8 そこは灯もずっと華やかで 心配ごとも気がかりも、みんな忘れられる だから、でかけよう ダウンタウンにいれば、すべてが素晴らしい ほかに、こんな場所など あるわけがない あらゆることがあなたを待っている
〈ダウンタウン〉
ペトゥラ・クラーク
ふたりは、ピカデリーのまえで車からおろしてもらった。『メリー・ポピンズ』の予告が出ている。
「こんど、いっしょに、ここにこよう。親父のところにタダ券がくるから」
と、高志は劇場を指さしながら、めずらしそうに周囲を見まわしている慶一に声をかけた。
劇場のすぐそばで信号待ちをする。
いい天気だ。昨夜の雨も、すでにあとかたもない。
ふたりとも、車のなかで私服に着替え、高志は制服を車においてきたが、慶一は、制服の上下と黒い革靴をバッグに突っこんでもっている。
「レコード屋はどっち?」
「これをわたって、まっすぐいったところだ」
「ねえ、ここは伊勢佐木町でしょ?」
「そうだよ。見りゃ、わかるだろうが」
高志は、ばかばかしそうに、横断歩道のむこうに見える「ISEZAKI CHO」と書かれた、骨組だけの塔のようなものを、アゴでしゃくって示した。
「じゃ、不二家はこっち?」
と、背にした方向をふりかえって指さす。慶一は、何回かこの街にきたことがあるが、方向がよくわからない。
「ちがうよ、こっちだよ」
と高志は、両手をポケットに入れたまま、慶一が指さしたのとは反対になる、正面をアゴでしゃくった。
「じゃ、平和球場はこっちだ」
と、慶一は右を指さす。
「もォ、ちがうよ。いいじゃねえか、そんなこと。田舎モンだと思われるぞ」
慶一は、取っ手の下に派手なストライプが入った、じぶんのデニムのバッグを見おろした。
信号が青になった。
ふたりは飛び跳ねるように、先頭をきって横断歩道をわたる。
そのまま伊勢佐木町の通りに走りこもうとした慶一は、高志に左腕をつかまれた。
「こっちだ」
「どこいくんだよ」
「いいから」
高志は、信号のまえの角店に入っていく。マーケットのように、両側に店があって、通路になったところを抜けると階段があり、そこをのぼる。
二階には本屋があった。日本語の本はない。すべて洋書だ。
慶一は足をとめた。巨大な胸をした、赤毛の女の写真を表紙にした、「カウ・ガールズ」というタイトルの雑誌が、扇風機の風にめくれそうになりながら、棚に飾られている。
高志に腕をひっぱられたとき、慶一はじぶんが、表紙からはみ出しそうになった、とても人間のものには思えない胸を見つめていたのに気がついた。
高志は慶一をひっぱって、反対側の棚のまえに立たせた。
こっちの棚にある雑誌の表紙では、赤毛やホルスタインではなく、服を着たままのブロンド女が、カメラをあざけるように見ていたり、B-52が爆弾を落としていたりする。
高志は、表紙にハーマンズ・ハーミッツの写真を飾った雑誌をとりあげた。
「ガキ向けだけど、これは写真が多いからな」
そういって、高志はとなりにいる慶一にも見えるように、ページをめくってみせる。
「これ、このヤング・ラスカルズって、ほら、こないだナンバーワンになった曲のさ……」
高志は、子どものような服を着た大人たちの写真があるページを、慶一のほうに傾けてみせる。
「ああ、〈グッド・ラヴ〉?」
「ちがう、〈グッド・ラヴィン〉だ。ここに書いてある」
高志は、“The Beatles Monthly” という、薄くて小さい雑誌をとりあげて、カウンターの小太りのおばさんに差しだした。
慶一はまわりを見わたした。回転ラックには、裸の女のイラストを表紙にした、青い地の新書版の本がならんでいる。
「おい、いくぞ」
と、雑誌を受けとった高志が、ひとりで出ていく。
「なんだよ、もうちょっと見ようよ」
慶一は、階段のところで不満そうにいった。
「いいから。おまえ、家に電話すんだろ」
そこからすこし歩くと、一階をレコード売り場にした、大きな楽器屋がある。きょうのほんとうの目的はここだった。高志は、通りの赤電話を指さし、おれはレコードを見てる、といった。
