一 準備的考察――概念の分析に就いて
吾々の問題を正当に提出し得るためには、提出に先立って、次の準備が是非とも必要である。
第一に、吾々は何を概念と呼ぶか。
その説明を試みるために、理解という言葉から出発しよう。考え・思惟し、知り・判り・認識すること、即ち知識と知恵、並びに夫と直ちに一つではなくても夫に基く限りの一切のもの、一言で云うならば最も源泉的な意味でのロゴスの働きにぞくすもの、之を人々は最も広い意味に於て理解と呼んでいる。人々の言葉の内にあっても、この言葉は最も重大な役割を占め又最も必要な表現の一つであるから、従って又それだけ人々が之を語る意味は様々であるのが自然である。しかし今こう云った理由は、理解という言葉が学者達の術語として一致を欠いているからではない。吾々が或る言葉を説明する時、それがもし日常語であるならば、無論之を日常語として説明しなければならない。併し之に反してもしそれが専門語であるならば、吾々は第一にそれを或る一部の専門家が定義した名辞として、第二にその専門家のぞくす専門的世界の術語として、之を説明しなければならない。併し更に重大なことは、この術語が日常生活に於ける言葉――日常語――から、どのような手続きを経て派生して来たかを探ねることである(日常語と専門語との区別とその区別の権利は後を見よ)。尤もこの専門が realistisch な部門であるならば(例えば数学や物理学のように)、術語が発生する地盤としての日常語を探ねることは、必ずしも意味のある労作ではないかも知れない。誰も群とか環とか場とかヴェクトルとかいう術語を日常語から出発して説明出来るとは思わないに違いない(但し数などは之と趣を異にしている)。之に反してもし humanistisch な部門であるならば、術語が日常語に於て有つ地盤を検討することは多くの場合非常に必要であるであろう。そして哲学――この多義な言葉を最も普遍的に用いるとして――に於ては、どのような場合にも、このことが絶対に必要である。もしそうしなければ、哲学は常識(その正確な意味は後を見よ)からの通路を有たないこととなり、入口なき象牙の塔の内に閉じ込められて了うこととなるであろう。数学・物理学などにとって通路を形造っているものは、計算や実験であるが、哲学にとっては之に相当する通路が失われて了うことになる。そこで理解という言葉が様々に語られると今し方云ったのは、この言葉が専門家達の術語として一定していないということを云おうと欲したのではない。そうではなくして正に、それが日常語として、――そして日常語の常として――一定していないことを指摘したかったのである。さて理解という日常語はこのようにして多義である。併し多義なロゴス――言葉――の内には、おのずからロゴス――関連――がなくてはならぬ。
或る人は理解を何かしら受動的なものとして考える。何物かを例えば創造することは能動的であるが、能動的に創造されたこの物に就いて受動的に観照することが、理解である、とそのような人々は思い做す。この思い做しに基いて理解は表現――それは能動的である――から区別されるのが普通である。併し表現は記号から区別される、という意味は、表現は常に生命あるものの表現である外はない。処が生命を表現するには表現者が自己の生命を、即ち表現者自身を、何かの意味に於て既に理解しているのでなければならない。そうでなければ表現者は如何に自己を表現すべきかを決定する自由を持たないことになる、そしてこの自由を欠く時、表現は表現ではなくして模写に過ぎなくなって了う。表現するには表現者自身の理解がある筈である。この理解と表現されたものの理解(向の観照のような)とが同じであるとは、併し吾々は考えない。二つは同じ理解という言葉に値いする、それにも拘らず之を同じと考える理由はない。この関係は次のことを帰結する。表現されたものを理解することばかりが理解の名に値いするのではないということ(この場合理解は常に日常語として語られているのを忘れてはならない)。故に日常語としての理解は、必ずしも今云った意味に於て受動的なものには限られない。それには受動的ではなく従って能動的である場合も許されなければならない。理解に代り理解のこの能動性をも云い表わす言葉を吾々は把握に於て見出すのである。表現を理解すること――それは受動的であった――も、表現すること自身――それは能動的であった――も、把握である。表現されたものが把握されねばならぬと同時に、表現するためにはまず把握していることが必要である、表現すること自身が把握ですらあるのである。なる程受動的な理解であっても或る能動性(積極性)は有つ、この理解の力によって、単に深く見えたものが初めて透明にされるからである。又それと同じに、能動的な把握であっても或る受動性(消極性)は有つ、把握は無から有を把握し出すのではないから。併しそれにも拘らず所謂理解は受動的であり、把握としての理解は能動的であると考えられなければならない。けれども把握とは何か。
受動的理解は静観の立場に止まる、――観照がその適例であるであろう。受動的又は能動的理解は一般に、理解されるべきものを匡めて理解するのではなくして、それをあるが儘に理解することである(その説明は後に与える)、処が受動的理解は更に、静観的にあるが儘に之を理解する立場にのみ止まり、之を一歩も超えることをしない。吾々は或る物――例えばモデル――をそれがあるがままに理解する場合にしても、之を変革すること――例えば創造――を必然ならしめる場合があるであろう。表現する場合に之に先立つ理解が夫である。受動的理解は之をなし得ない――それは静観的である(実践理性から区別された理解―悟性を見よ)。然るに能動的な把握は恰もこの点に於て所謂理解とは性質を異にしている。把握は向に示された通り表現の把握であることが出来たから、――そして表現の把握は表現の理解に相当したから――、その限りは静観の立場に立ち、必要によっては之に止まることも出来るであろう。