技術家の社会的地位
独特な意味での技術は物質的生産の技術、一言で云えば生産技術である。現在の資本制及び社会主義制の社会で、この生産技術と特別な直接関係に立つことによって、一定の位置・職業・役割・等々を有っているものが、独特な意味での技術家である。正確には之を生産技術家と呼ぶべきだろう。
生産技術家は、それ自身自然科学者であるか、又は自然科学とある直接関係に立つ処の者であって、独特な意味での専門家と見做されている。――併し広い意味で云っている技術が、決して物質的生産技術に限らないのは云うまでもないので、それだけ技術家という範疇は拡げられていいのであり、従って又専門家という範疇も単に自然科学者・(生産)技術家に限られていないのは不当でない。社会科学者・哲学者・文学者・その他一切の有資格者的職業人が、皆技術家乃至専門家に含まれなくはない。
だがこうした広範な範疇であるにも拘らず、否、こうした広範な範疇であればこそ、技術家というものの規定は、之を一等代表的な最も技術家らしい技術家の内から、発見する必要がある。所謂「技術家」としての物質的生産技術家の内に夫を発見しなければならないのである。専門家一般は技術家によって代表され、技術家一般は生産技術家によって代表されると見ていい。
更に生産技術家に就いて見出される規定は、今日の技術家一般にまで推し及ぼすことの出来る筈の規定であるばかりではなく、同時にそれは資本主義諸国に於ては、或る限度まで、一種の社会階級又はそういう意味を持った限りの社会身分・社会層としてのインテリゲンチャの規定につながるものであり、ソヴェート同盟などに於ては、一つの社会的資格としてのインテリゲンチャ(技術インテリゲンチャ)、(但しインテリゲンチャ技術家のことではない)の規定につながっていることを注意しておこう。
近代のどの資本主義国家に於てもそうであったが、わが国でも、生産技術家乃至一般技術家達は、彼等自身、現在ブルジョアジー・乃至は小市民・階級の一部分を構成しているのであり、又時代が現在に近づくに従って、ブルジョア・又は高級小市民・階級の出身者によってより多数を占められるようになって来ている。
わが国の技術家達の可なりの部分、特に技師・技手・等の高級生産技術家の殆んど大部分は、資本主義社会が設置した大学又は専門学校の出身者であるが、これ等大学乃至専門諸学校が、供給する技術家の数が、資本主義社会からの需要を甚だしく追い越さない限り、彼等は資本主義社会に於て支配的優位を結果するような生活を営むことが出来るから、少くとも小ブルジョア階級に編入され得るのは云うまでもないし、又或る者(主に明治の半ば前後までに養成された生産技術家)はやがて技術家としての優位生活をさえ抜け出て、彼等自身産業資本家又は政治的支配者となることによって、大ブルジョア階級に編入されているものも少なくない。
明治政府がその独特に急速な資本主義化工作に就いて、急速に大量の技術家を養成しなければならなかった時代には、封建的貴族や台頭しつつあった商人階級に較べて遙かに数の多かった農民や又小商人・徒弟達の内からも、技術家が養成されなければならなかった。農民は今や公然と商品化し得るその土地を売って、子弟を東京へ送り、その一半を生産技術家に仕立てることによって、新しい社会制度にその生活を順応させることを企てた(他の子弟の一半は純官吏――政務的技術家? として養成された)。
やがて併し、資本主義社会が技術家需要の飽和点に近づき、又それに応じて農民・小商人が子弟に投資する家政的余裕が狭められて来るに従って、大学専門学校を卒業する者の極めて大部分が、高級小市民以上の子弟に制限されて来なければならない。こうやって、高級小市民以上の子弟だけが、技術家の位置を占める可能性(但し必ずしも必然性ではない)を有つことになり、かくて、一般に高級小市民以上の子弟だけが即ち高級小市民以上の階級にぞくするという循環になって、この点に関する社会の階級的構成は次第に不動なものになって来る。
だが情勢がこの境界を超えると直ぐに実は、このブルジョア生産技術家すらが経済的困難に見舞われ始めるのである。併しそれは後に見るとして、まず初めに、所謂技術家が、今日わが国に於て、一般のインテリゲンチャの他の部分に較べて、更に労働者・農民・小商人・等々に較べては無論のこと、どれほど社会的に安全な有利な位置を占めているかに就いて注意を喚起しなければならない。
そのためには、本来の意味に於ける技術家乃至専門家がよって立つ処の生産技術乃至自然科学的知識が、外の文化諸領域に較べて、社会機能の上で特殊な位置を持っている、という一般的な事情を、まず注意してかかる必要がある。――まず第一に自然科学的知識が社会科学的知識に較べて遙かに、社会的制約を受ける程度が低いという事実は、今更議論するまでもない現象である。
だが、それだからと云って、自然科学の受ける社会的制約が、自然科学にとってどうでもいいものだということには、決してならない。云うまでもなく、科学とか知識とかいうもののもっている効力は、そしてこの効力は結局に於て社会的に結果しなければおかない社会的効力なのではあるが、真理の普遍的な通用強制力というもの以外にはあり得ない。真理が生活に役立つのも又はその他の効用を持つのも、真理それ自身からくるこの普遍的強制力の外から出て来るものであってはならぬ筈だ。その意味で科学的知識は、自然科学のものであろうと社会科学のものであろうと、それが客観的だという点によって初めて価値があるので、何かの社会的効果から、即ち人間一般の・個人の・集団の・階級の・主観的・主体的な関心から、価値の有無を決めらるべき筈ではない、とそう一般に考えられている。
科学的知識というものを一般的に論じる限り、こういう規定だけで充分であるし、又之で正しいのである。というのは、科学的知識を歴史的な特定内容ある様々な場合に就いて考える必要がなかったり、又特には自然科学と社会科学とに於けるその相違を見極める必要を直接に感じなかったりする場合には、この一般的な定言で一応いいのである。
だが問題が自然科学的知識と社会科学的知識との間の相違や、その実質的な認識内容の分化などになると、この一般的提言は必ずしも意味のあるテーゼではなくなるのである。まして問題が自然科学の社会的機能というようなものになると、このフラーゼを一人よがりに繰り返すことは、之をただの御題目に帰せしめて了う結果にさえなるだろう。