慶一が電話を終わり、二階まで吹抜けになった、天井の高いレコード屋に入っていくと、高志はすでに、二枚のシングルを手にしていた。
ママズ&パパズの〈マンデイ・マンデイ〉と、スペンサー・デイヴィス・グループの〈キープ・オン・ラニング〉だ。
「これ、おまえのぶん」
といって、高志は〈キープ・オン・ラニング〉を慶一にわたした。これは、ラジオで聴いて、すごいすごいと大騒ぎした曲だ。
「おまえ、もう一枚、好きなのを選んでいい。きょうは金をのこしたいから、それでガマンしろ」
「なんで、お金とっとくの」
「いいことがあるんだ」
慶一はシングルの棚を素早く見ていき、結局、ホリーズの〈アイム・アライヴ〉を選んだ。
高志が見ている列のわきには、ジョニー・リヴァーズのLPと、マインドベンダーズの〈グルーヴィー・カインド・オヴ・ラヴ〉、シェールの〈バン・バン〉がおいてある。
「シェールなんか買うの?」
「わるいかよ」
「わるくはないけどさ、へんなメロディー。中近東みたい」
慶一は、ヤードバーズの〈ハート・フル・オヴ・ソウル〉といい、これといい、ビートルズといい、このところ中近東ばかりだ、と考えた。
「これはさ、歌詞がいいんだ」
「わかるのー?」
「わかりますよ。『ミュージック・ライフ』に大意がのってたじゃねえか」
高志は小さく笑った。
「なーんだ」
中間試験の英語は、慶一は九二点だったが、高志は九五点をとって、学年で二番だった。三点の差に、慶一は大きなコンプレクスを感じている。
それにしても、ワラの英語の成績がじぶんより悪いのが、慶一にはよくわからない。
「これくらいにしておくか」
高志は、慶一の二枚もいっしょに、カウンターにもっていく。
棚を見つづけている慶一のところにもどると、高志はシングルの袋を手わたした。
「おまえの二枚。家に帰ったら聴けよ。あした、忘れずにもってくるんだぞ。KWTSの備品だからな」
高志は、LPの袋をわきの下にはさみ、領収書を大切そうにサイフにしまった。
冷房のきいたレコード屋から出ると、外はムッとする。
「腹へったな」
と、ひさしの隙間から飛びこんでくる陽射しに、高志は目を細めた。
「うん、でも、もう帰らないと」
「なにいってんだよ。まだ、真っ昼間じゃないか」
「もう、四時半だよ。晩ご飯までには帰らなきゃ」
「大丈夫だ。一時間あれば帰れる」
高志はさっさと、入ってきたのとは反対の方向に歩きだす。しかたなく、慶一はそれを追った。
せまい道路をはさんだ、反対側の大きな本屋のまえで、中学生らしい女の子がふたり、なにかいいあっている。といっても、ケンカしているわけではなさそうだ。
慶一はそのひとり、花柄のプリントのワンピースを着た子の、頭のうしろでたばねた、長い、艶のある、豊かな髪の毛に見ほれた。
横顔を見せていたその子が、慶一のほうに正面をむけた。
かわいい。『ハニーにおまかせ』のハニー・ウェストは、中学生のころは、こんなじゃなかったのだろうか。かりに、そんなことができるとしての話だが、この子を二五歳にして、色情狂にしたら、ハニー・ウェストになるんじゃないか、という気がする。
その女の子が、こちらを見て、おどろいたような顔をした。すぐに、その表情がほほえみに変わり、手をふったので、慶一は仰天した。
「お兄さん」
と呼びかける幼いハニーちゃんに、慶一は思わず返事をしそうになる。
「おう、なにやってんだ」
そういって、いきなり高志が立ちどまったので、わき見をしていた慶一は、あやうく、ぶつかりそうになった。高志の返事におどろいて、そちらを見なかったら、たぶん、モロにぶつかっていただろう。
「高志の妹?」
「あれが弟に見えるかよ」
高志は、車がこないのを確認して、慶一を反対側の妹のところへひっぱっていく。
「おまえら、なにやってんだ」
ふたりの女の子を等分に見て、高志がいった。
「西口にいこうっていうのに、レイ子が帰るっていうの。この子、つきあい悪いのよ、高志さん」
と、もうひとりの髪をショートカットにした子が、わきからこたえた。短い髪に合わせたのか、男物のような、チェックのボタンダウンのシャツを着ている。