把握はこの限り理解と全く同じ能力を有ち、従って把握は理解を完全に代理する。併し把握は単に之に止まらず、更に理解されるべきものの変革を必然ならしめる契機となる性質を持つ。この意味に於て把握は実践的であると云うことが出来るのである。但し、把握が実践であるというのではない、把握は実践それ自身ではない、併し実践を必然ならしめる契機をなす、というのである。かくて所謂理解は静観的であり之に反して把握は実践的(それは静観的を含むことが出来る)である。処で単に理解するということは理解されるべきものを少しも変革することは出来ない。併し理解が真に理解であるためには、その理解によって理解されるものが理解者の使駆に委ねられ得ることが必要な条件であるであろう(一つの定理を理解するとはこの定理を応用し得るということである)。この積極的能動力――実践的――理解を云い表わすものが把握であった。故に把握は所謂理解に較べてより根柢的な理解を意味する(常に日常語としてであることを再び注意しよう)。
理解一般は更に、理論的理解に限られない。何となれば向の例に於て、創造されたるものの理解は、もし理解が理論的に限ると考えられたならば、恐らく意味を失って了うであろうから(そして理論的でない上は尚更論理的ではあり得ない)。現にディルタイにあって理解は情意的な理解である必要があった。そうすれば把握も亦――実践性に於てのみ所謂理解から区別された把握も亦――、理論的に限られる理由はあり得ない(まして論理的である理由は尚更ない)。把握は又情意的でもあり得なければならない。――かくして二つのことが明らかにされた。一方に於て把握は静観的に止まらず実践的であり、他方に於て理論的に限らず又情意的である*(但し日常語として)。
* 理論は情意に対し、実践は静観に対する。二つは原理を異にした分類である。意志が実践であるのではなくして意志の実践が実践なのである。理論と実践とは却ってこのことによって、結び付く意味を見出すことが出来るであろう。
理解の二つの意味が区別された。理解と把握。そして後者が前者を含み、その根柢をなすことも亦説明された。尤も人々はどの意味に於てでも、理解というこの日常語を用いる権利はあるであろう。日常語に於て最も根柢的――但し日常語として根柢的な――名辞を採用する必要のある吾々は把握を択ぶ。理解とは把握(Greifen)である。けれども求めるものは理解ではなくして概念であった。
把握(Greifen)から連想されるものは概念(Begriff)である。理解は普通より多く日常語として通用するから、吾々は理解の説明に於ては日常語としての夫から出発した。之に反して、概念は普通より多く専門語―術語として通用すると思われる。吾々は今度は専門語としての「概念」から出発し、之を日常性にまで追跡することによって概念を説明するであろう*(日常性が「より多く通用すること」、普通性、でないことを後に述べる)。
* 吾々は術語としての概念を術語としての表象及び観念から区別する。日常語として三者は相似た意味を有つかも知れない、併し吾々の出発は術語としての概念であるからこの区別は最も必要である。但しこの区別を改めて述べる余地はないと思う。
概念は根本的に異った二つの種類を有つ。その一つは構成的概念である。論理学及び数学は或る論理的なる要素によって論理的に構成された体系である。というのは例えば斉しく理論的であっても、物理学は決して論理的なる要素の体系ではない(尤も特殊の哲学的立場――汎論理主義のような――に立つ時は論外である)。仮にマッハをして云わしめれば、感覚的要素――この要素自身はどのような意味に於ても論理的要素ではない――の体系こそ夫である。之に反して先ず数学は論理的要素(例えば集合論に於ける要素の如き)に基いて論理的に構成される。かくて矛盾律の整合――之はとりも直さず論理的構成を云い表わす――だけを体系の基準とする公理主義は、ただ数学のような論理的要素の構成体系に於てのみ、初めて発生することが出来るのである。かくて数学は論理的要素から論理的に構成される。そしてこのことは又形式論理学に就いても同じであるであろう。論理はこの場合、この意味に於て構成性を有つ。かく構成性を有つが故に、例えば実在から独立した論理自身の領野というものも成立することが出来る。処が又一方形式論理学及び数学は独特の意味に於ける概念の体系である。故にこの場合の概念は構成性を有つことが必然となる。既に挙げた群・環などは云うまでもなく、数又は点・線などに至るまで、近世の数学者が指摘するのを怠らない通り、数学の対象は何れも終局は「定義され得ない物」に基くのであるが、之は却って数学的概念が論理自身の独立の領野に於て構成され又は論理的要素として之を構成する処の、その構成性を告げているに外ならない。形式論理学に於ける概念は又、実在乃至存在から、或いは知覚乃至表象から、区別された「概念」という独特の存在(無論特殊の意味に於ける)を有つ処のものである。例えば自然ではなくして自然という概念――その基体は言葉でしかない――とか、直観ではなくして直観という概念とかのように、それは外見上自己以外の何物かを意味し云い表わすかのように見えながら、実は却ってそれ自身をしか云い表わさないような、もはや概念以外の何物でもない処の、概念という独立の存在を有つ(数学乃至数学的論理学に於ける文字(Charakteristik)はかかる存在の記号に外ならない)。それであるから構成的概念は、それが論理的なる領域に於て構成され、又それが論理的なる領域を構成する点を捉えて、正当に論理的として性格づけられることが出来る。さてこの論理的概念=構成的概念をば、やがて説明される理由によって、概念と呼ぶことをさし当り控えるであろう。