実際、自然科学的知識が社会科学の知識に較べて社会から来る制約の受け方が少ないという例の現象は、科学の単純な客観性によってだけでは説明が与えられないのであって、どうしても自然科学乃至社会科学がもっているイデオロギーとしての夫々の特色から説明する外はない。――尤も科学をイデオロギーだというと、科学を単純な一社会現象と見做した結果に過ぎないと考える向きも多いと思うが、そういう風に見られただけのものならば一社会現象だと云って了えばいいのであって、何もわざわざイデオロギーと呼ぶ必要はあるまい。一体イデオロギーとは意識形態のことだが、意識の何よりの本性は存在を何かの仕方で反映するという論理的な認識論的な機能にあることを見落してはならぬ。之を見落さない限り、意識形態であるイデオロギーなるものが、存在を如何に反映するかという真理内容に関わらざるを得ないものだということを見落せない筈である。之を見落すなら、唯物史観に於けるイデオロギーという概念の意義は、その重大な大半を失って了うだろう。イデオロギーというのは人が考えているような単に主観にだけぞくする問題ではない、主観が客観を如何に反映して、真理という客観性を如何に実現するか、という問題を解決する鍵こそが、イデオロギーという概念なのである。所謂「イデオロギー論」はイデオロギーという概念をこういう具合に使わないからこそ、不用であり又誤っているのだ。
さて自然科学を一つのイデオロギーと見て初めて、夫が社会科学に較べて社会的制約を受けることの少ない点をば、そのイデオロギー性の持ち方の少ないという関係によって、決定することが出来るのである。それは事実上、個人的な、集団的な、併しやがて実は階級的な、利害によって、認識過程(問題の設定・体系の構成・結論の抽出・等々)を決定されるが、その度合は社会科学に較べて原則的にずっと少ないし、又個々の事実から見ても、社会科学程には露骨に又正確に、この階級的な利害に対応したり利用されたりしない。この相違が二つの科学のイデオロギー性の相違の現われに外ならないのである。一方、古典経済学の成立以来今日に至るまでの経済学の歴史と、他方ルネサンス以来の自然科学の発達史とを比較して見れば、この事情は実証的に明らかである。それにも拘らず、或いはそれであるが故に、自然科学は一定のイデオロギー性を有っているわけである。
自然科学のイデオロギー性は、社会科学の場合に於てのように、何等かの社会的主体の直接な利害と結び付いて直接的に現われるというようなものでない。併し、第一に、少なくとも、その範疇組織や、イデオロギーとしての他諸科学諸文化との連帯関係や、世界観的特色やを通じて、間接に、併し紛う方なく明白に現われる。自然科学のイデオロギー性は稀薄である、だがそれは曖昧だということではない。近世科学の創始者であったガリレイや又コペルニクスの天体理論が、どのように明白な切実なイデオロギー性を持っていたかは、人の知る処である。現代に於ては、物理学的世界観に於て、物理学者達自身が、そのイデオロギー性に対してどれ程判然とした興味を持っているかを見るがいい*(但し物理学者自身は之をイデオロギー性とは名づけない、これが後々意味のある態度であることを見よう)。
* 自然科学の特有なイデオロギー性の分析は、すでに不充分ながら試みたことがあるから、ここでは繰り返さない(「社会に於ける自然科学の役割」――拙著『現代のための哲学』採録――を見よ)。
無論自然科学は社会の文化組織に於て孤立した部分ではない、他の文化諸領域といつも活発な交渉を保っている。例えば自然科学は、色々と応用される。そこで人々の考える処によると、この応用されるという点から、元来自分には固有なものでなかった多分の社会的規定を、自然科学は外部から吸収することになるだろう、だが自然科学の「純粋な理論」はこの応用からは独立で、従って之こそが自然科学の超イデオロギー性従って又そのイデオロギー性の稀少性の本拠をなす、ということになりそうである。なる程数式の計算や帰納や推理の仕方は、形式的に云えばイデオロギー的には一応中性を持っている。丁度2+2が4になるというのに何の社会的内容もないと考えられるのと同じに見える。だがこの種の操作は、個々の断片的なものであって、これをいくら寄せ集めても何等の「理論」にはならぬ。理論になる時には、すでに世界観や他文化領域との連帯関係や範疇組織が問題になる時で、この種のものはだから決してイデオロギー的中性の説明にも又は稀薄性の説明にもなり得ない。
一体科学の理論が純粋でなければならないのは、丁度科学が客観性を持たねばならぬという規定と全く同じに、何も自然科学だけの特権ではあるまい。一切の科学が不純であってはならないのは当り前で、わざわざ之を「純粋」にするのに却って何かの不純な意企を蔵しているに外ならない(例えば「純粋経済学」とか「純正社会学」とかの如き)。で理論の純粋性という根拠から、自然科学特有のイデオロギー性の特色を掴み出そうという試みは必ず失敗する。
純粋に対するものは応用であり、夫は社会的応用、即ち又技術的応用のことであるが、考え方によってはこの技術的な・応用の・即ち又「不純」な要素こそが、却って自然科学の超イデオロギー性の本拠だということにもなる。実際、自然科学は技術的なものであるが故に、超イデオロギー的だと考えている人は多いだろう。だが之は技術という言葉の罠を知らない人のことだ。
技術は一方に於て熟練や手法を意味する。私は曾て之を主観的技術と呼んでおいた(「技術の問題」参照)。なる程こういう技法ならば、元来が部分的で断片的なものだから、自然科学というイデオロギーの全体に対して、部分としての比較的な自由を持っているから、全体としてのイデオロギーから比較的解放されているわけで、その限り一応超イデオロギー的なものに見えよう。だが、之ならば、先に言った理論に於ける部分的な断片的な操作と全く同じものになるので、例えば理論的な計算の操作も技術的な実験の操作と、熟練や手法という点では少しも変らない「技術」(主観的技術)にぞくするわけである。そしてそういう意味での技術ならば、何も自然科学に限らず、経済学に於てであろうと、文学創作に於てであろうと、いつも発見出来る処のものである。統計収集や表現技巧の熟練は、その意味で一応超イデオロギー的なものと世間では見ている。これが極端になった場合、世間が無批判に統計の数字を信じたり、純文学派式の芸術価値至上主義が行なわれたりする現象も生れるのである。
併し、すでに統計の収集法や文学の表現技術が、少し考えて見ると決して単純に超イデオロギー的なものだとは決められないのと同じに、自然科学に於ける今云った部分的断片としての「技術」すらが実は決して完全に超イデオロギー的なものではないことが判る。一定の熟練がなければ物理学上の実験は出来ないが、そういう熟練を意味する技術も、実験装置自身の生産技術上の条件を抜きにしては、初めから無内容な表象に止まるだろう。