慶一は高志に、「レイ子って名前なんだね」といいそうになり、思いとどまった。
「そうか、もう、遅くなるから、西口はやめとけ。それより、おまえら、腹へってないか」
「へってる、へってる。おごって」
と、またショートカットが返事した。
「トモ子、おまえ、いまにブクブクに太るぞ」
トモ子は、イーだ、と鼻をクシャクシャにし、長いひものついた、巾着の親玉のようなバッグをふりまわし、高志を一撃した。
「お兄さん、うちによってきたの?」
と、レイ子が高志の私服姿を見とがめる。
「まあな。レイ子、こいつは――」
と、慶一の袖をつまんだが、レイ子は、
「あ、わかったわ。いわないで、あてるから。――慶一さんでしょう?」
と、ほほえみかけた。
レイ子に名前をいわれたので、慶一はおどろきのあまり、紹介されたら披露しようと思っていた、とっておきの微笑を引っこめた。
「あたり」
「いつも、兄からお話をうかがっています。兄がたいへんお世話になっております」
といって、おとなのように頭を下げる。
おそろしく大人びた挨拶をされたので、慶一は、いや、とか、そんな、とか、なにか不明瞭な、しり切れとんぼのことばを口のなかで転がした。
なんて、きれいな髪なんだろう。近くで見ると、ハニー・ウェストには似てない。どちらかといえば、髪を黒く染めたパティ・ボイドという感じだ。
「こっちはトモ子だ。しようのねえ跳ねっ返りだ」
高志が、もうひとりを紹介する。
トモ子は、慶一にぺこりと頭をさげてから、高志にむかって舌を出し、またバッグをふりまわしたが、こんどは高志もこころえていて、ひじでブロックし、バーカ、と笑う。
「よし、ハンバーガー食いにいこう」
四人は伊勢佐木町通りを出て、堀割にかかった橋をわたった。国電のガードをくぐり抜けると、ファサードが丸みをおびた、異常に縦長の濃灰色のビルがある。
それを見て、慶一は、ここにはきたことがある、と思った。どことなく鉄人28号の顔のようなこのビルのたたずまいと、「帝国秘密探偵社」という名前は、印象にのこる。
さらに、架線をはりめぐらせた広い道をわたった角にある、赤白の浮き輪やロープを飾った、カウンターだけの店に、高志は三人をみちびいて入った。
奥から、慶一、高志、トモ子、レイ子の順に留まり木に腰を落ちつけると、
「みんな、バーガーでいいな」
と、高志が宣言した。
「あたし、チーズバーガーも。もちろん、バーガーもだけど。それにストロベリーシェイク!」
と、トモ子がいう。
「わたしは、ハンバーガーをひとつ。それと、冷たいコーヒー」
レイ子が、ひとつといったことに、慶一は安心した。
「おまえは?」
高志は、壁に張られたメニューを、めずらしそうにながめている慶一をうながした。
じっさい、慶一は、こんな店に入ったことがなかった。「サブマリンサンド」とか、「チーズバーガー」とか、「ペストリー」とか、「ワッフル」とか、知らない食べ物ばかりだ。
「ぼくもひとつでいい。飲み物は……コーラかな」
「チョコレートシェイクにしろよ」
と、高志が押しつける。
慶一は、いったい、それはどういうものなんだろうと思ったが、いいよ、それで、と返事をし、店内をさまよわせていた目を、外の広い交差点にむけた。ここも見覚えがある。
「高志さんとおなじ学校なんですかぁ」
というトモ子の質問が、じぶんにむけられたことに気づいた慶一は、高志のむこうに坐ったトモ子に顔をむけ、うん、とこたえながら、視線をすこしそらしたとたん、そのむこうのレイ子と目が合ってしまった。
「学校、どんなですか。あたしも、あそこに入ろうかなって、思ってるんですけど」
というトモ子のことばで、慶一はレイ子から目をそらした。
「まだ、来年から女子を入れるって、決まったわけじゃない。だいたい、おまえはウルサイから、こなくていい」
と、高志が口をはさんだ。ということは、ふたりとも六年生か、と慶一は納得した。
「ヘーンだ。高志さんと話してんじゃないもーん」
トモ子は、慶一の名前を忘れたようだ。慶一さんと話してんだもーん、とつづけたかったらしい。