第二の種類の概念は把握的概念と呼ばれることが出来る。把握的概念は構成的概念のように、概念という特殊の存在を云い表わすのではない。そうではなくして常に他の何物かを――概念ならぬ何物かを――意味し、理解せしめ、把握せしめる処の概念である。例えば自然という概念ではなくして云わば自然に関する概念のように、この概念に於ける存在は概念ではなくして――向の構成的概念ではそれが概念であった――正に自然そのものでなければならないのである。それ故この概念によって最も広い意味に於ける実在――論理の世界から区別された実在――に関する概念が初めて成り立つことが出来る。把握的概念は実在を徴候づけることが出来る―― semantischer Begriff。この概念は、例えば自然概念として、無論自然それ自身ではなくして自然概念であるのであるから、その限り論理的と呼ばれる理由はなくはないであろう。けれどももし之と構成的概念の有つ論理的とを同一視し、それによって何かの結果を惹き出そうとするのであったならば、吾々は云わねばならぬ、把握的概念は論理的ではない、と。何となればそれは構成的ではないから、そして論理が構成的である時にのみ論理的という形容詞は使われ得るのであったから。
さて二つの概念、構成的概念と把握的概念を得た。処で前者はより専門的であり後者はより日常的である(日常的と専門的の区別は後を見よ)。吾々は日常語としてより根柢的な把握的概念を、概念として採用する。従って向に示した通り、構成的概念はさし当り概念ではない。蓋し構成的概念は把握的概念から派生し、従って吾々は之をただ派生的な意味に於てのみ概念と呼ぶことが出来るであろう――但し日常語としての概念として。術語としての概念としては構成的概念がより根本的であるかも知れないが。
併し概念(把握的概念)は理解(把握)によって説明される約束であった。
理解(把握 Greifen)と概念(Begriff)とは勿論一つではない。けれども仮に把握を時間的に起こる一つの働きに譬えて見よう。その時概念は第一にこの把握という働きの結果に譬えられることが出来るであろう。把握されて得た処のもの、それが概念――把握的概念――と考えられる。白い物が、白い物の概念として、即ち白い物として、把握された場合が之である。第二に概念はこの働きの出発点に譬えられるであろう。白い物として把握されるべき白い物の、概念が把握される場合。又最後に概念は把握の働きを遂行せしめる処の運動のエージェントに譬えられるであろう。把握は常に概念によって遂行されると考えられる場合が之である。この譬喩によって知られる通り、把握は把握的概念によって行なわれるのである。理解するとは概念を有つことに外ならない。前者は一つの verbum を、後者はそれに対する substantivum を云い表わす言葉と云うことが出来るであろう。ヘーゲル的術語を借りてよいならば概念は把握の Fr-sich-sein であると考えられる。把握とは概念することである。人々は吾々のこの言葉を承認しないであろうか。併し吾々はこの言葉が正しいか否かを人々に問おうとするのではない、却って吾々の概念は把握に対してこのような関係を有つものとして理解されねばならぬということを、吾々は人々に求めるのである。吾々は寧ろこの要請に基いて概念を定義してよいであろう。さてそうとすれば吾々の目的――概念を理解によって説明するという目的――にとって有利な一つの法則を得る、概念は理解の対自であるという条件の下に、吾々は常に理解と概念とを統一的に取り扱うことが出来る、という法則。理解と概念との統一、之が吾々が或いは理解、或いは概念、と呼ぶ処のものの真理である。故に理解に就いて云うことの出来たことは、その儘、但し今の条件の下に、概念に当て嵌まらなければならない。
概念が理解の対自であるという今の条件を理由として恐らく人々は云うであろう、であるからたとい理解がどうあるにせよ少くとも概念は論理的でなければならない、と。理解することが論理的ではないにしてもその理解の固定した断面とも云うべき概念は論理的存在ではないか、と。処で吾々はそのような主張又は杞憂を防ぐために、特に把握的概念が論理的ではないことを指摘しておいたのである。対自性によって論理的となるもの、それは恐らく構成的概念――それは論理的であった――であろう、把握的概念の与り知ったことではない。
今や吾々は理解(把握)を借りて之に基いて概念(把握的概念)を説明することが出来る、そのための法則を今吾々は掲げた処であった。把握は静観的であったばかりではなく実践的であった。故に概念は静観的であるばかりではなく実践的でなければならない。之は人々の耳には不可思議に響くかも知れない、実践性を有った概念とは(実践的なるものに就いての概念ではなくして明らかに実践性を有った概念である)。併し今の場合の実践的は実践を必然ならしめる契機となることが出来るという意味であったのを憶い起こさなければならない。概念が行動するなどと云うのではない。尤も単に言葉を以て表現するという意味での把握的(表現的)概念だけを概念と考えるならば、それが実践的であるという言葉は、今云った意味に於いても、まだ軽率であるに違いない。併しかかる表現的概念を適当に――その日常性にまで――拡張することをこそ、吾々は把握からの口授によって教えられるのである。その時概念は単に言語的に表現するものであるばかりではなく、実践的に表現する――行動する――ことを必然ならしめる契機となるものでなければならない。実践の根柢には把握があり、その限り又把握的概念があるのである。次に、把握は理論的であったと共に情意的であり得た。故に概念は理論的であると共に情意的でなければならない(把握的概念は理論的ではあり得る、併しそれは無論論理的であることとは異る)。再び人々は疑わしげに聴くであろう、概念が情意的であるとは。一体そのようなものが何故概念の名に値いするのか、と。けれども人々を不意に襲わないためにこそ、吾々は理解の説明の迂路によって概念を説明しようとするのである。例えば人々は友人の友情を理解しないであろうか。併しこの理解は理論的であるか(吾々は常に日常語を取り扱っているのを忘れてはならぬ)。彼の友情を理解することは彼の友人となることであるが、それは彼に対して友情を持つことである外はあるまい。そうすれば彼の友情を理解することは彼に対する友情そのものでしかあり得ない。人々は理論的友情を持つと云うか。処で理解の対自性が概念であった。友情の理解の対自性は友情の概念でなければならない。尤も友情を持つことと友情の概念を持つこととは別であると云うであろう、明らかに別である。ただ人々によれば前者が恐らく情意的であるに対して後者が恐らく理論的である迄である。吾々は何も理論的概念を否定しなかった。ただ之に限らなかった迄である。かくて把握的概念は情意的であり得る。