だから、自然科学に於ける技術的な要素というのは、一見超イデオロギー的に見えるこの科学的部分・断片としての技法のことではあり得なくなるので、実は自然科学が生産技術と直接に接触している或る一定の側面を指す外はなくなるのである。というのは、自然科学というものは抑々その社会的「応用」に於て初めてその目的に到達するものであり、又この社会的応用への需要によって発生し促進されるものであるのだが、この点が即ち自然科学と生産技術との直接な接触面をなしているのである。処でそれならば、丁度吾々が今問題にしようとしている点に来るわけで、この生産技術がどのようなイデオロギー性乃至階級性を有つか、或いは寧ろ持たないか、を決定しない限り、自然科学の「技術的」要素が自然科学に特有な超イデオロギー性の口実になるとは限らないのであって、この場合の結論は寧ろ恐らくその逆にならねばならぬだろう。実際、自然科学特有のイデオロギー性の稀薄さは、この生産技術のイデオロギー性(乃至階級性)の固有な特色から最もよく説明されることになるだろう。
かくて問題は、自然科学から技術乃至技術学へ移される。
自然科学が社会科学其の他に対応してもつ固有に稀薄なイデオロギー性は、所謂理論の純粋性や何かから説明され得るものではなくて、結局、生産技術と自然科学との結合点から、即ちこの生産技術乃至技術学が社会科学(特に経済学)其の他に対比して持つイデオロギー性の特色から、判定される外ないということになるのである。――蓋し技術とは自然と社会との交渉圏に於て成立する世界であり、従って或る意味では自然科学的知識と社会科学的知識との媒介点に立つ処の世界だからである。世間では実際、この意味で、技術と自然と(Kunst und Natur)を対比させると同時に、技術と経済とを対比させているだろう。技術問題に就いては、技術と経済とのこの関係が、最も屡々取り上げられる一般問題になっているようである*。
* 本書「技術とイデオロギー」参照。 処でこの生産技術が経済組織と不離な関係にあるということ、従って歴史的に与えられた経済組織に対して「純粋」であるような技術自体・「技術の本質」などというものは観念上の迷妄の外ではないということ、生産技術は事実、資本主義下に於けるものと社会主義下に於けるものとでは、その本質的な条件を全く異にしていること、その意味に於て技術乃至技術学は、階級性によって又イデオロギー性によって貫かれているということ、之はこの頃詳しく報告されている事実である*。
* Bucharin, Die sozialistische Rekonstruktion und der Kampf um die Technik, Der Kampf zweier Welten und die Aufgabe der Wissenschaften. ―― Krshishanowski, Die Grundlagen des technisch-konomischen Rekonstruktions-Plans der Sowjetunion. ―― Rubinstein, Science, Technology and Economics under Capitalism and in the Soviet Union. ―― Druschinin, Wie der Arbeiter in der Sowjetunion Ingenieur wird 等々のパンフレットを見よ。なお「技術の問題」の項参照。
技術乃至技術学が、そのブルジョア的一般観念を裏切って、独特に階級的な色彩を持っており、又特有なイデオロギー性を持っているという点は、これだけで明らかだとして、今問題は、それにも拘らず技術は、所謂経済関係に対比しては、比較的にコンスタントな条件に置かれている、という点である。それは、技術が自然と社会(今の場合ならば特に経済)との媒介点に位置しており、そして云うまでもなくこの自然が社会に対比して相対的にコンスタントな条件に置かれているということから、当然そうなければならないわけである。従って又、技術乃至技術学は社会科学に対比して、遙かにコンスタントな内容を持って来るのが当然なのである。
事実生産技術はその階級性にも拘らず、丁度自然科学的知識自身がそうであると同じに、一つの生産組織から同時代の他の生産組織にまで、比較的自由に切り換えられることが出来る。例えば電気工学的技術はアメリカに於て用いられると略々同じ条件の下に、ソヴェートでも用いられることが出来る。ただ異るのはこの技術がどの程度に統一的に与えられているかの程度であり(「全国電化計画」・「統一的労働手段」の観念等)、そして技術にとってはこの統一性が極めて重大な本質をなしているのであるが、もしこの最後の要石を抜きにすれば、技術は同一な世界経済的水準に並ぶ諸生産組織の間に、比較的自由に出這入りすることが出来るのである。
技術は経済関係に較べて、このようにその階級性が稀薄であるが(尤も決して曖昧だというのではない)、技術と一つに考えられねばならぬ技術学も亦、社会科学(特に経済学を見よ)に較べて、そのイデオロギー性が稀薄であらざるを得ない。ブルジョア経済学(例えば今日存在する諸々の「静態経済学」)の本質的なものの殆んど大部分は、社会主義組織の下では殆んど何等の意味も持つことは出来ぬ。処が、生産技術(乃至技術学)は決してそうではなかった。
技術乃至技術学のこの比較的コンスタントな特色から来る階級性乃至イデオロギー性の特徴は、単に同時存在的に見られるばかりではなく、時間的推移に従っても見て取られなければならぬ。というのは、資本主義国と社会主義国との空間的対立の場面に於てばかりではなく、同一社会に於ける資本主義組織から社会主義組織への時間的移行に就いても、この特徴が見られねばならぬのである。こうした組織の移行自身の内にこそ、政治的な階級性やイデオロギー性の実際問題が発生するのであるが、技術の階級性やイデオロギー性が最も実際的な問題になるのは、正にこの場合に外ならなかったのである。
さて、同時的切り換えに於ても、時間的移行に於ても、技術のイデオロギー性乃至階級性は、明白であるにも拘らず稀薄であった。今そこで技術は何か中立的な存在であるかのような外観を呈することが出来るという点を注意しなければならぬ。なぜなら、技術乃至技術学に於ても、対立物である二つの経済組織又は経済理論が、対立せしめられる代りに、両者の共通点が高調されることによって、中和され妥協させられるかのように見えることも不可能ではないからである。文化的・政治的・経済的・変革とは一応独立に、技術はそのまま生き永らえるかのように考えられる。
無論こう見えるのは外見であって技術(乃至技術学)の本質ではない。併しこういう外見を有ち得るということが又その本質の一部分をなしているので、問題はこの「本質的な外見」を如何に本質的に処理するかという手段に関わる。
