Chapter 1 of 5

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妻、素子が退院し、二ヵ月振りでわが家へ帰ったのは、四月中旬のことである。曇った日で、門前の吉野桜の花はすっかり散り落ち、枝には赤い萼が点々と残っている。素子は桜の梢の方へ目を遣ってから、門を入った。玄関では、満八十二になる、私の母が背を円くして、その妻を迎えた。私は運転手と自動車から荷物を運んだ。

素子は乳癌にかかった。その上、発見が遅れたため、癌は腋下から頸部にまで転移してい、二度の手術と、放射線の治療を受けた。しかし放射線の照射量が人体にかけ得る限度に達したので、一まず退院が許されたまでである。素子の顔に格別喜色が浮かばないのも当然である。

現在の医学では、癌に関する限り、全治ということを考えてはならないのかも知れない。先年、私も上顎腫瘍にかかり、入院して、放射線の治療を受けた。以来、既に二年以上になる。しかし未だに病院通いを止めることは許されない。妻もあの凄惨な癌病院から辛うじて逃げ帰ったが、漸く目前の危機を脱し得ただけである。あの恐しい奴は妻の体内で、暫く息を潜めているに過ぎないのかも知れぬ。いつまた暴れ出さないとも限らない。

しかし私はやはり嬉しかった。今夜は妻が坐るべきところに、妻が坐っているのである。老母もいる。三人の子供も妻に呼ばれ、食卓についている。私が差し出したコップに、妻はビールを注ぎ、更に自分のコップにも注ごうとする。

「おや、ビールはいけないよ」

「ほんの、一杯だけ」

気丈な妻も自分の退院をやはり祝おうとするのか。哀れである。

「じゃ、きっと一杯だけだよ」

二人は乾杯する。乾いた喉に極めて快い。が、次ぎの瞬間、そんな行為がひどく馬鹿らしく思われた。不意に、激しい寂寥感が込み上げて来る。

不思議である。この二月、妻の座に妻の姿のなくなった最初の夜、私はやはり突然、相似た感情に襲われ、子供達の去った、食卓の上にうつ伏した。私は既に先妻を亡くした経験者である。が、その感情は時に起伏しながらも、いつか消えた。或は消えたのではなく、寂然と鎮っていたのかも知れない。その感情が、酔いに乗じて、意外な新鮮さで突発したのである。しかし、妻への愛が、と言ってよい、私を思い返させた。茶の間の、妻の姿のない構図の中で、それ以来、私は私の姿を崩すようなことはなかった。

が、久しくその姿のなかった妻の座に、妻の姿がある。妻は笑っている。時時、口を動かしている。その妻の姿には、絶えずあの私の感情が山霧のように纏わりながら流れて行く。突然、水を浴びせられたように、私は恐怖を感じる。その恐怖は、丁度、高所恐怖症の者が断崖に立たされた時のような恐怖に類している。全身は戦慄し、冷汗が噴き出る。

いつかはなくなるはずのものが、ないのである。その寂寥感は酷しいが、恐怖はない。が、なくなるはずのものが、あるのである。私の恐怖はこの存在することの不安から発しているようである。

素子は二ヵ月の闘病生活にもかかわらず、その肉体は少しも衰えを見せていない。その体格は大きく、むしろ肥満している。が、外見は健康そうな妻の肉体が、内部から崩壊して行く過程を想像する時、私は絶望的な恐怖を覚える。

しかし酔いは私の思考力を薄弱にする。更に感情の感度も鈍くする。私は側近く妻を坐らせて、盃を傾け続けている。少くとも昨夜までの様子とは大分異っている。私は快い酔いに助けられて、他愛なく、次第に一応は幸福なように思われて来る。また、そんなことを考えてみても、どうなるものでもない、と思われて来る。