之が吾々の「概念」である。それは或る種類の哲学に於て用いられて来ている術語「概念」ではない。もしそのような術語として之を理解するならば、吾々の概念の説明はそれ自身一つの矛盾の外ではなかったであろう。之に反して吾々の概念は出来るだけ通俗的に、日常語として理解されなければならない。その時日常語「理解」が許される処には又必ず概念という言葉が権利を有つ。所謂概念をあのように悪む芸術に於てすら作品は一つの概念の(或いはイデーの)展開として説明される、吾々はそれを何か仔細げにいぶかる理由を有たない*。
* 概念とはそれでは要するにイデーであるのか、と人々は尋ねるかも知れない。けれどもイデーは理念としても観念としても概念としても意味を有つ。その問いは問題を単純化する代りに混乱させるに過ぎない。それに又イデーという術語を以て吾々の概念を説明することを求めること自身が、無意味である。
人々は最後の疑問を提出し得るかのように想像するに違いない。それはこうである、なる程概念をそのように「あれもこれも」を意味するものと仮定するのは勝手であるが、少くとも理論的な概念と情意的な夫とを区別するには区別の標準がなくてはならないが、その標準が再び従来用いられて来ている「概念」の有無によって与えられるのではないか、と。人々がこれを理由として吾々の概念――それは吾々が仮構したものではなくしてただ吾々が日常生活に於て指摘した事実に外ならない――の困難を見出したと想像するならば、それは完全な誤りである。日常語としての概念の内に従来の――哲学的術語としての――概念によって特色づけられる或る部分があるということは、至極事実上ありそうなことであるし、又吾々の理論の整合から云っても充分成り立って好いことではないか。却ってこの日常語を地盤としてこそ初めて吾々はこの術語をも統一的に理解し得るのである。併し人々は叫ぶであろう、術語として普通通用している概念を捨てて特に日常語としての所謂「概念」を紛らわしくも概念と呼ばねばならない理由が何処にあるのか、と。なる程それを概念と呼ばずに外の名を以て呼ぶことは勝手であるようである。併し吾々の目的――空間概念の分析――にとってはそれを概念と呼ぶことが必要なのである。何となれば空間は吾々のような意味に於て、そして人々のような意味に於てではなく、空間概念であるであろうから。併し空間が何故空間概念である必要があるのか。空間が分析され得んがために(後を見よ)。
概念は理解と離れて理解し得ず、理解は概念と離れて概念し得ない。以後両者はただ両者の統一の真理の上に立ってのみ語られる。
理解とは常に性格を理解することである。人を理解するとはその人の性格を理解することに外ならない。理解される限りの一切のものは性格を有つ。桜は桜として梅花は梅花として、花は花として葉は葉として、木は木として草は草として、植物は植物として動物は動物として、夫々の性格を有つ(普遍は普遍として個物は個物として夫々の性格を有つのであるから、性格は普通想像され易い処とは異って、類や種――それは術語としての概念と離すことは出来ない――とは無関係である。従ってその限りの個物・個体・個性とは関係がない)。性格とは第一にものの性質である。尤も具体的なものは無限の性質を持っていると考えられる。そこで第二に、他の一切の諸性質を代表する*処の性質、特徴、が性格である。けれども特徴は事情によっては複数であるであろう(例えば或る構成的概念が上概念と比較されるような事情の下には数多の徴表が指摘されるのを普通とする)。そこでこのような凡ての特徴を更に代表する処の優越した最勝義par excellence な特徴、之を性格と呼ぶのである。理解はこのような性格を把握する**。
* 代表という概念は例えば抽象という概念と比較されるべきではない。後者は類・種の系列に関係する。処が前者は之とは無関係であった。** 性格を理解し誤ること――誤解――の内、最も救い難く見えるものは見当違いである。後に見当違いが吾々の問題――空間概念の分析――に於て、どのような役目を演ずるかを見るであろう。
理解は某性格の理解であるから、その限り某理解はその某性格を有つという言葉が許される。従って又この意味に於て、某概念は某性格を有つと云う言葉も許される。併しもし、理解がその某性格を(模写説的譬喩を借りるならば)その儘受け容れるのでないならば、即ち理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解するのであったならば、それは理解ではなくして一つの人工的加工――説明――に外ならないであろう。それは一種の誤解である。理解するに先立って性格が客観的に成立しているというような考え方を吾々は許さないが、仮にそのような立場*の言葉を借りて語るならば、今のような場合は客観がその儘主観に写らなかった場合に相当する(これは所謂誤謬である)、理解が理解すべき某性格に対して、自己の持つ理解という烙印を押すならば――そして之は理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解することであるが――、即ち、某性格をば自己の性格――「理解されたる」と形容すべき性質――を以て覆うならば、そうすれば、某性格は消えて理解の性格だけが現われなければならない。