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幾何学と空間
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幾何学と空間
戸坂潤
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번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 2 of 4

二

私は量的幾何学を借りて幾何学に於ける数の権利を検べて見たい。数の算法の体系ともいうべき代数が屡々幾何学の図形に応用され又図形が代数の問題の解決に補助手段を与えるということは誰しも知っている。代数と幾何学とはこのように密接に関係しているのであるが、少くとも図形が代数に応用される点は今の問題とは縁がない。反対に代数が図形に応用されるとは如何いう意味に於てであるか。例えば代数的方程式によって幾何学的図形に関する解決を求めるとき、吾々はその方程式の幾つかの根の内で恐らくその一部のものを意味あるものとして採用し他のものを意味のないものとして捨てるであろう。即ち代数的方程式はこの場合それ自身では与り知らない或る外的条件によって制限されていなければならぬ。それ故之は単なる応用に過ぎない。応用とは自らの原理以外の原理によって支配されることをいう。今一つの二元一次方程式を考えるのに、この解法は不定なのであるから、之を応用して図形の問題を解くことは出来ない。然るに同じ方程式も解析幾何学に於ては直線の方程式となる。即ち解析幾何学の方程式は一般にある図形を意味する。之は少くとも向の単なる応用と同じではない。併しそれにも関らず、図形を意味する方程式の一定の形、即ち変数と常数との一定の結合はその原理を矢張り代数的方程式以外に求める外はない。それ故之とても代数の一種の応用――前の定義に従って――と見なければならない。クルノーが詳しく指摘しているように解析幾何学は代数そのものによっては尽すことの出来ない或る特異なものを条件として含んでいる、ということをもはやこれ以上説明する余地はないと思う(Cournot, Correspondance entre la Gomtric et l'Algbre)。代数と解析幾何学との関係を成り立たせている問題は寧ろ座標の中に潜んでいる。座標は一般に数と空間との、云い換えれば数値と点との一対一の対応である。解析幾何学に於ては特に座標は一つの数値と一つの点との一対一の対応となる。今このような対応関係が如何にして可能となるかという問題には触れぬとしても、その事実上の根拠は少くとも、数の連続と点の連続とが一致するということにある。云い換えれば連続という要素関係―― Typus ――に於て数と空間とが同一となるという処にある。更に云い換えれば連続に於て数も空間も或る意味で完備する(vollstndig)という点にある。このように考えると数と空間とは少くとも連続という概念に於ては全く区別が出来ないと云わねばならぬ(私は空間という言葉を何の用意もなく用いて来ているが、之と幾何学との関係をまだ何処にも与えていないから、之はまだ意味の不定な言葉に止っているということを忘れてはならぬ)。然るに連続とは系列の有つ一つの型(Typus)に外ならない。それ故立ち入って云うならば数の系列と点の系列とが連続という型を共有するということである。この事実に基いて数の系列と点の系列とが対応する。これが座標の意味に外ならない。それでは解析幾何学の座標と――それは点系列の体系である――数の系列の体系とは同一であるのか。否。リーマンがかの有名な就職論文(Ueber die Hypothesen, ……)に於て解析幾何学の対象を一般に「n次の多様」と考えたが、彼によればこの次元は Vernderlichkeit に外ならないから、一次元は変数の一系列に外ならない。