よく見ると、レイ子は、ハニー・ウェストなんかにはまるで似てない。唇の右下にある小さなほくろが、そんな印象をあたえただけだ。この子は、大人びているけど、清潔だ。
慶一は、レイ子をじぶんの理解できる範囲に収めようと、頭のなかで「美人名鑑」をめくった。
フランス・ギャル、芦川いづみ、シェリー・フェブレー(ワラの発音だとシェリー・ファーベアズだけど、そんな名前で〈ジョニー・エンジェル〉を歌っているすがたなんて、どう考えても想像できない)、パティ・デューク、浅丘ルリ子、シルヴィー・ヴァルタン、マリー・ラフォレ……。どうも、ちがう。
慶一の頭に、さっきから気になっていたことを探りだす手順がひらめいた。
「トモ子ちゃんて、どういう字を書くの?」
ミキサーがうなりをたてるので、慶一は大声をださなくてはならなかった。
こいつは、ちゃん、なんて代物じゃないよ、という高志を無視して、トモ子は、
「知ってる子って、書くのよ」
と、にこやかに慶一を見る。
なんも知らねえクセして、という高志のわき腹を、知子がヒジでえぐった。
慶一がほんとうにききたかったのは、レイ子の字だった。これで、自然にレイ子に尋ねられる。
「ぼくは、慶応の慶に、数字の一で、けいいち。レイ子さんは? どういう字?」
ミキサーが止まり、大声でいった「レイ子さん」が宙に浮いてしまい、慶一はあわてた。
「おい、知子、きいたかよ。おまえは “ちゃん” なのに、レイ子は “さん” だってよ。ナメられたぞ」
と、高志がニヤニヤしながら、知子にいう。
「いいんだよ。なれてるもん。レイ子といるとさ、いつも差がつくんだってば」
慶一は、大失策に舌を噛みそうになった。
「あの――」と、レイ子はことばに詰まる。
「命令の令だよ。ほかにいいようがないのに、こいつは命令の令っていうの、いやがんだよ」
と、高志がかわりにこたえる。
じぶんがスペードのエースを握っているのに気づき、失策をとりもどせそうだと、慶一はうれしくなった。
「そんなことないよ。令嬢があるじゃない」
知子が、キャッハッハと素っ頓狂な声で笑った。
令子が真っ赤になる。
「それはいっちゃいけないの。まえにも、こいつに笑われたんだとよ」
と、高志が知子の二の腕をつついた。
また、ミキサーがまわりだした。
「だってえ、じぶんで令嬢なんていうからさあ」
と、知子がまた笑う。
一二塁間突破をねらったヒットエンドランは、ライナーになって、ジャンプした二塁手にとられ、飛び出した一塁走者も刺されて、一瞬にしてチェンジになってしまった。
全員のまえに、つぎつぎと飲み物がおかれていき、慶一は救われたような気になった。
そのチョコレートシェイクという飲み物を、白地に赤のダンダラがついたストローですこし吸いあげた慶一は、困惑を忘れた。
これは、うまい。高志が、これにしろというわけだ。
つづいて、ハンバーガーがおかれていく。
チーズバーガーというのは、どういうものかと、慶一は知子の皿を見た。ハンバーグの上にチーズがのっている。それで、チーズバーガーか。なーんだ。
〈アイ・ゲット・アラウンド〉を歌いながら、高志はハンバーグの上に、トマトとたまねぎの厚いスライスをのせ、カウンターにおかれた真っ赤なチューブをとってしぼった。
うれしそうだ。こういうときは、さすがの高志も年相応に見える。
そのチューブを高志が黙ってわたし、慶一はトマトとオニオンのスライスをのせ、ケチャップをかけた。
高志は、こんどは黄色いチューブをしぼった。マスタードを慶一にわたそうとして、そのバンズが閉じられているのを見た高志は、
「おまえ、マスタードつけろよ。抜きはガキだぞ。いつもつけないんだからな」と、とがめた。
慶一は、いいんだよ、といって、その厚いハンバーガーにかぶりついた。
令子は、ものすごく真剣な表情で、バーガーをふたつに割っている。その指が細く、すっと伸びているのに、慶一は気づいた。
令子に見とれていた慶一は、突然頭のなかで、令子の指と、バーガーの味が、スウィッチを切り換えたように入れ替わったので、むせそうになった。
このハンバーガーは、とんでもない!