これが向の一種の誤解である。というのは理解の性格を与えることは常に次のような承認を与えることになる、こうは理解したが実際はどうあるかを知らない、と。「私はそう思う」とか「彼の考えによれば」とか云う場合は、「私(又は彼)によって理解されたる限り」という条件を提出する場合であるのであるが、このような条件はとりも直さず理解の性格に相当する。もし或る性格を絶対に把握したと思われるならば、「私は(又は彼)が理解した限りは」という断わり書きは無用である筈である。故に理解が完全な理解であるためには理解自身は「理解されたる」という性格を、理解されるべき某性格に押しつけてはならない。かくて理解はそれ自身としては、理解されるべき性格に対しては、無性格でなくてはならないことになる(無論吾々が今理解を語る時は、その理解は理解という性格を有っている。しかし理解を理解している処の理解は無性格である)。理解が無性格であればこそ、ものの性格がありのままに理解出来るのである**。
* 主観と客観との二面の対立を仮定しこの両者の関係づけによって認識を説明する立場、之は認識論と呼ばれる。併しかかる認識は理解とは無縁である。理解は主客の対立と関わり合う必要も理由もないから。従って表象又は観念――それは主観(その限り又意識)である――は理解と関わりがない。故に又概念とも関係がない。** もし理解が何か働きを有つとするならば、例えば理性や意志や又は自我の働きであるとするならば、理解されたものはこれ等の性格を有たねばならぬ。例えば物質は物質の性格として把握される代りに、理性・意志・自我などの所産として(それ等の性格を有つものとして)説明される。茲に形而上学が成立する。
さて理解の無性格は直ちに概念の無性格を要求する。某概念は某性格の概念であるから、その限りその概念は某性格を有つと云うことは出来る。けれどもこの概念は概念という性格を有ってはならない。概念「直観」が、直観概念が、もし概念という性格を有つならば、即ち概念でしかないならば、この概念は直観の概念ではなくして概念の概念になって了う。かくて直観は消えてそれと正反対な概念が残る。かくしては直観という概念自身が成立しなくなるであろう。概念が自己の性格を有つ時、却ってその存在を失うことすらあるであろう。概念が概念であるためには、却って自分自身は無性格でなければならない。
把握的概念は無性格である。之に反して構成的概念は性格を有つ。否、概念一般が概念という性格を有とうとすれば、それは必然に構成的概念になる外はないのである。何となれば、概念という性格を持つことによって初めて、概念は独立し、それ自身の世界を構成し得るのであるから。であるから吾々が一般に概念に就いて語る時、常に先ず、それが無性格であるかないかを決めてから語らなければならないであろう。これを混同する時、重大な結果を齎す。例えばヘーゲルの概念を、絶対的な、独立な、自己発展的な理念、と解釈し得るならば、それは性格ある概念――構成的概念となる。その時この体系は観念的なるもの――それの性格が概念である――の所産の集成として説明され、形而上学となるであろう*。
* 或る人々は静的実在を想定する哲学をのみ形而上学と呼ぶのを当然と思い做す。けれども吾々にとっては実在の絶対化・独立化こそ夫である。絶対化・独立化は必ずしも静止化ではない。
吾々の概念は無性格である。之を性格者と考える時多くの批難が吾々の概念に向けられるであろう。吾々の概念が一切のものを観念化しはしないかという質疑がその一つである。吾々の概念が一切のものを論理化しはしないかという質疑がその二である。併し再び云おう、概念は無性格である、それは観念的という性質も論理的という性質も持ちはしない。
概念は常に名称(名辞)を有つことが出来る。或る概念をどの言葉によって名づけようとも一応は勝手であるとも考えられるであろう。併し吾々が出会う殆んど総ての場合は、或る課せられた概念をば、既知の言葉を以て名づける場合であることを、注意しなければならない。或る課せられたものを観念と呼ぶことによってそれの概念を成立せしめるか、或いは物質と呼んでそうするかが、問題となるように、既知の――歴史社会的に与えられたる――言葉の内から、この概念に適すると思われる言葉を採用して、命名するのである。処がこの場合の命名は決して勝手であることは出来ない。歴史社会的に与えられた言葉は単なる発言の記号、約束、ではなくして、慣性的に一定した意味を有ち、既知の概念の表現であるから、この命名は実は、旧き概念の或る適当なるものを以て新しい概念を包摂することに外ならない。処で旧き概念は夫々一定の性格を云い表わす。故に命名とは課せられた概念が如何なる性格を云い表わすものであるかの決定である。そうすれば命名とは性格の理解でなくして何であるか。殆んど総ての場合、命名とは理解である。それ故或るものを何と名づけるかは人々の云い放つように単に「言葉の問題」ではない。その性格を理解しているかいないかの問題である。蓋し言葉は概念から独立に理解することは出来ないであろう(以下言葉は概念と同じ資格として語られる)。
