうとねむっていて、腰かけが動いても、目をあけようとはしなかった。
フロックを着て、白いチョッキをつけたひとりの男が、部屋をのぞいて言った。
「今、ミス・アラベラが出ています。つぎは――あなたですよ。」
主人は、何も答えなかった。彼はテーブルの下から小さな旅行カバンを取りだし、腰をおろして待ち始めた。くちびると両手から、彼がそわそわしているのがわかった。おばさんは、主人の息がふるえているのを聞いた。
「ミスター・ジョージ、どうぞ!」――扉の向こうでだれかが叫んだ。
主人は立ちあがって、三度、十字を切り、腰かけの下からねこを引きだして、カバンの中へ入れた。
「おばさん、おいで!」と、主人は小声で言った。
おばさんは、何もわからなかったが、主人の手のそばへ近よった。主人は、おばさんの頭にキッスをして、フョードル・チモフェーイチのいるカバンの中へ入れた。と同時に、あたりがまっ暗になった。……おばさんは、ねこをふみつけたり、カバンの壁をひっかいたりしたけれど、おそろしさのあまり声をたてることさえできなかった。カバンは、波の上をただようようにゆれて、ふるえた。……
「お待たせいたしました!」と、大声で主人が叫んだ。「お待たせいたしました!」
おばさんは、この叫び声がおわると、カバンが何かかたいものにどしんとぶつかって、ゆれがとまったのを感じた。大きな、太いほえ声が聞こえた。拍手が起こった。拍手のあいては、どうやらあの鼻のかわりに、しっぽのはえたみにくい顔のばけものらしく、カバンの小さな錠前がふるえたほど大きな声で、なおもほえたり笑ったりした。それに答えて、つきさすような、かん高い主人の笑い声がひびきわたった。――それは、今までうちでは一度も聞いたことのない笑い声だった。
「はあっ!」――主人は、ほえ声を消そうとりきみながら、叫んだ。「親愛なるみなさま! わたくしは、たった今、停車場からはせさんじました! じつは、このたびわたくしのおばあさんが息をひきとりまして、ここに遺産を残してくれたのであります! このカバンには、たいそう重いものがつまっております。――さてこそ金貨か……はあっ! 思いもかけぬ百万両か! では、ただ今、あけてごらんに入れます。……」
カバンの錠前が、かちと鳴った。明るい光が、おばさんの目を射た。おばさんは、カバンからとびだすと、わあわあいうほえ声にぼうっとなって、すばやく全速力で主人のまわりをかけまわりながら、きゃんきゃんほえだした。
「はあっ!」と、主人が叫んだ。「フョードル・チモフェーイチおじさん! いや、これは親愛なるおばさん! こりゃどうも、とんだところへ出てきたもんだ!」
主人はがばと砂の上にたおれるなり、ねことおばさんをつかまえて、だきしめようとした。おばさんは、主人にだきしめられているすきに、あたりのようすをちらりと見た。そしてあまりのすばらしさに、しばらくぼっとなったが、やがて主人の腕からぬけだすと、一つところをこまのようにくるくるまわりだした。新しい世界は、すばらしくりっぱで、明るい光にみちみちていた。――どっちを向いても床から天井まで、どこもかしこも、ただ目にうつるものは、顔、顔、顔、だった。
「おばさん、どうぞおかけください!」と、主人が叫んだ。
おばさんは、この言葉をおぼえていたので、いすの上へとびあがってすわった。そして主人の顔をじっと見た。彼の目は、いつものようにまじめでやさしかったが、顔――とりわけ口と歯とは、大げさな、すこしも動かない微笑で、ひんまがっていた。そのうえ主人は、自分から大声で笑ったり、とびはねたり、肩をすくめたりして、さもなん千という人びとの前にいるのが楽しくてたまらないというふりをしていた。おばさんは、主人がしんから楽しくてたまらないのだと思った。すると、ふいに、このなん千という人びとが、じっと自分を見つめているのをひしひしと感じて、きつねのような鼻面を高くあげ、さもうれしそうにほえ始めた。
