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日本歴史の研究に於ける科学的態度
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日本歴史の研究に於ける科学的態度
津田左右吉
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번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 3 of 6

三

以上は、神代の物語や上代の歴史やに関する固陋な、または放恣な、主張についていったのであるが、これと同じような主張は、例えば大化改新とか南北朝の争とか下っては明治維新とかいう後代の歴史上の問題に関しても、また行われていたが、今はそれらにはふれないことにする。ところが、日本歴史の非学問的な解釈は、このような固陋な思想や近年における権力者の政略から出て甚しき私意を含んでいるもののみではなく、学者によって唱えられたものもある。それは学問的方法の理解の足らぬために生じたものであるが、そのうちには、エド時代から後のいろいろの学者の間にそういう解釈が行われていたため、世間にはかなり広く信ぜられるようになったものもあり、そうしてそれが結果においては、やはり世をあやまり人をあやまらせている。

その二つ三つを挙げてみると、神代の物語を歴史的事実が譬喩の形でいいあらわされたものとするのが、その一つであって、タカマガハラは、天上の世界ではなくして地上のどこかの土地が天上にある如く語られたものであり、日の神たるアマテラス・オオミカミは日そのものではなくして実在の人物であるが、あるいはその徳が日の如く広大であるために、あるいは日を祭る任務をもっているために、日の神と称せられたのであり、いわゆる天孫降臨は皇室の御祖先が海外からこの国土に渡来せられたこと、またはこれまでこの国土に住んでいた民族とは違う別の民族(天孫民族)が新しくこの国土に来て土着の民族(出雲民族)を征服したことを語ったものである、というような考えかたがそれである。非合理的な物語を一々合理的な事実として解釈しようとする態度に知識人の共感をひいた点があるが、神代の物語はその本質としてもともと非合理的なものであるから、それを一々合理的に解釈しようとするのは、物語の解釈の学問的な方法ではない。第一に、何故にそういう解釈をしなければならぬかの理由が説明せられず、第二に、一々の物語のそういう解釈は確実な根拠がない恣意のものであるために、人によって相互に一致しない思い思いの解釈が加え得られるからである。特に天孫降臨を天孫民族というものの渡来のこととするような考えかたは、民族の異同や移住の径路などを考える学問的研究の方法を無視するものである。この場合に民族という語がどういう意義に用いられているか知らぬが、一般に民族といえば、長い間共同の生活をして来て同じ歴史をもっているために、言語や生活の状態やを同じくする一つの集団をさすのであり、従ってこれらの点で他の民族とはちがった特色のあるものをいうのであるが、それには他の民族と人種を異にする場合もあり、同じ人種の分派である場合もある。だから、民族の異同を考えるには、これらのことがらについての事実を精細に研究するのが学問的の方法であるのに、物語の上記の解釈にはこういう研究がせられていないのである。またこういう解釈のしかたは神代の物語を日本の上代史と見るものであるが、実はそれによって上代の歴史は何ごともわからない。こういう方法によって物語をどう解釈するにしても、日本の国家の成立の情勢、即ちいわゆるオオヤシマの全体がどうして皇室の統治の下に帰したかということも、そうなる前の日本の状態も、全く知ることができないのである。だから神代の物語の学問的研究は、こういう解釈のしかたとは違った方法によらねばならぬ。それは即ち非合理的な物語をそのまま非合理的なものとして、それにいかなる意味があり、いかなる思想が表現せられているか、またいかにしてそれが形づくられたか、を考察することでなければならぬのである。

