Chapter 1 of 4

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同胞

豊島与志雄

恒夫は四歳の時父に死なれて、祖父母と母とだけの家庭に、独り子として大事に育てられてきた。そして、祖父から甘い砂糖菓子を分けて貰い、祖母から古い御伽話や怪談を聞き、母の乳首を指先でひねくることの出来るうちは、別に何とも思わなかったが、小学校から中学校へ進んで、それらのことがいつしか止み、顔に一つ二つ面皰が出来、独り勝手な空想に耽る頃になると、兄弟も姉妹もないことが、甘い淋しさで考えられた。

兄弟も姉妹もなくて自分一人きりだということは、自由なのびのびとしたことだったが、一方にはまた、張合のない頼り無いことでもあった。そして余りに広々とした満ち足りない心で、月や雪や花などをぼんやり見入っていると、独り子だという事実の奥に――事実の手の届かない仄暗い彼方に、自分と同じ血を分けた或る者の姿が、ぼーっと立現われてきた。或る時は、自分を力強く導いてくれる兄だった。或る時は、自分に戯れかかる弟だった。或る時は自分をやさしく慰めてくれる姉だった。また或る時は、自分を心から尊敬し信頼してる妹だった。そしていつも美しかった……というだけで、どうしても顔がはっきり見えなかった。単に美しいというだけでなしに、その眼鼻立をすっかり見て取りたいものと、心の努力を重ねるうちに、一体そういう兄弟姉妹を、自分は昔持ってたのか、現在持ってるのか、未来に持つようになるのか、または夢の中でだったのか、何だかもやもやとしてきて、一切分らなくなってしまうのだった。

馬鹿馬鹿しい空想だ、と恒夫はその想いから覚めると考えて頭の外に投り出してしまったが、それでもやはり時々、我知らず其処へ落込んでいった。事実の彼方という杳けさが、彼の心に甘えていた。

所が、それが単なる空想でなしに、事実となって現われてきた時、彼は喫驚して、父の位牌の前に沢山香を焚いた。

父の十三回忌の法会の日だった。家の者や近しい親戚の者など皆で、朝の十時頃寺へ行って、仏事を済し墓参をしてから、料理屋の方へ廻ろうとする段になって、二三日来気分の勝れなかった祖母が、身内に寒けがすると云って、すぐに家へ帰りたがった。で、母がその伴をすることになりかけたが、先程から窮屈を覚えだしていた恒夫は、鹿爪らしい祖父や伯父達の間に交って、御馳走を食べに行った所でつまらない、というような予想から、強いて母に代りたがった。そして、客は皆大人ばかりだったし、女の人も二人いたし、何やかの都合から、母が接待役の格で居残ることになって、恒夫は祖母の伴をして帰って来た。

恒夫としては我儘から出たそのことが、祖母にとっては非常に嬉しかったものらしい。打晴れた初春のぽっかりした暖みなのに、祖母は炬燵をいれさして、恒夫にもそれにあたらせたがった。そして恒夫がお義理半分に、足先だけを炬燵布団の中に差入れて、畳の上に腹匐いながら、雑誌の小説を拾い読みしてるのを、しみじみとした眼付で見守って、述懐めいたことを話しかけた。然し恒夫は、祖母の言葉に興味を覚えなかった。祖母が父の十三回忌にめぐり会おうと、昔のことを考えると夢のような気がしようと、そうして生きてるのが有難いことだろうと、そんなことはどうでもよいのだった。

「何時になるでしょうね。」と祖母は尋ねかけた。

恒夫には何時だって構わなかった。

「お母さん達ももうじきでしょうよ。」

その言葉の語気に、恒夫は祖母が自分を憐れんでることを感じた。と同時に、自分のうちにも祖母を憐れむ情があることに気付いた。何だか喫驚して眼をくるくるさして、頭をねじ向けて見ると、祖母の眼がいつもより多く濡みを帯びてるようだった。

「せめて今日だけでも、あの子を来させるとよかったんですがね。……私がいくら云っても、お祖父さんが頑固なことばかり仰言るのでね……。」

「え、お祖父さんが……。」

「それもね、理屈から云えば尤もなんですよ。たとえ血統はどうだろうと、立派に他家の子供となってるうえは、それをわざわざ呼び寄せて、昔のことをほじり出すのは、よくないことだ、両方の気持を悪くさせるだけだ、とそう仰言るので……。それにしたって、もう十三年も、十五六年も前のことですから、別に差障りはなかろうと、私としては思ったのですけれど……そしてあなたにしたって、一人っきりよりは、表立って兄弟を持った方が、いくら心強いか知れないのに……それをお祖父さんは、得手勝手な考えだと仰言って、どうしても聞き入れて下さらないんですよ。」

恒夫は起き上って、祖母の方へ向き直った。

「それ何のことですか、お祖母さん。」

祖母は眼をしぱしぱさした。

「あなたはまだ何にも知らないんですか。」

「何を……。」

「お母さんから何とも話がありませんでしたか。」

恒夫は何とも答えないで、祖母の顔を見守った。見ているうちに、少し分りかけてきた。「じゃあ僕に兄弟があるんですね、お祖母さん。夢にみたりぼんやり考えたりしてたことが、本当だったんだな。ねお祖母さん、それは僕の兄さんですか、弟ですか、妹ですか……そして何処にいるんです。」