「これ、うまい」
慶一は、小さな声でいった。
「気に入ったか」
「うん」
あっ、高志がわかりきったことを質問した、と思ったが、なにもいわずに咀嚼をつづけた。
「じゃ、二、三個もって帰れ」
と、慶一の返事もきかずに、
「すいません。バーガーを四つ、テイクアウトにしてください。マスタード抜きで」
と、レンジのまえに立っている女の子にいった。
カラシ抜きで食べたことを、慶一は後悔した。
「いいよ、いらないよ」
そういいながらも、慶一は「テイクアウト」ということばを記憶しようと、頭のなかで転がす。
「いいから。もう、たのんじゃったよ」
慶一は、また十字路を見た。
「おまえ、さっきから、なに外ばっか見てんだよ」
「考えてたんだよ」
「なにを」
「この道をさあ――」
と、慶一は左手にバーガーをもち、右手で外の通りをさした。
「この道をあっちにいくと、球場じゃないの?」
「バーカ」
「ちがった?」
「あってるさ。なんだっていうんだ。地図でもつくる気かよ」
たしかに、その道のつきあたりには、かつてのゲーリッグ球場、いまの平和球場がある。
知子が、あした、午後から西口にいこうと、令子に話しかけている。
もち帰りのハンバーガーが四つ入った、白い紙袋が出てきて、高志がそれを受けとり、全員のぶんの勘定を払ってしまう。
「よし、じゃ、おまえらも慶一を送るのにつきあえ」
高志が立ちあがりながら、知子と令子にいう。
慶一は、夕食までに帰らなくちゃ、などといったことを後悔した。
「令子、慶一は荷物が多いから、おまえ、これ、駅までもってってあげな」
と、高志はバーガーの袋を、立ちあがった令子にわたす。
令子は、三つにたたんだ口のところを右手でもち、左手を袋の底にそえて、たいせつそうにかかえて、出口にむかった。
球場のほうにむかう横断歩道は、信号が赤になっていて、さきにいった令子と知子が立ちどまる。
外にあるウィンドウを見て、慶一は納得した。サブマリンサンドというのは、大魔神のホットドッグのようなものだ。こんなの、だれが食べるんだろう。
「おい、令子、知子、ちょっと待った」
といって、高志は左側に頭を倒して、こっちへいこうと、馬車道通りのほうを示す。
「慶一、あと五分ぐらい、いいだろう」
「うん」
その方向には、『スパイがいっぱい』という映画の看板が見えている。さっき、店に入るときにも、それは気になっていた。
高志はどんどん、そちらへ足を運んでいく。
ふりかえってみると、令子たちも歩きだしたので、慶一もそうした。
「映画なんか見る時間、ないよ」
と、慶一は高志の背中に声をかけた。
「五分でどうやって見るんだよ」
高志はふりかえらずにいう。
映画館のわきで立ちどまった高志が、おい、といってポスターを指さした。
それは、「近日上映」という細長い紙が貼りつけてある、ビートルズの四人の背中に、残像のようなものがついているポスターだった。そのとなりには、黒ずくめの四人が、真っ白な背景のなかで、てんでに手をひろげているポスターもある。
「今月の二十六日からだね」
高志は苦笑した。見りゃあ、わかる、といいたいのだろう。
「おまえ、もういちど見ないか」
「うん。いいよ」
武道館のささやかな埋めあわせだ。
「あたしも!」
と背中で、知子の声がする。知子は令子に、あんたもでしょう、といっている。
慶一がふりかえると、令子は知子にうなずいていた。
高志は、二十六日が火曜で、水、木、などとつぶやいている。
「じゃ、いちおう、二十八日の木曜の朝いちばんにしよう。オーケイ?」
知子だけが、元気よく、わーい、やったあ、と返事する。
そこから関内駅までのわずかな時間、慶一は令子と肩をならべ、ぎこちない、とぎれとぎれの会話を交わした。
「学校は?」「六年生?」、「ええ」といった、高志なら、「無意味」と一蹴するはずの会話をだ。
改札口で、慶一は困惑した。左手にバッグ、右手にレコードをもって、令子がわたそうとするバーガーの袋を見つめた。
「レコードをバッグに入れろ」
高志は、うんざりした顔だ。
「だって、クツが入ってんだよ」
「大丈夫だって、割れないよ」
慶一には、靴といっしょにレコードを入れてはいけない、立派な理由があった。そんなことをしたら、レコードに失礼じゃないか!