そこで仮に一つの公式を立てて見よう。この「本質的な外見」を何等かの外見と見る代りに何等かの本質自身と見做すならば、それは外見的な現象に捉われる見地である。この見地によれば、技術乃至技術学の中立性こそがその本質でなければならぬ。技術乃至技術学の何等かのイデオロギー的・社会的・政治的・経済的・制約は之に反して、外部から付着によって生じた偶然な現象に過ぎない、ということになる。だがこうした見地の誤謬は、一つの自己矛盾となって現われる。というのは、技術乃至技術学を中立化すことは、一定の時代に於ては、事実上、それ自身技術乃至技術学の一種の政治化乃至イデオロギー化になっているのである。具体的な事実は、勝手な誤謬をこういう風にして暴露する。技術乃至技術学が中立性を有っていると考えていられるのは、取りも直さず、技術乃至技術学が事実上すべて何かの政治的制約によって或る安定を与えられているからに外ならない。技術に於て人々が感得する中立性とは、政治的中立性の意識ではなくて、却って一定の政治的傾向に従った故の安定の意識の外ではない。
さて今日のわが国などの技術家や自然科学者は、従来、比較的に生活の安定を持っていたし、又現在でも持っている(ここでは自然科学者を技術家と同じに取り扱っていい)。一方に於ては、社会科学者や思想家・文化運動者・等々がその研究活動と各種の文化活動とを一日々々と制限されつつある時に、従って又やがてその日常生活の条件が日々に悪くなって行きつつある時に、既成の技術家や自然科学者達は、国家と社会とによって、依然として或いは益々、厚い保護を加えられているように見受けられる。
欧州大戦を契機とする理工科系統の各大学の充実・官公私の管理になる各種の科学研究所の設立・等は云うまでもなく、最近の所謂「思想国難」提唱以来された思想善導と一脈相通じるものを持つ各種の技術的学術の奨励(「日本学術振興会」・「燃料国策審議会」・「満蒙学術探検隊」・「特殊染料」助成・航空事業振興のための「綜合調査会」・等々)が盛んになって来つつあるのを見逃すことは出来ぬ。まして最近数ヵ月間の、軍需工業の拡大や対外為替安による外見的好況は、重軽工業に於ける技術家の「社会的」需要に取って、久し振りの好材料でさえあるように見える。法定失業者の多少の減少・法定就職率の微少な増加・等々はおのずから技術家の社会的地位に対する一般的な信任を増す所以になるだろう。
これ等技術家の生活条件の安定は、結局、資本主義の安定、従ってブルジョア技術の健在な又は不具な発達と、平行するものであるが、その際技術家の生活が他の職業人の生活に較べて特に強大な安定性を有つことが出来る原因は外でもない、先に述べておいた技術乃至技術家のイデオロギー性乃至階級性が特有に稀薄だったという点に存する。それが稀薄であるために、技術家は一般に階級的・イデオロギー的・影響を一等後になって受け取る順序になるから、与えられた時期に於てはその安定度が他の職業人に較べて最も大きくなるわけなのである。併しもし仮にこの階級性乃至イデオロギー性の稀薄だという特性が、技術の超イデオロギー性・超階級性・による政治的中立性を意味するのならば、技術家の生活の安定が終局に於て資本主義の安定と平行しなければならぬ理由は別にない筈である。それはどういう社会組織の変化の下にも同じ安定度を保たねばならない筈ではないか。――実は此等技術家の生活の安定は要するにブルジョア技術の安定度に平行する外はないのである。処がこうやって技術家の存在がブルジョア技術の動向に順応するということは、とりも直さずこの技術家の社会的地位がブルジョア社会の機構に積極的に順応していることの外ではない。資本主義社会の経済的・政治的・文化的・機構が間接にではあるが併し確実に、彼等技術家の生活を他のどのような職業人よりも高度に又平均的に保証して呉れているから、事実上技術家の生活が今日比較的にあれ程の安定を得ているに外ならない。
技術乃至技術学それ自身が決して中立的な世界ではなかったと全く同じに、技術家も亦決して中立的存在ではありえないわけで、彼等は或る意味に於て資本主義社会の指導的分子の一部分をさえなしている。だからこそテクノクラット式の技術家支配の思想もここから生じることが出来る。――技術家の技術家としての階級的・イデオロギー的・傾向はなる程、決して濃厚ではあり得ない、なぜなら技術そのものがそうではなかったからだ。併しそれであるからと云って、技術家は階級的・イデオロギー的・に政治的中立性を実際に有ち得るような社会的地位にいるものではない、技術それ自身が今日資本主義のものだからである。
処が技術家自身は、自分の生活の今日の安定性を、技術自身の本来の中立性に基くと考え、そこからまた自分自身の社会生活の中立性を根拠づけ、又その中立性への意図をさえ理由づける。之は無論その限りでは矛盾でも何でもないので、社会生活の中立性を標榜することによって、技術家の社会生活は事実上益々安定となるのだから、寧ろ賢明な首尾一貫と云わねばならぬ。
社会的効果を意識的無意識的にねらっているこれ等ブルジョア技術家の中立の意識が、客観的に見て決して公平な中立を意味してはいないということは、彼等に対する社会的待遇が、科学的な社会科学者に対する夫などに対立して反動的な社会理論家などが受け取っている社会的好遇と、全く平行している、という事実からも、推定することが出来る。今日わが国で奨励され助成されているものは、技術的科学のものでなければ、国民精神に関する研究題目を持った精神科学のものなのである。性急な世間は之を見て、技術家に対する幇助が直接思想善導に役立つのかとさえ思うかも知れない。
さてわが国の技術家が持っている社会的安定、それから来る安定の意識、又それを確保するための安定への意図は、殆んど全くそのまま自然科学者に就いてもあて嵌まる。一般的に云えば、わが国などに見られる資本主義社会に於ける「専門家」なるものは、大体に於てこうした良好な条件の下に生活していると見て良いようである。そしてもし、こうした専門家達によってブルジョア社会に於ける高級インテリゲンチャの可なりな部分が占められているなら、この結論は、例のインテリゲンチャの中間性という現象の部分的な説明にもなるだろう。
現在の技術家の社会生活の安定は併し、今や次第に脅され始める。ブルジョア技術の一種のゆきづまりと、一般的失業の進行とは、技術家の生活の足場を例外として残すことは出来ない。次にそれを見よう。