それ故「n次の多様」とは変数のn個の系列の総体そのものである。処がもし系列のこの総体が数そのものの要求する系列体系と同一であると仮定すれば恐らくそれは実数と虚数とのかの関係――複素数の概念――でなければならぬ。然るに複素数の概念を如何に拡張するにしても実数と虚数との間には等方性の関係は成り立たない。二点間の距離は横にするも縦にするも変りはないがととは等しくない。のみならずnは任意の自然数であるが、数系列の体系が任意の次元に拡張され得るか否かに就いては多くの疑問が残されていると思う。それ故リーマンの「n次の多様」と数系列の体系とは同一ではない。即ち解析幾何学の対象は数体系によっては尽すことの出来ない特異なものを含んでいることは否定出来ないこととなる。このことは幾何学の計量に於て発見される処の絶対的な単位の存在によって徹底的に証明されるであろう。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とに於て三角形の内角の和は云うまでもなく同一ではない。併し同一でないためには角の計量の単位が共通でなければならない。かかる共通の単位はπであることを何人も知っている。然るにπを直径と円周との比――円周率――と定義するのであってはそのような計量関係は何れの幾何学に於ても同一であるとは云えない。事実ユークリッド幾何学の円周率と非ユークリッド幾何学の夫とは異っている。凡そπを角以外の計量関係の上に基ける以上それは決して共通とは云えなくなる。共通であるためには角そのものの上に基く必要がある。πとは平角である。然るに平角は直線の概念と共に絶対的であることを注意しなければならない。即ち角の計量に於て計量にとっては一つの偶然なものとして、云い換えれば計量はするが併し決して計量されない処の或るものとして平角が与えられるのである。勿論角そのものは計量される――数によって量られる――が計量の根拠となるものが再び角自身でなくてはならぬ。茲に角そのものと計量そのものとの、即ち角と数系列との、独立が云い現わされている。角を含む幾何学的対象は数体系から独立である。長さの単位の絶対に就いて最後に一言しよう。例えばリーマンの幾何学に於ては直線は有限である。それ故有限なる直線そのものが長さの計量の単位となることが出来る。之は一定の空間曲率によって代表される。素より空間曲率一般は純粋に解析的に定義されなければならぬであろう。併しそれが長さの絶対的単位となるためにはもはや空間曲率一般ではなくして、或る一定の値を持った夫であることを予想しなければ無意味になって了う。言い換えればこの絶対的単位とは数系列に於ける此又は彼の一定の数値を指定することである。然るにこのような絶対性、数系列にとっての偶然性は何を意味するか。それは空間曲率という数体系からは独立の要素が幾何学に於て欠くことの出来ないものであることを最も直截に物語っている。さて私は解析幾何学に於ける数の権利を決定した。それによれば数は解析幾何学の内容を尽すことは出来ない。已に解析幾何学に於てすら数の権利は否定的なのであるからして一般に幾何学なるものの内容が数に還元され得ないことは明白である。リーマンの「n次の多様」や所謂 Lehre von ausgedehnten Mannigfaltigkeit(Klein を見よ)の内容が縦え幾何学的表象から全く自由であるとしても数以外のものから来る原理的な制約によって条件づけられてあることを見逃すことは出来ない。之が今の場合の結論である。又私はこの結論から更に次のように推論することも出来る、故に量的幾何学は幾何学に固有なものの本質をば必ずしも直接には示さない、従って質的幾何学を考察することの方がより便宜であり又より確実である、と。之によって何故に幾何学を解析的に分類することが非本質的であるかという劈頭の問題も自ら解決されるのである(一を見よ)。