暖い晩である。穏かな晩である。風もなく、戸外にも騒音は全くない。或は空にも星はないかも知れない。が、闇の中で、密かに花花の受精が行われているような晩である。

「とにかく、あの病院は精神衛生上よろしくないよ」

「そうね、恐しいところね」

「しかし、上顎の人が、あんなに多いとは知らなかったね」

「それに、あれは、直ぐ転移するらしいの。よかったわ、ねえ、お父さん」

「お互に、まずは目出たしだ。今夜は、酒が格別うまいよ」

母は既に床に就き、子供達はテレビの前にいるらしい。時時、一番年少である、女中の綾子の開け放しな笑声が聞こえて来る。

「昨夜までのように、ここで、一人で飲んでるのは、侘しいもんだよ。もっとも、退屈すると、直ぐ山形へ飛んで行ったがね」

「飛んで行ったって?」

「いや、酔ってくると、天神山や、太子堂などの、山形の景色が直ぐ浮かんで来るんだ。でも、やっぱり一人だもんな。つまらんよ。そうだ、この夏は、二人で山形へ行こうよ」

「二人で、行きましょう」

素子の故郷は山形の蔵王山中の一峰、竜山の山腹にあって、壮大な眺望をほしいままにすることができる。しかし、いつか、どこかで、私は妻と同じような会話を交したように思う。が、私の酔った頭はそんなことは一向に頓着しない。

「二人で行くんじゃない。職場の人達には迷惑のかけついでだ。この一夏を、山形で暮そうよ」

「そんなに長くですか」

「山形へ旅行したって、つまらんよ。あの風と光の中で、生活しなくっちゃ、その愉しさは判らんよ」

私は妻の存在を確認するかのように、妻の膝の上に手をおいた。その時、不意にトタン廂の鳴る音が聞こえる。猫であろう。が、よほど大きい奴に相違ない。トタン廂を踏みしめる足音は重く、鈍く、やがて闇の中に消えて行ったことだろう。が、酔夢朦朧とした私の頭の中には、足音はいつまでも鳴り響いているかのようである。

素子は毎日病院へ通っている。日曜日に、その傷口のガーゼの交換をするのは、私の役目である。

素子の肩、首根のところに径、二・五センチ、深さ、一・五センチばかりの傷口が開いている。手術の傷が癒着しないうちに、放射線をかけたためである。

乳房を切除した左胸部には殆ど傷痕は残っていないが、放射線のため薄黒く焼かれている。腋下から左腕にかけて、同じく放射線で焼け焦げた傷痕が、醜い凸凹を作っている。いかにも惨禍の跡を見るようで、極めて無惨である。しかしこのように過ぎ去ってしまえば、むしろ荒涼たる感じである。

片肌を脱いだシャツの下から、右の乳房が覗いていることもある。危く焼け残った一軒家のように、激しい孤立感を呼びおこす。しかし、女性の乳房が美しいのは、左右に描かれた均斉美にあるのだろう。或は先入観からであるかも知れないが、仮にまん中にあるとしても、一個だけの豊満な隆起は奇怪ではないか。まして左を欠いた、右だけの白い隆起は。却って全体をアンバランスにし、片輪ものを感じさせる。私は妻の乳房から急いで目を逸すより他はない。

私は指先をオキシフルで拭い、ピンセットを取って、妻の傷口からガーゼを取り出す。赤い傷口が口を開く。ガーゼには淋巴液の粘液が附着していることもある。素子は眉を顰めて言う。

「また、こんなべろべろ、いやになってしまうな」

私は傷口の周囲にマーキュロを塗る。傷には疼痛はない。しかし、不器用な私はマーキュロを妻の肌に垂らし、下着を汚すこともある。髪の毛の上に絆創膏を貼って、妻の顔をしかめさすこともある。日曜のことであるから娘もいる。若い綾子も私より器用であろう。が、妻のために、娘達の前に、その醜い肌を曝させたくない。また娘達のためにも、その目に同性の無惨な姿を見せたくない。この役目を果せるのは、私一人であろう。私には妻の無惨な姿も、少しも醜いとは見えないのであるから。

最後に、私はピンセットでリバノールガーゼを撮み出す。しかし老眼の私には、その一枚を挟むのがかなり困難なのである。私は漸く三枚のリバノールガーゼを詰める。そうしてその上に白いガーゼを当て、絆創膏で押える。それから私はベンジンを含ませた脱脂綿で、妻の胸や肩をこする。放射線で焦げた汚れは、それくらいのことで容易に取れるものではない。が、絆創膏の後の痒みなどもあって、妻は快いらしい。私も僅かに黒くなった脱脂綿を見て、妻の肌も少しは白くなったかと、悪い気持はしない。