いま一つの例を挙げるならば、日本の国家は一家族のひろがったものである、皇室は宗家であって国民はその支族である、ということのいわれているのがそれである。これがもし、事実そうであるというのならば、それは事実としては決してあるべからざることである。一家族がひろがって一つの国民になったということがもしあるとすれば、それがためにどれだけの世代と年数とがかかるか、ということを考えてみただけでも、このことはわかろう。あるいはまた、事実そうであるのではなくして、そう考えることがむかしからの国民の信念であった、もしくは現代人の思想上の要請である、というのならば、それもまた全くの誤りである。こういう信念が上代にあったらしい形迹は古典のどこにも見えていないし、現代における国家は家族とは全く性質の違ったものであることが何人にも明かに知られているからである。『古事記』や『日本紀』に見えている諸家の系譜には朝廷の貴族や地方の豪族の祖先やが、神代の神や後の皇族であるように記されているが、よしそれが事実であるとするにせよ、この系譜は一般民衆とは関係のないことであるのみならず、貴族や豪族やの祖先についてのこういう系譜は事実を記したものでなく、彼らがそれぞれその家がらを尊くしようとするために作られたものであることは、神代の神の性質や皇族の名やまたはこういう系譜そのものやを、少しくきをつけて考えて見れば、すぐにわかることである。だからこういう考えかたで日本の国家の性質を説明しようとするのは、何の根拠もないことである。また上代とても国家の政治には権力がなくてはならなかったので、その権力が家族を統制するのとは全く性質のちがうものであったことは、歴史上の事実によって明かであるのみならず、神代のイズモ(出雲)平定とかジンム天皇の東征とかいう物語の上にさえもあらわれている。だから日本の国家が家族国家であるというような考は、その本質のちがっている二つの生活形態である家族の結合と政治的権力による国家の統治とを混同したものである、といわねばならぬ。この思想はエド時代までは全くなく、メイジ時代になってはじめて世間に宣伝せられたものであって、日本が新に世界の多くの国家の間に立ってその地位を守ってゆくには、内部における国民的結合を固くしなければならぬために、その思想的根拠として思いつかれたことであるらしく、何ら学問的の研究を経たものではない。

なおこの思想と関聯して、『日本紀』にユウリャク(雄略)天皇の詔勅として記されているもののうちにある「義乃君臣、情兼父子」の語に日本の皇室と国民との関係の特色が示されているように説くことも行われているが、この詔勅というものは『隋書』高祖本紀に見えている高祖の遺詔を殆どそのままに写しとったものであり、そうしてその君臣というのは、君主とその君主から俸禄を与えられてそれに奉仕する官人との関係をいったのであり、民衆には全く関係のないことである。日本でも、君臣という語はそれと同じ意義に用いられていたので、臣は民のことではなく、ウマヤド(厩戸)皇子の作といわれているいわゆる十七条の憲法にも、臣と民とは明かに区別せられている。皇室と国民とを君臣という語でいいあらわすことは、エド時代の末期まではなく、メイジ時代になってから次第に世に行われるようになったが、これは語義が変じたものとして解し得られよう。武士の社会がくずれてその社会組織の骨ぐみになっていた君臣関係というものがなくなった時代に、そのもとの意義が忘れられて、こういう変化を来したのであろう。従って皇室を君としてそれに対していう場合の臣と民との区別はなくなり、帝国憲法にも臣民という一つの称呼が用いてある。今でも宮廷では、旧くからの風習により或る地位をもっているものが臣と称することがあるらしいが、一般の用例ではない。

話はわきみちへ入ったが、もとへもどっていうと、上記の『日本紀』に見える君臣の語の意義は明かであり、『隋書』において臣の語が民の義に用いてないことはいうまでもないから、上に引いた辞句によって日本の上代の国家が家族的精神によって統治せられていたように説くのは用語の意義を考えず、近ごろになって用いはじめられた意義でそれを解するところから来たものであり、そこにこういう考の学問的でないところがある。古典の用語は古典時代の意義によって解するのが、学問的の方法だからである。もっともシナには、天子は民の父母というような語もあるので、それがこの場合に思いよせられているのかも知れぬが、これは天子に対して民を慈愛すべきことを教えたことばであり儒教思想から出た考であるので、いわゆる天子によって統治せられることになっているシナの政治形態の本質がここにあるというのではない。シナでも儒教思想に反対する学派ではこういうことを説いてはいない。もしこの語をそのように解し、そうしてそれによってシナの政治は家族的であるとするならば、家族的精神で国を治めることは日本の特色ではないことになるが、もともと日本の皇室の政治が家族的精神によって行われたというのは、日本の国家の特色をそれによって示そうとするのであるから、こういう考はそれと背反する。然るにこういうことがいわれるのは、日本とシナとを混同する考の上に立っているので、その考は『日本紀』をはじめとして日本の古典に漢文を用いるシナ思想によって書かれたものが多いところから、それと日本の現実の状態とを弁別することなしに、みだりに何ごとかを主張するためである。そうしてそこにも、こういう考が、古典の文字と思想との精細なる検討を基礎ともしなければならぬ学問的研究を無視したものであることが、示されている。

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