然るに茲に一つの疑問が残されている。数の権利とは云うが私の取り扱った処の数は、吾々が定義することなくして常識的に数と呼んでいるもの――それは何かの内容を含む処のものである――に外ならなかった。処が数学者の数概念は之と同じではない。在るということ以外には全く無内容な所謂要素(Elemente)に一定の公理を与えて定義された一つの要素体系、之が数である。このような要素体系としての数の権利はまだ決定されていないではないか、之が残された疑問である。それ故前の問題は拡張されてこう変形される、一般に任意の要素体系―― Menge, Ring, Gruppe, Krper, etc. ――が幾何学に於て持つ権利を決定せよ、と。併しこの新しい形の問題も数に就いては前の考察をそのまま繰り返す結果となる。何となれば右のように定義された数――それは範疇的である――も実は吾々が常識的に持っている数概念と対象としては全く同一なのであるから。けれども新しい形のこの問題は他の方面に於て一つの新しい考察を要求する。というのは数体系を外にして幾何学と密接な関係を有つ要素体系は云うまでもなく群である。問題は群が幾何学に対して持つ権利を決定することに移る。群の幾何学的図形に対する応用として屡々図形の回転が論じられる。図形の回転が一つの不連続群をなすことは可能である。併しながらそれは応用と云うよりも寧ろ或る種の群の例であるに過ぎない。吾々の問題は群が幾何学そのものに対する応用にあるのである。普通幾何学は群論に還元されると云うのであるが、吾々は之をどれ程の意味に解してよいか。ヘルムホルツは「自由なる運動」という概念を用いて計量幾何学の基礎を築いたが、この運動とはリーによれば一つの連続群、即ち一種の変換群(Transformationsgruppe)と考えられるべきものである。リーマンが曲率に基いて与えた計量幾何学の分類はこのような変換群の相違を規準として行なわれる(Lie, Transformationsgruppe. 3)。更に一般的に云うならば凡ゆる幾何学は変換群なるものの種々な性質を規準として分類されねばならぬ(一を見よ)。さてこの変換群とは何か。群は一般に、一つの同一要素と逆要素を含み任意の要素の積が一つの要素となるような要素体系、と定義される。変換群はこのような一般的な群の特殊のもの――要素が変換である処のもの――と考えられるのは云うまでもない。今その要素Aは変換「すること」そのことに外ならないが併し変換するためには予め変換されるものがなければならぬ筈である。何物かが変換されるのでなければならぬ。今もしこの「何物か」が他の一つの要素Bであるとすれば、AはBに依存することとなって之は無意味に終って了う。それ故この「何物か」はA自身に就いて見出されなければならない。この意味に於ての変換される「何物か」が必要となる。処がこのことは一般的な群そのものにとっては不必要であると云わねばならぬ。即ち之は変換群に付加された特殊の内容に外ならない。この特殊の内容とは何か。今この特殊内容を一般的に決定する代りに一つの条件を入れて考えて見よう。即ち適当な――吾々が常識的に幾何学と呼んでいる処のものを成り立たせるような――変換群を撰ぶとき、それは Untergruppe として、最小の群即ち主群を含んでいる。私は主群によってこの特殊内容の一端を窺いたい。主群とは運動、相似変形及び Spiegelung、並びにこれ等の結合からなると考えられる変換群をいう。併しこの運動は運動するものがなければ意味がない。縦え図形を予想しないまでも少くとも位置というものだけは許さなければならぬ。他の二つに対しても同様に夫々絶対的な大きさ及び要素の順序を許す必要がある。そして許さなければならぬこの三つのものこそ主群が有っている所謂特殊内容に外ならない。更に主群に於てそれ自らに変換する要素――同一要素――を考える時、例えば運動に就いては位置の不変が丁度之に相当するであろう。併し位置の不変ということは無限に多く――此処にも彼処にも――あると云わねばならぬ。然るに群の同一要素は定義によれば唯一つの筈である。処が矛盾とも見えるこの結果は却って変換そのものと変換されるものとの区別を明らかにするものに外ならないと思う。之が特殊内容である。それ故変換群は少くともこのような意味での特殊内容を含む可能性を有っていると云わなければならぬ。変換群が幾何学の根本的概念となるとすれば、茲に群そのものの外から之に付加された偶然な内容が潜入しているのを見逃すことは出来ない。であるから幾何学が群論に還元されるということは少くともそれが群論の総論に還元されることではない。事実幾何学はクラインの云うように変換群に就いての不変量理論(Invariantentheorie)なのである。即ち変換論とも云うべきものなのである(上掲著書参照)。然るにこの不変量とは何か。変換によっては変換されないものがそれである。処が変換自身は変換によって変換される群の要素に過ぎない。それ故不変量は変換それ自身以外のものに求められねばならぬ。然るに変換それ自身以外のものとは前に決められてあるように変換される処のものに外ならない。不変量は変換される処のものの内に求めなければならぬ。即ち不変量とは変換される処のものの間に於ける不変な関係であるより外に道がない。それ故不変量は向に変換群に於て見出された「何物か」の内容の一部である。不変量とは変換される処のものと共に、変換群の所謂特殊内容を成り立たせるものと云わなければならぬ。再び主群を借りて之を説明すれば、運動という変換に於て、変換されるものは位置であった。今運動という変換によって変換されない不変的な関係を求めると一定の図形というものが之に相当するであろう。図形は運動(変換)によって位置(変換される処のもの)を変えるが図形(変換に於ける不変量)自身は変らない。運動なる変換群に於ける特殊内容、それは位置と図形の外ではない。さて特殊の内容を此の点まで規定することが出来た以上、幾何学の対象が群乃至群論に還元されるということは一つの見落すことの出来ない条件を加えた上で始めて許される、ということとなる。茲に群が幾何学に対して持つ権利の限界があると考える。之がこの場合の結論である。群が何故に幾何学の本質的な分類を与えることが出来ぬかと云う理由は又この内に含まれている。