処が概念の持つ名称はそれにも拘らず、それだけが独立して様々の変容を受け、遂にはそれが表現する筈の元来の概念を失って了うことが、事実上起こり得る。例えば意識という名称は様々な変容を経た揚句遂には、もはや意識と呼ぶ理由のない概念にまで就くことが出来る。この時意識という名称は意識という概念から離脱し、従って意識として理解されるべき性格を云い表わすことを止めるであろう。それは死語となる。さてこの場合変容は何処まで許され、何処から先は禁じられるか。概念は今云った通り理解されて――命名されて――成り立っている、概念の成立には性格の理解、命名の理由が潜んでいた。概念は常にその成立の動機に束縛されている。それであるから概念が一方に於て一定の性格を、又他方に於て一定の名称を手放さないためには、この概念は常にその成立の動機に忠実でなくてはならない。故にこの動機を忘却する時その名称の変容はその点に於て禁止される必要がある(この禁止を無視することは表象散漫の症状となって現われる――個人的にも社会的にも。例えば名称の戯画的適用)。又吾々が概念を行使する場合も亦、概念の動機を忘却することは許されない。もしそうでないとしたならば、例えば吾々は悪しき意味での抽象的概念を所有することになるであろう。その成立の地盤との連関――それが動機である――を省ることなくして勝手に或る概念を引き回わすならば、その概念は全く任意の人工的変容を受けるであろう(概念が捏弄される)、かく変容された概念はもはや前の連関の一環としては当て嵌まらなくなって了うであろう(概念は検証され得なくなる)、これが悪しき意味の抽象的概念に外ならない(之々の概念が抽象的であると決っているのではない。概念の取り扱い方によって如何なるものも抽象的となる。それ故具体という概念が抽象的に引き回わされるのを人々は往々見るであろう)。概念は抽象的となろうとする時その運動を禁止されなければならない。名称の変容の制限は概念の運動のこの制限に基く。この制限を与えるものが概念成立の動機である。
すでに触れた通り概念はその成立を有つ。歴史社会的に与えられることは、歴史社会的に成立することである。この与えられた概念を(命名に於てのように)採用する時、歴史社会的制約が吾々を制限する。この制約に制限されて初めてその概念は吾々に於て成立する。そして更にこの制約に基いてその概念を吾々が使用する理由が成立するのである。概念はこのようにして成立する。それは過程を有つ。そしてこの過程は歴史社会的制約に於てある。動機とはこの歴史社会的過程に外ならない。この動機を忘却する時、この概念は解体されて了うであろう、何となればその成立の過程が踏みはずされることになるから。そのようなものが概念の構造である。さて概念が成立するものとすれば、それはもはや単に与えられることは出来ない。それは与えられた既定の事実ではなくして、成立せしめるべく課せられた一つの要求であるであろう。現に吾々は単に所有しているだけでは或る概念を使いこなすことは出来ない、それを活用し得るためには、その概念の云い表わす要求を、課題を、吾々が会得していることが必要である。――概念は所有されているものではなくして常に発見されて行くものである。
概念は動機を有った。処が概念とは性格の理解であった。茲に動機と性格との関係が問題となる。性格が概念成立の動機となる、性格が動機づける、之によって初めて概念は動機を有つ。動機は概念の働きではない、何となれば一般に概念が概念として――性格者として――働くことは出来なかった筈であるから。
概念は性格を概念しそれによって動機を有つ。之が今まで得た結果である。概念の解釈は一まず止めて今は概念の分析に還る機会である。
第二に、何を概念の分析と呼ぶか。
今迄述べて来た処を次のように理解するならば、それは根本的な誤解である。性格というものがあり、そして之に対してその概念があるとして、両者を関係づけることによって、認識(理解)が如何にして可能となるか、を吾々が説明しようと欲したのである、と。第一吾々にとってはものとその概念とが客観と主観とのように対立しているのでもないし、又第二に吾々の問題は認識の基礎づけの問題でもない。このためには恐らく一つの体系を組み立てることが必要であるであろう。処が吾々は概念の(又は理解の)体系を組織したのではない。吾々は概念を以て世界やその認識を説明しようとは空想しない。それは恐らく形而上学か認識論の仕事であろう、併し吾々の仕事ではない。体系を組み立てるのに必要なものは総合である。故に吾々に必要であったものはこの総合ではない。ではなくして正に分析でなければならない。吾々の方法――それは体系ではない――は分析的であった。処でこのような分析とは何であるか。そう問われる。単に分析だけを引き離して解釈することは吾々には出来ないであろう、何となれば吾々にとっては分析は常に概念の分析なのであるから。
人々が普通何かを説明すると云う時、之を吾々の言葉に引き直して云うならば、実は概念の分析を理想としているに外ならない。そして普通単に分析と呼ばれるものも常に概念の分析でなければならない。「商品の分析」は実は商品概念の分析に外ならないであろう。なる程、商品概念を分析するのではない、商品そのものを分析するのである、と人々は云うかも知れない。併し商品ダイヤモンドを分析すると云っても、その結晶の構造を明らかにしたり、化学的分析によって炭素に還元したりすることが、その人々の商品そのものの分析であるのか。商品そのものがとりも直さず商品概念である。商品を商品概念としてではなく単に商品として理解するならば、その分析の意味は今示した通り曖昧であることを免れない。之に反して之を商品概念として理解するならば、――但し之は単に概念として理解するのではなくして商品概念として理解することである――、その分析は必然に吾々の(又人々の)云う処の分析となる。故に次のことは明らかである。商品が分析され得るためには商品概念が分析されるのでなければならない。凡そ或るものが分析され得るには、そのものは分析され得る通路を持たねばならぬ。この通路がその或るものの概念である。そしてかかる通路を有つその或るものが性格である。商品が分析され得る通路、それは「商品の概念」である。この商品の概念という通路を有つ商品、それは「性格・商品」である。そしてこの性格「商品」の分析が「商品概念」の分析である。このようなものが吾々の概念の分析なのである。――概念の分析とは結局性格の分析に外ならない。
