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技術の哲学
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技術の哲学
戸坂潤
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번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 6 of 7

付、独創と大衆――「大衆的発明」と特許法

社会主義の社会になると、社会関係が統制化され計画化され、その結果として事物は凡てスタンダライズされる。そこで万事につけて希望を失った資本主義思想家に云わせると、そういう社会には折角だが人間の何のオリジナリティーもなくなるらしい。この新しい社会も矢張り相変らず資本主義社会の延長にすぎず、資本主義社会の本質をなしている物質文明・機械文明は終焉するどころか益々露骨になって行くに過ぎない。魂の休憩である宗教のないこの機械文明・物質文明位、呪わしいものはないというのである。

こういう思想家によるオリジナリティーというものは、云わば手工業的なものに限られているようである。即ち個人というものを離れると独創なるものは考えられないようである。下は無名の下手物作者から上は純粋芸術の天才に至るまで、個人の個性ということがオリジナリティーだというわけである。

併し明らかにこれは滑稽な固定観念なのである。個人性ということだけが個性でもなければ、個人々々の個性ばかりが個性ではないのだから、独創と個性とを或る点で同一視出来るということからは、独創を個人のものに限る理由はどこからも出て来ない筈だ。一体主に一個人の意匠だけで仕上げられるような作品は今日の資本主義ではあまり大した意義のある製品ではあるまい。建築やキネマが、誰か一個人の個性を持っているとは考えられない。例えば装飾の具体的な各部分や俳優の一つ一つの表情は、すでに設計者や演出家の個性の云うことばかり聞いてはいない。それにも拘らず建築やキネマは、個性と云ってもよいなら立派に夫々の一つの個性を持っている。だから個性とかいう又は天才とかいう根本概念を改造してかからなければ、そういう概念はオリジナリティーを説明するには役立たない。

それから又、オリジナリティーを創造という概念で説明する場合がある。社会主義の社会は創造的活動に不利だという理由で、夫はオリジナリティーの圧迫される社会だと云う。一つの社会の実現そのものが大きな創造だという事は別にしても、この社会で圧迫されるだろうと想像される創造なるものが、この種の思想家の頭の内に於ては他愛もない通俗観念に過ぎないのである。文学的想像力の所産を創造の尤なるものだと考える文学者達は別としても、彼等は高々要するに眼新しいものの出現や思い付きの所産を創造と呼んでいるに過ぎない。だが無論そういうものは創造でも何でもなくて、空想の興奮でしかないだろう。

独創はなるほど個性的で天才的で創造的なものだ。併し個性とか天才とか創造とかいう概念が初めから奇妙に理解されていたとしたら、この言葉が全く何の役にも立つまい。本当の独創本当の創造はどういうものとして理解されねばならぬか。

吾々は大体こう思うのである。独創(創造)というのは新しい公式の抽出のことであると。併し新しい公式は天降って来るのでもなければ突然飛び出して来るのでもない。以前の諸公式の展開と総合とから、初めてそれが結果するのである。この結果が与えられた前の諸条件から物的に上昇している処に、その飛躍的な新しさと独特さとがあるのである。事物はそれ自身に於て展開し抽象し又総合しながら運動して行くわけだが、独創(創造)というものは、外でもないこの運動を俊敏に追跡することに他ならない。

独創をこういう風につかむことは、之を文学的に理解する代りに云わば技術的に理解することであると云っても好いが、そういう独創が社会主義の社会では無くなりはしないかという心配は、だから全くの取越苦労という外はないだろう。

社会主義の社会に於てはこの意味で、大衆こそ独創的でなければならず、それが又ソヴェート同盟などに於て事実となって現われて来つつある様である。そこでは独創的な個人が社会計画の結果として大衆的に輩出し、それが凡て社会的に役立てられなければならないのである。

この点は、既にソヴェート同盟の生産技術上の独創性に関して指摘することが出来る。資本主義の社会では発明という生産技術上の独創は、無論社会全般(?)の福祉を増進するためにこそ奨励されねばならぬと考えられているにも拘らず、それが全く個人主義の観点から取扱われる。発明者は国家から特許権を獲得した場合、それから先は彼の貴重なパテントを単なる一商品として、砂利や古新聞と全く同格に、商品交換の自由競争場裏になげ出す外に道はない。それが資本家によって買い上げられればまだしも、あまりに有効な発明は失業を増大させるから却って特許を与えられないという憂目さえ見なければならない。資本家によって買い上げられたパテントは旧いパテントで充分に利潤が上っている限り永久にとって置きになるかも知れない。だから折角の社会的な大発明も全く個人的な有償無償の物数奇な試みに還元されて了う。発明は個人の気紛れな興味に一任されて了う。

処がソヴェートではこのような個人的発明に対して大衆的発明を対立させている。ソヴェートの特許法は初め一九二五年に発布されたが、一九三一年四月九日付を以て新しい情勢に相応するように改正された。それによると労働者発明家は自分の発明・技術上の改良・又は意見によって特許を得ると、政府は早速之を産業に適用せねばならぬことを規定する。その際彼はこの適用に立ち会わねばならぬ。この適用の結果生産上節約し得た客観的に現われる年額に応じて、彼は一定率のプレミアムを労働報酬として受け取る。このプレミアムは現金で支払われることもあれば、旅行・賜暇・転地、等の形で与えられることもある。その他になお、発明家として必要な生活資料や研究機会などの生活上の優先権を与えられることになっているのである(The Soviet Patent Law, 1931, Moscow 参考)。

こうして発明家は実質上大衆的に保護され、発明は実質上大衆的に奨励される。そしてこの奨励方法は、資本主義的個人の無政府的な自由競争に一任されるのではなくて、大衆の「社会主義競争」にむすび付けられているのである。労働者大衆の個人の発明は無条件に社会的発明として大衆的に役立つことが出来る。之が大衆的発明の観念であり、生産技術上の独創はこういう形を以て現に実現されつつあるのである。

これは特に生産技術の上での独創に就いて述べたのであるが、単にそういう技術的な独創に就いてばかりでなく、もっと一般に、云わば精神的な独創に就いて迄も、この結果を一般化すことが出来ると思う。もし技術的な独創と精神的な独創とは本質上別なものだから、精神の世界では大衆的独創などあり得ないと主張する者がいるなら、彼は多分大衆的独創という言葉を誤解しているのであり、そうでなければ精神界の独創という言葉で何か勝手な幻影を楽んでいるからだろう。精神というものも広義に於て技術的な本質のもので、頭脳労働と筋肉労働との対立が資本主義的生産形式の一結果に過ぎないと同様に、精神と技術との対立はブルジョア・イデオローグの固定観念に過ぎない。私は独創というものが一般に技術的なものだということをもう一遍云っておきたいのである。

Chapter 6 of 7
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