この結論と前段の数に関しての結論とは更に次の帰結へ導く、幾何学はそれ自身以外の要素体系の内に属することは出来ない、と。従って吾々は自ら、幾何学という要素体系が在るか無いか、在るとすればどのような特質を持った要素体系であるか、の問題へ逢着する。然るに射影幾何学が存在するということ自身が問題の前半を決定している。従ってただ、幾何学は要素体系としてどういう特徴を有つか、の問題だけが残るのである。幾何学の要素は普通点、線、面などと考えられる。ユークリッドによれば、点は部分のないもの、線は幅のない長さ、等と定義される。この定義は点や線を説明して吾々へそれを容易に表象出来るように教えるものである。之によれば幾何学の要素は経験乃至直観から由来することとなる。併しこのような経験的な乃至は直観的な内容を持つと考えられる要素は、幾何学を一つの要素体系と呼ぶ意味での要素ではない。何となれば数学に於ける要素とは丁度このような内容をば含まないものであった筈であるから。それ故今の場合点、線、面などの概念はそれ自身には無内容なものであることを一応承認しておく必要がある。要素は undefined term である。その上で之を概念的に――直観的にではなく――即ち純幾何学的に改めて定義しなければならない。この定義が即ち公理――法則ともいう――に外ならない。公理が経験乃至直観に由来するであろうとは恐らく多くの人々の信じる処である。権威ある数学者にも之は決して少くはない。公理は「自然物」の「観察に直接に基く」(Pasch, Vorlesungen ber neueren Geometrie, S. 16-17)とも、自然物の観察からの抽象である(Schur, Grundlagen der Geometrie)とも考えられよう。私はこれの真偽を決定しようとは思わない。唯だ此の人々は何故にかくなくてはならぬかを証明することなくして単に常識的にかく主張するに過ぎない。この問題は幾何学自身にではなくして幾何学の Genesis ――それは幾何学の推論の内には少しも姿を現わさない――に属しているのであるから、勿論之は此の人々への批難とはならない。と同時に之は又此の人々に何の論拠を提出するものでもない。であるから此の人々は、幾何学の公理は経験乃至直観と何の関わる処もなく唯だ数学者の任意によって産まれるものである、という主張――公理主義――に対して戦う武器を有ってはいない。実際幾何学に於ては経験乃至直観の「事実」に表われない公理、又はそれと矛盾する公理を構成する自由がなくてはならぬ。併しそれであるからと云って公理が全く任意に構成されたものであるということには決してならない。例えば二点が一直線を決定すると云う時、それが何故二直線を決定してはならないのか。点、直線などと云う要素が全く未知の概念である以上之は論理的な矛盾を含む筈はない。それにも関らず後半の仮定が幾何学を構成するのに不適当――不便であるからか否かは知らない――であるとして斥けられるとすれば、このように選択を与える何かの標準がなければならない。とは云うもののそのような標準は公理の内からは少くとも直接には見出せない。処が幾何学はただ一つの公理からは、即ちそれからの直接推理によっては体系を構成することは出来ない。幾何学は公理体系に基く。それ故求められた標準は公理体系、云い換えれば公理と公理との関係に於て見出されるであろう。然るに公理と公理とは互に矛盾しないという条件の下で互に独立であるから、どの公理とどの公理とを選ぶかは又一つの任意とも考えられる。併しもし之が任意ではないということが証明されたとすれば、如何なる公理を如何に選ぶかの標準が一遍に発見されるわけである。私はこの証明を試みよう。まず形式的に三つの異った要素をA、B、Cとして適当な条件の下に、