ブルジョア新聞が断片的に与える報道を見ると、世界の資本主義が概して、再び好況に見舞われるのではないかという希望を、人々は持つかもしれない。例えば、失業問題だけを取って見ても、国際労働事務局は、本年度最近の四半期に於て、フランス・ドイツ・イギリス・イタリー・其の他を通じて、一九二九年来、初めて失業者の減少を見たと報じている。イギリスに於ける失業保険加入失業者は一ヵ年以前に較べると五三万人余の減少で二四一万人となり、ドイツの失業者は四〇六万人でこの八月初めに較べるとすでに四〇万人の減少だと、公報されている。
まして特殊事情に立脚している日本は、今や資本主義の登り坂を登って行くかのようにさえ云われている。本年(一九三三年)日本銀行調査による銀行会社計画資本調べによれば、製造工業では前年同月に較べて三二八〇万円の資本増加であり、又東京市統計課の統計によれば、三〇人以上の労働者を使っている工場数は一九三〇年に較べて、一四二、その労働者一七七〇〇人、を夫々増している。失業者は昨年七月に五〇万人を突破したのが今年の六月には四二万人余に減少し、職業紹介所による就職率は昨年度に比して三パーセント乃至七パーセントを増し、求職殺到率は一二―二七パーセントの減少だと云われる。
だがこうした断片的な資料は、世界に於ける一般的失業状態と失業の大勢とを欺き了わせることは出来ないだろう。統計の単位の採り方にすでに根本的な批判が必要だということは抜きにしても、又この統計の社会的意義を結果に於て割引きするような反対材料が随処に見出せるということを抜きにしても(例えば人絹や綿・毛・織物業の好況に対して蚕糸業の徹底的不況等)、失業者数の絶対値が、今の場合にはいつも根本的な資料なのである。そしてその絶対値の大スケールに於ける終局的な傾向がいつも社会にとって問題なのである。
あらゆる希望に充ちたように見える材料にも拘らず、日本及び世界各国が、恒常的な失業に悩まされているという事実は、今更ここで指摘する必要のない事実だろう。吾々の今の問題は、技術家乃至広く之を含む限りのインテリゲンチャの失業なのであるが、インテリゲンチャ特に技術家の失業事情は、他の失業者乃至失業候補者(「産業予備軍」・没落資本家・等々)に較べて、特別な条件の下に置かれていることを注意しなければならない。
技術家が技術乃至科学による処のその特別な社会機能のおかげで、この資本主義の末期に於て、比較的安定な生活を保証されている所以を、すでに私は説いたが、この同じ条件が、ここでも亦技術家の失業事情を見るための特別な条件をなしている。
と云うのは、技術家乃至之を含む限りのインテリゲンチャが労働者及び農民に較べて、失業の浪に洗われる時期から云っても遅く、従って与えられた時期に於ける失業者の数から云っても少ないということは、当然であって、一般的失業が進行しているにも拘らず、既に社会的に一定位置を占めて了っている技術家乃至之を含む限りのインテリゲンチャは、一見殆んどこの失業の進行と関係がないかのように見えることも、不可能ではない。而も、比較的な一時的「好況」が少しでも見舞いそうに見える時には、最初に失業の危険から遠ざけられるものは技術家乃至之を含む限りのインテリゲンチャそれ自身に外ならぬ。――一般のインテリゲンチャの内でも、失業の浪から最も遠ざかっているものは技術家であるし、又労働者の内でも就職の可能性を最もよく保証されているものは、一種の下級技術家としての「熟練労働者」である。このような事情が、前に云った、現在のわが国などに於ける例の技術家の比較的安定な社会生活を結果していたのである。
わが国に於ける既成の技術家は、だから現在必ずしも著しく失業に見舞われているのではない。既成技術家達が一般的な失業傾向現象の一部として、失業の危険に曝される可能性を持つその分量だけを、彼等は今日、部分的な一時的な「動員令」による就職の可能性によって、埋め合せている。だから彼等に於ては、その就職傾向が積極的に表面に出ない潜在的なものであると同様に、その失業傾向も亦、潜在的で眼に見えないものに止まっている。で技術家の社会生活が安定だというのは、無条件に安定なのではなくて、潜在的な失業(Virtual unemployment)として僅かに安定を保っているに過ぎない、ということを見逃してはならないのである。
既成の技術家に就いては、潜在的失業が生活の外見上の安定となって現われているが、処が技術家の候補者に就いては、この潜在的失業が一種の実質的な失業の形を取って現われる。と云うのは、必ずしもすでに持っていた職業を失わないまでも、持たねばならぬ職業にありつけないという意味での失業状態が、ここでは極めて著しい一般情勢なのである。そこで、既成技術家の例の生活安定も決して本当の安定でなかったということは、技術候補者の就職難によって立派に云い表わされているわけである。
世界のどの資本主義国でも、技術家の代表的な候補者は大学乃至各種専門学校出身者であることはすでに述べたが、生産技術に直接関係のある無しを無視して概括的に見ると、わが国に於ける学校卒業生の昨年(一九三二年)春の就職率は、卒業生の約三五パーセントに過ぎない。尤もこの内、生産技術に直接関係を持っている理、工、農、医の各科では大学出身者の約六〇―三〇パーセント、専門学校出身者の約六〇―五〇パーセントが就職しているから、不況の真中に於ては稀に見る好成績と見えるかも知れない。だが、平均五〇パーセントしか就職出来ないということは、技術家候補者の約半数が過剰生産されているということを意味するわけで、他の場合の事情と比較せずにこれだけを絶対的に取り上げるなら、それだけですでに恐るべき失業状態だということを忘れてはならない。――今年に這入ってからは職業紹介所を通じての「学校出」の就職率は昨年よりも良好で、大学出身では約四〇パーセント、専門学校出では四四・三パーセントとなり、夫々前年よりも五・二パーセント及び三・九パーセントの増加だというのであるが、仮にこのパーセンテージ増しを全就職事情にまで拡大して考え、又特にパーセンテージの高いだろう生産技術候補者の就職事情に適応させて修正するとしても、基礎的な数字をなしている五〇パーセントの失業という絶対値に比較すれば、あまり問題になる材料とは思われない。航空・造兵・火薬と云った特殊な生産技術・軍需工業に直接関係している部面で、どれ程就職率が高くても(夫は場合によっては一〇〇パーセントにさえ達しているのだが)之は技術候補者の一般的失業状態を埋め合せるに足りるものではない。
