Chapter 1 of 12

「実枝、年忌の手紙出しといたか」

奥の部屋で出勤前の身支度をしながらのクニ子の声がせかせかと聞えた。茶の間の実枝は赤い箸でたくあんを挾み、わざとゆっくりと前歯で噛みながら、

「ん」と、どっちつかずの返事をした。

「ん、じゃないでほんまに、まだ出しとらんじゃろ」

紫紺色の袴の後ろを引きずってもどかしい声で近づいてきた。いっしょに坐る朝食なのに実枝はいつでもあとになり、というよりクニ子の方が落ちついていずにかきこんで、お茶ものまずに立ち上るので実枝は自然取残されるのであった。ちゃぶ台に肘などついてゆっくり構えている実枝に、クニ子ははがゆそうなパリパリした語調で、

「ぐずぐずしとったら間に合わんぞ、もうあと二十日じゃないか。世帯もちは今日に今日と家をあけられへんてさっさと案内しとかにゃ」

浴せかけるようにいった。小学校の教師であるクニ子は奉職以来十年近くをずっと一年生ばかり受持たされていて、踊ったり歌ったり、とかく外光にあたる時間が多いのに、近ごろは他の組の体操まで持たされて年がら年じゅう紫外線を吸収しすぎている顔は、白い半襟の上で、実枝の言葉をかりると唐きび色に光っていた。

「出しときよっ」

「はいっ」

両方でかけ声のような叫び合いになったので二人はげらげら笑いだした。

今年はクニ子たちの祖母の十七年忌と、父親の三年忌に当るので、東京だとか神戸だとか広島などにちりぢりに暮している姉たちに来てもらい、先祖や亡くなった兄姉の菩提をも弔おうという末っ子二人の思いつきなのである。いわば、今まではお世話になりましたが、自分たちにもこんな世間並みなこともできるようになりました、という大人ぶった気持と、父親の葬式以来会わない姉たちに会いたいための甘えた計画でもあった。

クニ子は袴の後ろ紐を前でぐっと下げて結びながら腕時計を見、きゅうに慌てだした。

「実枝、ほらほら、弁当、弁当」

早口にそういって自分は足袋跣足で片足つま先立って下駄を出している。実枝も立ち上っていっしょに慌て、ほれ、ほれ、と台所の上り框に置いてあった弁当包みを渡した。傘をおおげさにふり、朴歯の日和下駄を踏石にかたかた鳴らして風を切るように駆けだすクニ子の後姿を見送り、実枝はふう、と声に出して息をついた。縁に腰をかけ、先刻とはあべこべに、

「やれやれ、せわしないこっちゃ、ほんまに」と、母親のような口ぶりで呟いた。

毎朝実枝にさんざん急きたてられるまでクニ子はひと時花畑に入りこんでジキタリスの花の数をかぞえてみたり、向日葵と背比べをしたり、薔薇の匂いに小鼻をうごめかしては悦に入ったりするのであった。家の前を真直ぐに通りの小径につながる敷石道を挾んで両側十坪ほどずつの空地にとりとめもなく草や木を植えこんだそこを、クニ子はおおげさに「花園」といった。季節季節の種を蒔き、花を咲かせることがクニ子にとっては時には教職と同じほどに大切であるらしく、一本一本の草や木は教え子へのような周到さで育てられていった。今朝も実枝は何べん呼びかけても家に入ってこない姉に、

「姉さん、明日があるがいやほんまに、えい加減にしい、味噌汁が冷めら」

ぼやきながら自分も「花園」へ近づいていくと、朝顔の移植をしていたクニ子は泥だらけの指先を払うようにして、手首で乱れた髪の毛を後ろへ撫であげ、

「そういうなっちゃ実枝、もうこれですんだんじゃ、今年や十五センチを咲かそ思てなあ、見よってみい」

人のよい笑顔で妹を見上げた。

「あきれた姉ちゃん、まだ顔も洗わんと!」

実枝にそういわれてばたばたと支度にかかったのであった。

朝顔といえば実枝は去年の夏のことが思いだされて、ふっふとひとりでに声がこぼれた。

「大変大変、実枝よ早よ早よ」と突拍子もないクニ子の大声に、まだ寝床の中でうつうつしていた実枝は何事かとはね起きて縁側にとびだすと、クニ子は隣りとの境界の朝顔の垣のそばで片手に巻尺を持ったまま相好をくずしてこちらへ猫まねきをし、

「実枝、まあ早よ来てみい、十三センチ五ミリあるがいや」

朝顔が直径十三センチ五ミリの花を咲かせたというのである。

「何ぞいや姉やんほんまに。くちなわでも出てきたんか思や」

そうはいいながら実枝は下駄をつっかけた。ぼんやりと淀んだような朝の空気の中で、しめりを含んだ垣根いっぱいに繁っている朝顔の葉のみどりの中に、瑠璃色の十三センチ五ミリは襞をゆるく波打たせ、赤や白の花々の群を抜いて大らかに咲いている。二人はそれに顔を近づけて眺めた。家の前の小径を朝畑に出る隣りの小母さんが目籠を背負って通りかかり、