┌(一)二つのAが一つのBを、

(1)│(二)三つのAが一つのCを、

│(三)二つのCが一つのBを、

└(四)三つのCが一つのAを、決定するものとする。今AをCによって、CをAによって置き代える時には(1)は(三)(四)(一)(二)の順序となるだけであるから(1)そのものは不変である。処が(四)の代りに

(四′)二つのCが一つのAを決定する、を置き代え、(1′)即ち(一)(二)(三)(四′)に前の変換を行うと(1′)は

┌(三)二つのCが一つのBを、

(1″)│(二′)三つのCが一つのAを、

│(一)二つのAが一つのBを、

└(四″)二つのAが一つのCを、決定することとなり、(1″)の(二′)と(四″)は夫々(1′)の(四′)と(二)とに矛盾せねばならぬ。のみならず、仮設によってBとCとは異る筈であるのに、(一)と(四″)とからしてB≡Cでなければならなくなって、茲にも矛盾が生じて来る。即ちこの変換は(1′)を不変のまま残さぬと共に又変換の結果をも矛盾に陥れて了う。以上のことは次のことを云い表わしている、「要素ABCを含む公理体系がAとCとの交換によって不変であるためには」少くとも(1′)のような公理体系を選んではならない、且つ少くとも(1)を選べば充分である、と。云い換えれば括弧内の条件はABCの公理体系を選ぶ標準に外ならない。今Aを点、Bを直線、Cを平面とすれば、括弧内の条件は点と平面との双関性(Dualitt)となる。それ故双関性は幾何学の公理体系を選ぶ時に必要な標準――少くともその一例――であることが明らかになる。一般的に云えば幾何学者の任意も特定の公理を特定の仕方に於て選ぶ限りに於て許されるに過ぎない。この特定という関係が偶々――その根拠は後で与える――公理を経験乃至直観に由来するものと考えさえ又要素を経験的な乃至は直観的な内容あるものと思わせたのである。幾何学には単なる任意によっても尽されない処の固有なもの――幾何学的なるもの――がある。茲に任意とは論理的矛盾を含まぬこと、云い換えれば思惟の可能性を意味する。故に幾何学的なるものは思惟の可能性に対する或る種の制限を云い表わす。幾何学はそれ故思惟によっては尽すことの出来ない何物かを持っているという結論に私は到着することとなる。

思惟は幾何学に於て思惟ならぬ或るものに逢着することが明らかとなった。思惟ならぬもの、之を私は一般に直観と定義する。幾何学の基礎には直観がなければならぬこととなる。然るに凡ゆる要素体系――数学の対象一般――には同じ意味で直観が潜んでいると想像出来る。もしそうでなくして直観はただ幾何学にだけ特有のものとすれば問題はない。今仮りに幾何学以外の要素体系の凡てか又はその一部分のものの基礎に直観が潜んでいるとする。そうすれば幾何学の基く直観は他の要素体系の基く直観とは少くとも異っていなくてはならない。何となれば幾何学は他の要素体系には決して属すことが出来ないということを私はすでに証明して置いたのであるから(思惟は常に同一の機能であると仮定して)。それ故何れにしても幾何学にはそれに固有な直観がなければならない。幾何学的直観、それが今までに取り出すことの出来た名称である。無論この名称に相当する概念内容が何であるかは積極的にはまだ何処にも示されてはいない。

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