単に間接にしか生産技術に関係しない処の、併し生産技術家と直接の連関がある処の、インテリゲンチャ的職業の一般的な候補者になればその就職難が如何に深刻かということは改めて述べるまでもない。こういう副技術家候補者の過剰生産を制限するために、わが国の政府や政党はこの一二年来様々な腹案を立てている。官公私立大学専門学校の収容学生を半減する案とか、学校数減少案とか、官立諸大学の一部を民営に移す案とか、帝大の法文経学部を廃止する案とか、いう諸提案が夫なのである。こういう諸提案がどれだけの実現の可能性を有っているかは別問題として、とにかくこの副技術家候補者の生産制限は、やがては技術家候補者そのものの生産制限の問題にならねばならぬということ、実はすでに現に技術家候補者自身の潜在的な生産制限を意味しているということ、それは今まで述べて来た考察のメカニズムから云って、ここで繰り返す必要はないだろう。
之は無論世界的現象の一つであって、技術的に発達しているドイツなどになると、技術家候補者の失業―就職難は候補者が割合に多いだけに著しい。ドイツ技術同盟の代表者 Matschoss 教授によれば、ドイツでは約四万人の技術学生が在学し、年々八〇〇〇名が卒業するのであるが、わずかにその二〇パーセントだけが技術家として就職し得るに過ぎない。あとの一〇パーセントは学校に残り、更に残りの二〇パーセントは専門外の一時的な職業を見出し、残りの五〇パーセントは全く何等の職業を見出すことも出来ないというのである*。だからスケールの大小は兎に角として、失業のパーセンテージは略々わが国に於けるものと近いと見ていい。教授の計算によれば現在(一九三二年)ドイツには三万人の高級技術家が失業しており、一九三四年までには約一三万人の失業技術家が発生するだろうというのである。――こうやって既成技術家の群に、新しく技術候補者が技術家として加えられて行くことによって、技術家自身全体の失業率は次第に高まって行かねばならない。この点に於て、わが国と雖も何等の例外でないのである。技術家一般の生活はだから、その外見上の安定にも拘らず、すでに今日脅やかされ始めていると云わねばならぬ。
* ルービンシュタイン前掲書の紹介による。
漫然と云うならば、技術家の失業は技術家の過剰に原因し、技術家の過剰は技術自身の過剰に由来すると云っていい。だが資本制度下に於ける技術の過剰や又技術家の過剰ということは、一寸見る程単純な事情なのではない。一概に云って了えば資本主義は今日技術と技術の正常な発達とを抑制している。既得の技術が原始状態にまで還元されたり、採用されなかったり、廃棄されたり、その発達を抑圧されたりしている。資本主義的生産関係は技術的生産力と最も直接な矛盾に今日陥っていると云わねばならぬ。だが、こうした矛盾にも拘らず、技術は一面、社会のエレメンタリーな自然発生的な展開に沿って、又他面、この矛盾に充ちた生産関係に特有な一つの必然的な社会的要求に沿って、一応の・且つ跛行的な・発達を遂げつつある点を見逃すべきではない。生産関係によって抑圧し切れない技術的生産力があればこそ、技術と資本主義生産組織との矛盾は今日増々鋭くなって行くわけで、この際もし技術が抑圧され終って了うならば、夫と生産関係との対立などはもはや問題ではなくなって了う筈だろう。
だから技術自身は、資本主義社会に於て、一方、一般的には抑圧されながらも、他方部分的には発達せしめられねばならなく出来ている。技術は、促進されながら制限されねばならぬという、技術自身の内部に於ける矛盾を、資本主義生産組織から受け取っているのである。資本主義社会に於ける技術の過剰とは、実は技術のこのような促進と制限との合成物だったと云うことを注意しなければならない。資本主義社会に於ける技術の一般的な制限に就いては他の機会に述べたし(「技術の問題」)、技術の促進に就いては後に見ようと思うが、今は、技術のこの促進と制限との必要が、そのまま技術家の場合に就いても当て嵌まるという点が大事だ。
で、資本主義社会に於ける技術家の過剰とは、技術家の社会的優遇と技術家生産の制限との合成物に外ならなかったのである。と云うのは、或る特定の技術家は益々その社会的安定の保証を与えられて行くが、他の而も多数の技術家乃至技術家候補者は、之に反して失業に面接しなければならないということが、技術家の過剰ということなのである。或る少数の技術家は資本主義社会の生産的又破壊的な技術の増進のために鞭打たれなければならぬが、元来資本主義はこの仕事に差し向けるべき技術家の充分に多数を抱えることが出来ない。従って資本制の下に於て使用される技術家はその数を制限されただけ、それだけその一人当りの技術家的エネルギーを捻出しなければならないわけである(問題はこうした資本主義的な意味に於ける能率増進の問題に帰着する)。このようなものが資本主義社会に於ける技術家の安定と失業との合成物――技術家の過剰――なのである。
技術家の失業の原因と考えられた技術家の過剰そのものが、実は技術家の失業乃至制限と安定乃至優遇との合成物だとすれば、ブルジョア社会に於ける一群のブルジョア技術家の生活安定・優遇そのものが、他群の技術家の制限・失業の部分的原因になっているわけで、ここに二群の技術家の利害の対立が必然的に生じて来なければならない理由が横たわる。一方に於て生活の安定を持っている既成技術家は、今後、新しく輩出するであろう技術家乃至技術家候補者から、社会的安定を奪い去ることによって、初めて自分の生活の安定を確保出来るわけで、ブルジョア技術家はその利害をブルジョアジーの利害に愈々一致させることによって、益々ブルジョアになり済まさなくてはならぬというわけである。
技術家に於けるこの生活利害の対立は、併しまだ必ずしも、技術家の階級的対立だと云うことは出来ないだろう。なぜなら今の場合には、一方に於てなる程ブルジョア技術家がブルジョアジーの利益に参加することによって初めて生活の安定を得ているのであり、そうやって初めて技術家としての生活を営むことが出来るのであるが、之に反してブルジョア技術家として採用され得なかった他群の技術家乃至技術家候補者は、元来この社会では技術家としての機能を少しも果すことを許されないのだから、その能力に於てどうあろうとも、社会的存在様式から云えば技術家でも何でもなくて、単なる失業者に過ぎない。彼等は無産者・失業者ではあっても、ブルジョア技術家に対して階級的に対立するプロレタリア技術家というようなものではあり得ない。単なる資本主義社会に於ては、即ち相当又はそれ以上に発達した社会主義的組織のない社会では、ブルジョア技術家に対立するプロレタリア技術家は存在しない。一般的な階級対立が単純に激化しても、それだけでは必ずしも技術家の階級対立は発生しない。技術家の階級対立が著しい問題になる時は、技術が資本主義的に運用される代りに社会主義的に運用され始める時に外ならない。もしくは、資本主義社会に於ける技術家と、社会主義社会に於ける夫とが、直接に対比されねばならなくなる条件が具わった時がそうなのである。