「何ぞいな、早うから」と声をかけた。するとクニ子は「小母さん!」と、その方へまた手招きをしながら、普段と声をかえて、

「まあちょっと来てみてつかあされ、うちの朝顔がこんな大けな花を咲かしてなあ」

と、両手で輪をつくった。小母さんが近づいてくるとクニ子は巻尺を花の上でぴんとはり、十三センチ四ミリ半、まあ十三センチ五ミリじゃなあ、と笑顔を向ける。

「ほんになあ」と簡単にほめておいて小母さんはすぐにまた畑の方へ上っていった。その背中へクニ子は、

「来年はな小母さん、種子あげまっせ」

そして、裏の共同井戸の物音を聞きつけると、今度はそっちの方へ走ってゆき、

「下の小母さん、朝顔の花見に来てつかあされ。コノエさん、朝顔が十三センチ五ミリの花が咲いたんで、来てみい」

と、井戸端の年寄りや近所の嫁さんに呼びかける。コノエさんはもう朝畑をして戻ってきたらしく、桑の束を井戸の中へ吊していた。クニ子とは小学校から同級生でお互にあけすけなものいいのできる間柄であった。

「三十とはたちをすぎたおなごが二人、起きぬけでべべも着換えんとからに、十三センチ五ミリの朝顔じゃといや、聞いて呆れら」

冗談ながらそういわれるとクニ子ははじめて自分のなりに照れ、それでもコノエさんが妊娠の大きな腹をつきだして歩いてくるとほっとした顔つきで、

「そういいなさんなっちゃ、これ見たらなるほどと思わ」と、もう自慢で花のそばへ案内した。

そんな工合にクニ子の草花への心の持ち方は異常なものがあった。

今年もまた、クニ子の独り約束で蒔かれた朝顔は近所合壁の垣根や窓先に芽生えかけている。花にはまだ遠いがやがていっせいに咲きだすであろうし、そしたらクニ子は満足の顔つきで花に見送られてゆうゆうと出かけ、やがて夏も終りかけるころには葉鶏頭やコスモスなどにとりかこまれた家々の間の小径を、夕陽にまぶしく照りかがやくそれらの花を生徒を眺めるようににこやかに、胸を張って帰ってくるであろう。

そういうクニ子のことを、実枝はこのごろいろいろ考えるのであった。一昨年までは病気の父親を抱えて結婚したくもできなかったのでもあるが、それでなくてもクニ子は縁談が持ち上るたびにいやがった。

「あれはな、うちが先生しよらなんだら貰いに来やせん。うちの月給と結婚したいんで」

またある時は、

「実枝、聞いたか、男いうもんはあんなんど。やれ財産があるの、やれ何とか議員でござるの、まま子が三人あることは忘れとったように帰にしなに小んまい声でいうたなあ」

そういってふっふっと笑うクニ子。そしてこのごろでは仲人に立つ人がその話にかかると、

「あ、そのことでしたら私はもう結婚はしませんから」

と、ろくに話も聞かずに鼻先をへし折ることさえある。実枝が気をもみ、

「姉やんのように考えたら嫁さんに死なれた男は皆悪人ということにならあ、もっと考えようがあろうがいの」

「いいや、誰が何といおうとも嫁にはゆかんのじゃ、うちは男に養うてもらわいでも、みんごと食うてゆけるさかいな」

「ほんなら姉ちゃん、男に養うてもらうために嫁にゆくんかいや、誰でも」

「そうじゃ」

「ふうん」

お互にむらむらとした顔つきで黙り合う。

姉妹二人暮しの中で職業を持つクニ子に代って一家の主婦の役目を負わされている実枝はいわゆる世間というものをクニ子よりは知っていた。それに比べると文字どおり十年一日七つ八つの子供を相手に暮しているクニ子は単純で好人物なくせに、融通のきかないような一面をもっていた。世間の人はなぜクニ子さんは嫁に行かないのかと実枝にたずねる。そのたびに実枝は辛かったり、悲しかったりする。結婚生活というものが仕合せで通せるものかどうかそれは分らない。しかしクニ子のように再婚だから不幸だとか、その不幸が皆男のせいであるような考え方は実枝にはできなかった。それは実枝自身に恭平という将来の相手があるからであろうか。恭平は少し離れた村の農会に技手として働いている青年である。実枝はその恭平の日に焼けた顔を思い浮べるだけでも自分の仕合せが胸の底から湧き上ってくる。この仕合せをクニ子は知らないにちがいない。平気で花を作っているけれど、いつまでも平気で花に心を傾けていられるであろうか。あの花への愛情と熱情を、せめて半分だけ自分自身に向けることはできないのであろうか。あの情熱はちょっと方向をかえればもっと大きな喜びの中で、もっと大きな花を咲かせるかもしれない。実枝はどうかしてクニ子の肩をつかまえ、クニ子が背を向けているものに面と立ち向かわせたいと思うのであった。

Chapter 1 of 12