「今日は、これで終りだ」

素子は気分の好い時には、

「サンキュー」などと言って、片肌を袖に入れようとする。しかし素子の左手は三分の一直角以上には挙げることはできない。私は後に廻って、妻の左手に袖を通してやらなければならなかった。

「山崎さん、やっぱり亡くなりました」

ある日、病院から帰って来た素子がそう言った。妻の病床は、書斎の、私の机の横に敷いてある。しかしその上に坐った妻の顔には、それほど動揺した表情はない。

「山崎さんって、後から同室だった方だね」

「そうよ。手術して、開腹なさったけれど、手のつけようがなかったので、そのまま塞いでしまったのですって。それから直ぐでしたわ。退院なさったの」

「そうか。そんなことだったね」

「今日、息子さんが、病院へ挨拶に来てなさったわ」

「そうか」

今日は素晴らしい好天気である。青い空は深深と霞み、その薄絹のベールの中には、金色の春光が満ち溢れている感じである。小庭の木木の葉にも、柔かい陽光が降り注ぎ、その緑蔭の中には葉洩れの光線を受けた、一枚の硬質の葉の反射光が、むしろ白色に近い光を放っている。赤い、小さな竹トンボのような実をつけた楓の若枝が微かに揺れているので、微風のあることが判る。

庭の椿は花期が長く、その下枝にはまだかなり多くの花をつけている。紅色の大輪の花であるが、あまりにも豊かな光を浴びて、却ってその色彩を放散させてしまった感じである。地上には既に褐色に変色した花が落ちている。その中に、まだ痛ましいほど鮮かな色をした落花も交っている。一輪は俯伏し、二輪は黄色の雄蘂を上に向けている。花公方ももう盛りを過ぎ、木の下に紫紅色の小さな花を散りこぼしている。

静かである。珍しくラジオも停止している。まるで総べてが弛緩してしまったような静けさである。また、あまりにも適当な温度のため、感覚が鈍化するのか、ともすると自分の存在さえ見失いそうになる。それを防ぐためには、全く意味のない声でもよい、一声叫び上げなければならないような衝動にかられるほど、静かである。

素子は私の傍の床の上に横になって、雑誌を読んでいる。勝気な素子は入院中の仕事の遅れを取り返すため、退院後は無理をするのではないか、と私は心配していたが、その恐れはないようである。自分の経験からも、放射線の反応は極めて強い。外見は元気そうでも、そのスタミナはかなり衰えているのではないか。読書にしても、まとまったものを読もうとする気力はない。

老母は隣りの部屋で居眠りでもしているのであろうか。母は永年、頑固に郷里の家を守っていたが、去年、神経痛を病み、漸く上京した。しかし仏壇のある郷里の家のことが、寸時も母の頭から離れないらしい。毎日、母は散歩に出て、密かに足を訓練している様子である。

縁側の籠の中で、十姉妹が高く囀り出した。雄が雌を求める時の鳴き方である。雄は白いおきあがり小法師のように羽毛を逆立てて、雌に迫っているのだろう。雌は軽く雄を避けた様子であるが、再び雄は囀り出し、荒々しい羽音が聞こえた。

いつか素子は眠った様子である。雑誌は開かれたまま彼女の手から離れている。素子は軽い寝息を立てて、眠っている。

口腔外科の診察室は三階にあるので、絶えず清々しい風が吹き入っていて、微熱のある頬に快い。窓近く、プラタナスの若葉がそよぎ、柳の枝が揺れている。空は極めて青く、鴎が一羽、緩く羽を動かして、飛んで行く。

道路と、濠を隔て、国電のホームが見えている。ホームの上には、大勢の乗降者がそれぞれの姿勢を取っている。先刻、私もその一人であった。そうして誰かがこの診察台の上からその私を見ていたのであろう。少し妙な気になる。

駅向こうの家並の一部も見える。どの家の裏窓にも夥しい洗濯物が干してある。青い空の故か、私は「今日は青空」という、小学校時代の唱歌を思い出した。そうして五月の太陽を浴びながら、洗濯をする極めて健康な女の姿を想像する。

「熱は、まだ取れませんか」

治療を終った時、柳田医師が言う。

「はあ」

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