ソヴェート同盟に於ける技術家の「欠乏」は、現代に於ける最も稀な現象の一つである。資本主義諸国に於ける技術家の技術に対する過剰の代りに、ここでは技術家に対する技術の過剰があるのだが、この技術の過剰が、資本主義諸国に於ける例の「技術の過剰」と全く正反対な意義を有っていることは面白い。でここでは技術家の欠乏・不足を補うために、諸種の技術家(有資格労働者・技術幹部・高級技術者・発明家・等々)の養成と教育とに最も力が入れられる。そうやってここでは「新しい」技術家が発生しつつあるのである。労働学校・工場学校・等々(之は生産と教育・労働と思考・実践と理論との統一であるが)、これ等の新しい教育機関の手によって、労働者大衆自身が技術家として教育される。而もこの新しい労働者技術家の養成と教育とに取っては、資本主義諸国に於てのような制限や手控えは現在少しも必要ではない。だからここでは労働者と技術家との普通見受けられる対立は、根本的な形では存在し得ない。元来この対立は、資本家的支配の形態が工場の秩序にまで反映したものに他ならないが、之は原則的に排除されねばならぬものにぞくするからである。
さてこの新しい――プロレタリア的――技術家の前に、資本主義的・インテリ出身の・旧技術家の地位はどうなるか。ソヴェートに於ける労働者技術家乃至技術家候補者の数は急速に増加しつつあると報じられている。一九三一年に於ける大学の入学生は一五万七千名で、三二年には夫が二三万人に増加しているし、同じく三二年に於て工芸学校は四二万人、大学労働者予備校(worker's koculties)は三五万人、商・工・業学校は一〇〇万人の入学者を必要としている、云々。だから全体の技術家乃至技術家候補者に対する、労働者出身の技術家乃至技術家候補者のパーセンテージは、極度に増大するわけで、学校によっては七五―八〇パーセントが労働者出身だと報告されている(ドイツに於ては大学生の二―三パーセントだけが労働者階級の出身であり、わが国でも大体その見当だろうと考えられる)。こういう次第で労働者出身でない旧技術家乃至インテリ出身の技術家候補者のパーセンテージは極めて低いのだが、併し旧時代からの優秀な既成の技術家や外国から招聘された技師は、この数多い労働者技術家に対して独特な意義を持っている点を、今注意せねばならぬ。
と云うのは、こうした旧技術家は、一方に於て社会主義建設の技術的分野に直接に参加すると共に、他方に於て新しい労働者技術家にその技術を伝授する役目を負わされている。と共にそのイデオロギーの上から云えば、彼等は却って労働者技術家によって啓蒙され指導されねばならない条件におかれているのである。新旧技術家のこの交渉は、云わば技術とイデオロギーとの交換だと云ってもいいだろう。――技術家に於ける技術とイデオロギーとのこの一応の分離は、技術の例の特有に稀薄なイデオロギー性に由来するわけで、この稀薄なイデオロギー性のおかげで、旧ブルジョア技術家と雖も、社会主義下に於て技術家としての生活を営む一応の条件が可能になるわけである。
ソヴェート同盟に於ける旧技術家と新技術家との交渉はそれにも拘らず一種の階級対立をなしている。それは新しい産業制度(工場委員会・生産者会議・等々)に対する疎隔感や、労働者に対する敬遠という、旧技術家の意識の内部に見られるばかりではなく、こういう意識を通じて反ソヴェート的政治行動に走った多数の旧技術家の、又外国技師の、行動の内に最も著しく見て取れる。例えばシャフチンスキー事件・ウクライナ学士院事件・連邦学士院事件・ベリャンチコフ事件・ナホリト事件・産業党事件・等々に於ける技術家による「反ソヴェート陰謀」が、この利害上の階級対立の政治的表現である*。だがこの階級対立は、元来が技術の例の所謂「中立性」と、それに基くと考えられる技術家の「中立の意識」とに基いて、成立するのではあるが、併し却って技術の「中立性」(実は中立性ではなくて稀薄なイデオロギー性だったのだが)と技術家の「中立の意識」それ自身のおかげで、技術家のこの階級対立は或る程度まで稀薄にされざるを得ない。だから実際問題としては、技術家による陰謀というような階級対立の表現も、割合簡単な社会現象として無難に片づけられることが出来て来ているのである。
* ア・ルイコフ「技術家・専門家の問題」参照(時国氏訳・クロウサー『ソヴェトロシアの科学』付録)。 かくて、一方ブルジョア諸国に於ける技術家の社会生活の安定と失業との連関機構は、他方ソヴェートに於て、新旧技術家乃至専門家の、一種独特な階級対立となって、反映されているわけである。ただ、後者の場合に於ては、技術の実際の運用者となるべき新技術家の数が、次第に増加して行くために、技術家のこの無用な階級対立は早晩死滅する運命に置かれているが、之に反して、前者の場合には、技術家としての生活の安定を得るものが、全技術資格者に較べて増々割合が少なくなるために、技術はあらぬ方に持って行かれる外はなくなるので、それが二つの場合の根本的な相違なのである。
技術家の社会的地位は一応こうだとして、次に、技術の促進という問題にまで溯って、技術家の地位を考え直して見よう。
一定の目的の下に技術を促進させる一つの必然的な手段として、今日、資本主義国も社会主義国も、技術家の一般的な保護と研究補助とに力を致しているのは云うまでもないが、その特殊な場合として、発明(乃至発見)の奨励が行なわれる。之は一般的に云って当然技術家の社会的優遇となって結果する、と一応云うことが出来る。
尤も人々の考えによれば発明や発見は、偶然や偶発的な天才の結果であって、決して、技術家というような平均的な人間群に対してだけ特別な関係を有つものではないと考えられるかも知れない*。こういう論法で行けば技術家を優遇することは必ずしも発明の奨励や何かになるものではなくて、優遇されるべきものは、この凡庸な技術家達の代りに、技術家であるなしに関係なく、発明の天才者でなければならぬということになる。――だがもし本当にそうならば、一体発明の奨励というどこの国でも行なっている社会施設そのものが無意味でなくてはなるまい。なぜなら発明的天才又は一般に天才は、この考え方からすれば、社会施設によって奨励されると否とに関係なく、偶発的に天来のように発生しなければならない筈だったからである。