ほかに方法がないので、あきらめて、慶一はバッグを開いた。できるだけクツとレコードが離れるよう、ごそごそやりながら、みっともなさに、顔から火の出るような思いを味わった。
「いいな、二番線に乗れば、どの電車も横浜にいくから、わかったな、大丈夫だな」
「わかったよ。ガキじゃあるまいし」
「反対側の電車に乗ったら、磯子が終点だ。引きかえせばいいんだからな」
「大丈夫、磯子なんか、いかないってば」
いくわけがない。階段が目のまえに見えているっていうのに、どうやってまちがえろっていうんだ。
女の子ふたりがクスクス笑って、高志のうしろから見ているので、慶一はすこし頭にきた。
「それ、温めなくてもうまいけど、オーヴントースターかなんかあるなら、ちょっと温めろ。今晩中に食べるんだぞ」
「うん」
「じゃあな。知らないおじさんに、ビートルズを見せにつれてってやる、なんていわれても、ひょこひょこついてくんじゃないぞ。もう、まにあいっこないんだからな」
「わかってるってば、そんなバカじゃないよ」
慶一は忘れていた。これから、日本で最後のステージに立つはずだ。あしたはフィリピンにむけてたつ。
「ねえ、あした、羽田にいかない?」
「ダメだ。うちの用がある。それに、空港へいったって、豆粒が手ェふってんのが見えるだけだろうし、オマワリと女どもがうるさいだけだ。おまえ、ひとりでいったりするなよ」
慶一はあきらめた。今回は縁がなかった。来年か、再来年には、みんなで見にいこう。ハガキをたくさん出せば、きっと当たるだろう。
帰宅を急ぐサラリーマンが、慶一に突き当たった。それをしおに慶一は、じゃあ、と手をふった。
階段を昇りきって、ホームに立つと、そこへ電車が入ってきた。
左手にレコードの入ったバッグ、右手にハンバーガーをもっているので、混んでいたらどうしよう、と思ったが、幸い、空いてはいないものの、押しつぶされるほどには混んでいなかった。
慶一はドア際に立って、走りだした電車から、一瞬だけ見える下の通りに注意した。だが、三人のすがたは、どこにも見えなかった。
ハンバーガー屋を出たときには、まだ昼間の感じだったが、もう、太陽がビルのかげに隠れる寸前で、西側にいる慶一を、正面からオレンジ色に染めあげる。
舎監室に呼ばれたのがきのうの夜だなんて、信じられない気がした。きのうからきょうにかけて、いろいろなことが起こりすぎた。ものすごく長い二十四時間だった。
ビートルズはどうしてるかな、と考えたとたん、たいへんなことに気づいた。
いまこうして電車に乗っているということは、きょうの切符をもっていれば、見にいけたんだ!
はじめからあきらめたのが、まちがいだった。こんど来日するときは、なにがなんでも申し込まなくちゃ。
もう、昼までの憂鬱は吹き飛んでいた。
バッグには二枚のレコードが入っているし、いままで食べたこともないすごいハンバーガーを、四つももっているし、あんなかわいい子とも友だちになったし、来年か再来年には、ビートルズも見られるだろう。反省文を書くのも、もう、それほど苦には思えない。
夏の夕方、高架線路の湾曲に沿ってながめるこの街は、ほんとうにきれいだ。