概念の分析は単なる概念そのものの分析ではなくして常に、或るものの概念の分析である。と云うのは、或るものの単なる概念(例えば名辞)の分析ではなくして、その或るものを概念に於て分析することである。即ち、性格を概念に於て分析することでなければならない。処で一般に概念の分析はその分析が汲み取られるべき源泉を有つ必要があるであろう。もしそうでなければ分析は一歩も進められないか、もしくば強いて分析を進めようとすれば分析ではなくして内容なき捏弄に陥って了う外はない。そしてこのことはただ概念がその過程を失喪することに於てのみ発生する。処が過程を失喪することは吾々の概念に於ては許されない(構成的概念であるならば恐らく許されるであろうが)、故に概念の分析は源泉を有たねばならない。この源泉、それがとりも直さず又概念である。分析は概念に於て行なわれる、概念そのものを源泉として行なわれるのである(概念の分析は一定の目的を有つ、この目的こそ課題として掲げられたる性格である)。
今もし概念が構成的概念であるならば、その分析は進行することが出来ないであろう。これを隠蔽するためにはそれ故一つの捏弄に逃避する外に道はない。一方に於て概念に構成性を与えながら、他方に於て概念を分析し得るかのように思い做すためには、この捏弄は避けがたい。茲に概念のスコラ主義が成り立つのである*。概念と実在との同一を許さない限り、即ち概念に概念という性格を与え実在に実在という性格を与え、そして二つの性格を不思議にも同一化しない限り、このような概念の分析は何の結果をも約束するものではないであろう。結果を約束しない仕方、それは最も非方法的である。吾々の分析はかかる煩瑣的思弁と混同されてはならない。
* この場合分析の(実は捏弄の)源泉となり得るものは言葉だけである。スコラ的本体論とは「言葉の意味から分析的判断を引き出すことである」(Husserl, Philosophie als strenge Wissenschaft, Logos, Bd. . S. 305)。
概念の分析の源泉として意識現象が択ばれる場合。現象学が夫である。「本質の照観に於て把捉された本質は、少くとも可なりの程度にまで、固定した概念として定着される*。」このような本質概念を通じて、即ち本質の照観に溶け入るべき概念的な言葉の意味を通じて、現象は記述されるのである**。現象の記述は従って、種々の本質概念の間の関係を決定する処の一つの分析であるから、之を或る意味に於ける概念の分析と呼ぶことは出来るであろう。それは吾々の概念の分析と同じであるか。実際、本質概念は――但しその概念の分析ではない――吾々の概念と一応同じに考えられるであろう。と云うのは、第一にこの概念は決して構成的概念である理由を有たない。本質を不変にして一般的なものと考えるにしてもそれが所謂概念――構成的概念――であることにはならない。ただ把握的概念と構成的概念との区別を無視する時にのみ、本質は構成的概念であるかのように誤られるであろう(例えば W. Ehrlich***)。第二にこの概念は単に言葉の意味でもあり得ない筈である――それは「概念的な言葉の意味」であった。現象学の分析は言葉として用い慣らされている呼び方から出発しはするが、スコラ的概念ではない。かくして現象学に於ける本質概念は一応吾々の概念と一つであるように思われる。処がそうであるからと云って概念の分析は吾々のそれと一つであるのではない。現象学に於ては、概念の分析の源泉を現象に求める(そして現象は現象学に従えば意識である)、しかるに吾々の概念の分析は、概念それ自身を源泉とする筈であった。現象学に於ける概念の分析――それは「本質の分析」である――は実は意識の分析である。之に反して吾々の求めるそれは、言葉通りに概念の分析でなければならない。――そして概念の分析の意味が異るだけそれだけ、概念の意味も異るわけである。実際本質概念と吾々の概念との区別を、吾々は後に至って見る機会があるであろう。
* フッセルル、同上 S. 15.** 同 S. 14. 参照。*** Ehrlich, Kant und Husserl 参照。
概念を概念自身に於て分析する、概念自身をその分析の源泉とする、之は言葉の内容なき反覆ではない。すでに概念は動機を有った。そしてその動機は歴史社会的制約を有った。それ故概念は歴史社会的に存在している――それは歴史社会的に成立した。そこで概念は自己の歴史社会的存在に於て、その成立の過程に於て、即ち動機に於て、分析されることが出来る。即ち又それは性格に於て分析される。概念の分析の源泉は再び性格である。而もこの性格は歴史社会的制約を以て歴史社会的に存在していなければならない。故に分析はこのような存在を源泉として行なわれるべきである。それ故今や吾々は云うことが出来る、概念は性格に従って(故に又動機に従って)、そして性格に於て(故に又動機に於て)、一言にして云えば概念自身に於て、分析されねばならない。概念の分析とは之である。
概念は、その性格は、歴史社会的存在を持つと云った。けれども、それは単なる事実としては与えられていない。吾々はそれを発見しなければならない筈であった。それ故吾々の分析は必ずしも※streng“であることは出来ないであろう。ディルタイの言葉を借りるならば、論証的ではなくして、それは divinatorisch であるとも云うべきである。併しながらこのことは概念の分析の学問性を奪うことは出来ない。何となれば、かかる場合に於て学問性を保証するものこそ、元来分析という概念ではないのか、――分析とは内容なき反覆ではなくして源泉からの分析であった。学問的とは方法的のことであり、方法的とは分析的のことである。そして分析的のみが理論的であり得る。