* 天才が社会的には、即ち人為的には、生産され得ない神秘的な偶然なものだという思想は、可なり広く行なわれている。そして発明乃至発見というものはそうした天才のものだという考えも決して珍しくはない。例えば「発明の才能は偶発物であり偶然の性質を有っている云々」(Ch. Nicolle, Biologie de L'Invention 1932)。――だがそうすれば発明には何等の合理的な規則的な方法もあり得なくなる。処が実際には、吾々は今日まで多くの発明方法の理論を有っているという事実を忘れることは出来ない(この点に就いては J. Picard, Essai sur la Logique de L'Invention dans les Sciences を見よ)。 実際には併し、このような非合理主義的発明観乃至発見説と無関係に、一切の発明や発見は社会的必要に逼られて、必然的に発生して来ている。アメリカは何も、コロンブスの冒険的創意によって発見されたわけではなかったし、ワットが鉄瓶の蓋の上るのを見て蒸気汽罐の原理をフト思い付いたということも、完全な近代神話に外ならぬ*。で、発明や発見は社会的な客観的必然性によって発生するのであればこそ、一つの社会施設として、発明乃至発見の奨励ということにも初めて意味が生じるわけである。
* J・ワットが蒸気汽罐を「発明」した時には、すでにイギリスではパピンの考案になる蒸気汽罐が、鉱山で技術的に経済的に使われていたのである。ワットの「発明」の主なものは、この蒸気汽罐のコンデンサーをシリンダーの外に装置するように改良しようというパテントに過ぎなかった。それを非合理主義的な発明観や天才説が、鉄瓶神話にまで盛り立てて了ったのである。 で、発明乃至発見が、こういう具合に社会施設によって、「奨励」され得るということは、その社会的地位から云って特別に有利な条件を平均的に具えている人々に対して、この奨励が特に有効だということを認めていることで、それはつまる処、技術家の社会的優遇ということに帰着する外はないのである。発明や発見を最も奨励し甲斐のあるのは、偶然な孤高の天才ではなくて、平均的に考えられた技術家なのである。
さて、資本主義社会も社会主義社会も、技術家の発明的天才を社会的に助成することに努力しているのだが、技術家の発明的天才という観念自身が、資本主義の下と社会主義の下とでは、別であることを見落してはならない。Laissez-faire や、事業のイニシャティーブの名の下に、個人の個性をば社会の原理とするブルジョア社会に於ては、一方に於て発明が社会的に助長され得ねばならぬと信じながら、併し他方に於ては、発明は個人的独創に委せられる外ないと信じている。と云うのは、発明は特定の少数な選ばれた発明技術家の独創に対してしか期待されないもので、之を広く全技術者群に、全技術家大衆に、求めることは無意味であり又無用でさえある、と考えられている。独創は天来によるものであって社会的に奨励など出来るものではないと考えられる。そうすればここでは、発明は依然として、少数の孤高な選ばれた偶発的な技術的天才者の独創によるものだということが、暗々裏に想定されているわけである。
技術が大衆のものではなく、技術家が大衆から隔絶されているブルジョア社会では、階級的に制限されたブルジョア技術家の、発明的天才が、このように個人主義化され天才化されることは、蓋し当然だと云わねばなるまい。ここでは発明は個人的――天才的――発明に限られるのであって、大衆的発明や独創の大衆化と云ったような観念は、一つの矛盾だとさえ思われるだろう。技術の促進は技術家大衆の必然的なイニシャティーブによって行なわれるのではなくて、高々、階級的に数を制限された一定範囲内に偶発する少数の天才的諸個人の思想をあてにしてしか行なわれない、ということにならねばならぬ。これでは発明の大した集積は期待出来ず、又発明技術家が、一般的に優遇されるということも不可能になるだろう*。
* 無論こう云っても、発明はどのような条件の下にでも多少とも自然発生的な展開を見せるということを忘れてはならぬ。特に今日のような軍需上の必要が喧伝されているような時代に在っては最も手近かな発明が続々として現われることも可能である。曰く無電飛行機・白粉から鋼鉄を取る発明・強力磁鋼・アルミニウムの銀メッキ・金属性織物・其の他其の他。だが注意すべきは、之等のものが多くは技術の跛行的な発達に寄与する処のものであって、必ずしも技術の正常な発達の因子だとは限らないという点である。 労働者農民が自分の内から大衆的に技術家を見出さねばならず又見出すことが出来る筈の社会に於ては、技術家の発明的天才・独創の観念、又発明そのものの観念は、之とは全く別である。ここでは発明的天才・独創は広く大衆的に開発され、発明は大衆的に奨励されるだろう。発明はこの時初めて無条件に発展し、又発明的技術家は、この時初めて一般的に広く、その優遇を享受することが出来ることになるだろう。技術の促進が之によって、他の社会に於けるものよりも、より正常により急速に行なわれるだろうことは明らかである。
発明家――発明技術家――を保護し優遇する筈である専売特許制度は、資本主義社会に於ては却ってその反対物に移行している。之によって保護され優遇されるものは、発明技術者ではなくて、パテントを安く買い取った、又は定給の支給によってパテントの占有を契約した、非技術家たる単なる資本家でしかないが、それだけではなく、発明技術家の受け取る筈であった利得は資本家の利潤に転化することによって、発明技術家自身に対して間接な損失となってさえ現われて来るのが落ちである。発明の機能はもはや技術の促進ではなくて、商品生産の労働となる。発明技術家は特許制度によって保護され優遇されることを通して、発明技術家全体としては結局圧迫されることにならねばならぬわけである。
元来資本主義社会に於ける特許制度は、今日では、技術の発展を促がす代りに、技術本来の発達を抑制するのがその唯一の機能となって了っている。多くのパテントは独占され握りつぶされて、恐らく永久に地下に葬られ去るだろう。発明技術家自身の運命も亦之である。
独占資本主義の一つの機構であるこの資本主義的特許制度に対して、ソヴェート特許法の原理を対比させて見れば興味があるだろう。之によれば、特許権が個人的企業家に向って売却され、無政府的で主観的な思惑による価格が発明技術家の報酬となる代りに、新しい発明は試験所に提出される義務と権利とを持っており、この発明が国家の産業計画に沿って年額どれだけをセーブ出来るかによって、その客観的な価値が評価され、それに対応する社会的優遇(年金・一時金・賜暇・研究補助・等々)を発明技術家が亭受することになっている*。
* 詳細に就いては The Soviet Patent Law, 1931 を見よ。なお付篇「独創と大衆――大衆的発明と特許法」を見よ。
残る問題はさし当り、技術家の啓蒙・技術家による啓蒙・等々の問題である。吾々はここで(ブハーリンが指摘している)技術のプロパガンダや技術的出版界に就いて考えて見なければならないだろう。だが之は「技術家のイデオロギー」という問題の一部分に外ならない。別の機会にこの問題を取り上げようと思う。