「おばさん、あなたはすわってらっしゃい。」と、主人が言った。「おじさんとカマーリンスキイ(ロシアのおどりの名)をおどりますからね。」
フョードル・チモフェーイチは、このつまらないことが始まるのを待っているあいだ、じっとつっ立って、何くわぬ顔であたりを見まわしていた。彼は、のろのろと、ぞんざいに、気むずかしい顔をしておどった。その身のこなしや、しっぽとひげのぐあいから、彼が、群衆も、明るい光も、主人も、自分自身さえも、軽蔑しきっているのがわかった。……自分のぶんをおどりおわると、彼はあくびをしてすわった。
「さあ、おばさん。」と、主人が言った。「まずふたりでうたって、それから踊りましょう。いいですか?」
主人はポケットから小さな笛を取りだして吹き始めた。おばさんは音楽を聞くと、たまらなくなって、いすの上をそわそわ動いてほえだした。四方八方から、ほえ声と拍手が起こった。主人はおじぎをし、しずまるのを待って吹きつづけた。……笛の音がひじょうに高くなったころ、どこか二階の見物席のほうで、だれかが、大声であっと叫んだ。
「とうちゃん!」と、子どもの声が叫んだ。「あれは、カシタンカじゃないか!」
「そうだ、カシタンカだ!」と、よっぱらった、がさがさの高い声があいづちをうった。「カシタンカだ! フェジューシカ、ありゃ、――ちぇっ、しょうのねえやろうめ、――カシタンカだぜ! フューイ!」
だれかが、二階席で口笛を吹いた。子どもとおとなの二つの声が、大声で呼んだ。
「カシタンカ! カシタンカ!」
おばさんは身ぶるいをして、声のしたほうを見た。ひげだらけの、よっぱらった笑い顔と、まるまるとふとった、ほっぺたの赤い、びっくりしたような顔とが、さっき明るい光が目を射たように、おばさんの目を射た。……おばさんははっと思いだした。そして、いすから下の砂の上に、もんどり打ってころげ落ちると、とび起きてうれしそうな叫びをあげながら、その二つの顔をめがけてかけだした。どっとわきあがるどよめきをつんざいて、口笛とするどい子どもの叫びがひびいた。
「カシタンカ! カシタンカ!」
おばさんは、さくをとびこえ、だれかの肩をとびこえてさじきへとびこんだ。が、その上の席へはいるためには、高い壁をとびこえなければならなかった。おばさんはとびあがった。だが、とびたりなかったために、壁をずり落ちた。そこでおばさんは、人の手から手へとびうつり、だれかれかまわず、手や顔をなめながら、上へ上へとはいあがって、とうとう二階席へはいりこんだ。……
半時間ほどたつと、カシタンカは、にかわやにすのにおいのする人たちのうしろについて、通りを歩いていた。ルカー・アレクサンドルィチは、よろめきながらも、さすがに心得たもので、なるたけ掘割からはなれようはなれようとしていた。
「おれは、どうせ生まれぞこないさ。……」と、彼はつぶやいた。「だがな、カシタンカ、おめえは――やっぱりたりねえなあ。人間とおめえのちがいは、まあ、大工とさしもの師のちがいみてえなものさ。」
ルカー・アレクサンドルィチと並んで、せがれのフェジューシカが父親の帽子をかぶって歩いていた。カシタンカはふたりの背中をじっとながめた。すると、自分がずっと昔からふたりのうしろを歩いているのだ、浮世のあら波も一刻たりとも自分をふたりからはなさなかったのだと、うれしくてたまらない気がするのだった。
カシタンカは、壁紙のよごれた部屋や、がちょうや、フョードル・チモフェーイチや、おいしいごちそうや、けいこや、サーカスのことを思い浮かべた。けれども、今となっては、そうしたことがみんな、長い、ごちゃごちゃな、重苦しい夢のような気がした。……
(Каштанка, 1887)
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