概念が歴史社会的制約を持つと考えられる時、同一の概念が日常語として又専門語として理解されること――それを吾々は最初に主張した――の理由が必然となるであろう。日常語とは云うまでもなく日常的な知識に於て語られる言葉を云うのであるが、常識は恰もこの日常的な知識を意味する。常識に於て成り立つ概念、それは常識的概念である。処で常識は一面に於て不完全な知識を意味する場合を有つであろう。まだ充分に専門的となることの出来ない処の、或いはそれ程専門的であることを必要としない処の、稍々不定な内容を持つ知識、それが常識の有つ一面である。かくすれば常識はやがて専門化せられるべき、専門化せられて初めて独立した知識となり得るような、非独立的な価値しか有たない知識として、消極的に理解されるに過ぎないであろう。この時、常識とは幼稚なる学識に過ぎないように見える。処が之に反して常識は他に、も一つの異った概念を有つ。その時、もはやそれは不完全な知識ではなくしてそれ自身完全なる知識となる、ただそれが学識ではないという迄である。それ自身に於て独立の価値ある日常的な知識、之が常識のもつ他の一つの意味でなければならない。もし常識に何も知識としての独立性と価値とがないならば、それはどのような理由の下にも、「迂遠なる」学識を嗤う権利を持つ筈はないであろう。常識が学識に対して知識の価値を対等に争い得るのは、ただそれがこのような独立の価値ある積極的知識としての常識である場合でしかあり得ない。人々はただこのような常識のみを専門的学識に対立させることが出来る―― bon-sens。故に又この意味の常識的概念のみがそれに対する専門的概念と対立する。吾々はかくして初めて日常語と専門語との区別――吾々が好んで用いた処の区別――を正当ならしめることが出来る。又かくして初めて常識的概念を分析すること――それはやがて必要となる筈である――に理由を発見することが出来るのである。何となれば、もし日常的な常識的概念が専門的概念の不完全なものに過ぎないならば、前者の分析は要するに後者の分析の不完全なものに過ぎないこととなり、常識的概念の分析は何等の結果を約束することも出来なくなるであろうから*。
* スコットランド学派の常識哲学はそれ故、常識の知識としての独立を主張することによってのみ成立する――“sound”common-sense.
常識的概念と専門的概念、従って日常語と専門語、との区別とその対等とを吾々は今見た。恐らくあり得べき一つの重大な誤解を警戒しておく必要があると思う。専門的概念は学識に於て知識としての価値を有ち、之に対して常識的概念は日常性に於て独立の知識としての価値を持つ。人々はこう思い做すかも知れない、日常性とは世間的により普通に行なわれること――普通性――を指すのである、と。もしそうすれば専門的概念もそれが普通一般に行なわれる時には常識的概念となり、そしてあまり普通一般に行なわれない概念は常に常識的概念ではあり得ないということにならなければならぬ。併し吾々にとっては普通性と日常性とは異る。前者は一般に行なわれているという単なる与えられたる事実であり、之に反して後者は、一般に事実として行なわれている処のものが実は何でなければならない筈であるかという課せられた課題なのである。であるから専門的概念が如何に普通一般に行なわれた処で、それであるからと云って常識的概念になるのではない。又たとい普通一般に行なわれなくても、或る普通一般に行なわれているものがそうある筈である処の概念はなお常識的概念である。あまり行なわれないということが専門的概念の資格とならないと同じに、普通行なわれるということが常識的概念の資格とはならない。元来或る一定の概念が常識的であり他の一定の概念が専門的であるとは限らない。同一の概念も常識的概念として又専門的概念として理解される筈であった。尤も或る概念はより普通に専門的概念として通用し、他の或る概念はより普通に常識的概念として通用する(普通性と日常性との無関係を注意せよ)。それ故現に吾々は「概念」に於ては術語(専門語)としての「概念」から、「理解」に於ては日常語としての「理解」から出発した。併し両者は何れも日常語(常識的概念)であると同時に専門語(専門的概念)であり得た。かくて吾々の常識的概念は普通性を持つのではなくして日常性を有つのである、――概念は一般に与えられてあるものではなくして求められ発見されるべきものであった、日常性は其処に成り立つ。
さて常識的概念は専門的概念に較べて、その歴史社会的成立に於て(性格と動機とに於て)、より根柢的でなければならない。勿論専門的概念は或る事物を把握する点に於ては常識的概念よりも根柢的であるに違いない。もしそうでなければ専門的概念としての資格を欠くであろう。併しそれは歴史社会的成立に於て根柢的であることとは別である。成立に於ては常識的概念はより根柢的でなければならない。専門的概念は常識的概念の地盤から派生する。処で吾々は常識的概念だけを独立に分析することが出来る。であるからまず常識的概念の分析を独立に行なった上で、それに基いて夫に対応する専門的概念の分析を行なうことが、概念の性格と動機とに忠実な分析の手続きの順序でなければならない。この意味に於て常識的概念は常に基礎概念であり、専門的概念は常に上層概念である。
最後に此迄の結論を繰り返えそう。概念は常に理解(把握)と共に初めて語られることが出来る。かかる概念(把握的概念)は性格を概念し動機を有つ。概念の分析は概念自身を源泉として行なわれなければならない。即ち概念は、その性格と動機とに従って又それに於て、分析される。何となれば概念は歴史社会的制約を以て存在するから。併し概念は決して事実としては与えられていない、それは発見されなければならない。分析は常識的概念の分析から出発すべきである。何となればそれは歴史社会的制約に於てより根柢的な基礎概念であるから。――さて吾々の問題、それは空間概念の分析の問題であった、を正当に提出し得るためには、以上のような準備をしておくことが是非とも必要であったと思う。併し今迄に触れるべき点に残らず触れたとは思わない、無意識に看過した点もあろうし、又故意に省いて後の機会に譲った点もある。このような点は実際に問題を取り扱うに当って、必要な限りその折々に分析されるであろう。