祖母は急に気が挫けたようになって、その話を避けたがった。然し恒夫は承知しなかった。嵩にかかって祖母へ尋ねかけながら、もしその話をはっきり聞かしてくれなければ、自分を愛してはいないんだ、というようなことまで云った。すると祖母は、誰にも洩らさないという約束をさした上で、大体次のようなことを話してくれた。

恒夫の父と母とは、結婚して五六年後まで子供が出来なかった。所へ不意に恒夫が生れた。大変な喜びだった。祖父なんかは、殆んど一日中赤ん坊の側に坐り通して、女中達を叱り飛ばしていた。が不幸にも、その頃から父は肺病にかかった。方々へ転地しても療らなかった。別に寝つくほどのことはなかったが、常に熱と咳とが去らないで、非常に気むずかしくなった。その父の面倒をみるのに、赤ん坊を抱えた母だけでは手が廻りかねた。そして、苛々してる父の側で、ごく忠実に働いてくれる女中が一人あった。その女中が妊娠した。祖父が一番ひどく腹を立てた。それが祖母の骨折りでうまく納った。その女中は、お腹の子供と多少の金とを持って、或る人の所へ嫁入った。そして生れた子供は男の子だったが、すっかりその人達の子として育てられた。父が死んだ時一寸来たばかりで、全くの他人となっていた。今ではその一家は、大塚に紙屋をやっていて、他に二三人子供もあり、わりに楽に暮していた。恒夫の弟に当るその子は、小野田茂夫といって、豊山中学校に通っていた。

「本当ですか、お祖母さん。」と恒夫は叫んだ。「お祖母さんはどうしてそんなによく知ってるんです。」

「表向きどうということは出来ませんけれど、間に人を立てて、影ながら面倒をみてやってるので、すっかり様子は分っていますよ。」

その言葉が終らないうちに、恒夫はふいと立上って、自分の室へ馳けていった。そしてまだ耳に残ってる、弟の名前とその住所とを手帳に書き留めた。それから俄に分別くさい様子をして、祖母の所へ戻ってきた。

「お祖母さん、僕の弟に逢いたいでしょう。」

答がないのでよく見ると、祖母は炬燵の上に顔を伏せて、眼から涙をこぼしていた。

何が悲しいんだろう、と恒夫は一寸考えてみたが、分らなかった。それでも祖母の涙は、何だか神聖な触れてならないもののように感ぜられた。胸の奥でぴくりとして、途方にくれて、縁側に出てみた。西に傾きかけた日脚が、明るく一面に照っていた。空が青くて馬鹿に高かった。彼は其処に踊り跳ねたい気持をじっと押えて、弟の面影を想像し初めた。

軽い咳の音がした。振向いて見ると、祖母は左の肩に手をやって揉んでいた。

「僕が叩いてあげましょう。」

そして彼は元気よく祖母の後ろに坐って、祖母の痩せた頸筋と赤みがかった髪の毛とを、初めてのように珍らしく眺めながら、指先で眩しいほど早くその肩を叩きだした。

静かな晩だった。来客の用心に拵えられていた御馳走と、料理屋からみやげに持って来られた御馳走とに、恒夫はすっかり満腹して、額が軽く汗ばんでくるような心地だった。

祖父はまだ餉台の前に端坐して、ちびりちびり酒を飲んでいた。母は長火鉢の銅壺で酒の燗をみていた。祖母は炬燵を持って来さして、それにあたりながら脇息によりかかっていた。そして皆の間には、法会のことや親戚の人達の噂など、いつもより多くの話題があった。電燈の光もいつもより明るかった。

それらの光景を、恒夫は不思議そうに眺め廻した。いつまでも膝をくずさずに坐り続けて、満足げに盃を挙げてる祖父の様子が、何だか馬鹿げているように思われた。眼付から言葉付まで、四方八方へ気兼ねをしてるらしい祖母の様子が、何となくはがゆく思われた。人のよい温和な笑みを浮べながら、押しても動きそうにないほどどっしりと構え込んでる母の様子が、変に愚かしく思われた。今この真中に、弟を不意に連れて来たら……などと考えると、妙に面白く可笑しくなってきた。

「恒夫、」と祖父が突然声をかけた、「何を一人で笑っている。ここへおいで、今日は特別に一杯飲ましてあげるから。」

恒夫は一寸躊躇したが、思い切って祖父の方へ寄っていって、盃三杯ばかり続けざまに飲んでやった。祖父は首を縮こめて、頓狂な顔付をした。

「ほほう……お父さんの子だけあって、なかなか飲めると見えるな。……が、もうよい。それくらいがよい所だ。」

祖父から盃を取上げられたのをしおに、恒夫はふと立上って、次の室の仏壇の前へ行って、しきりに香を焚いた。香の煙の向うから、父の霊が笑ってるように思われた。そしてまた、弟ばかりでなしに、兄や姉や妹や、そんなのを沢山方々に生ましておいてくれてるかも知れない、などと馬鹿馬鹿しいことを考えて、自分で自分に面喰った気持になった。

「恒夫さん、何をしているんです、そんなに煙を立てて。」

母の声に恒夫は我に返って、一寸考えてから答えた。

「僕はあまり香をあげたことがないから、これまでの分を一度に焚いてあげようと思って、それで……。」

そんなことをすると火が危い、と母は云った。祖父は盃を下に置いて、小首を傾げた。が何よりも、祖母の眼に非常に悲しげな色の浮んだのが、強く恒夫の心に触れた。

そして、その跡が後まで心に残ったので、恒夫は母と二人になっても、弟のことを尋ねかねた。ただ父の臨終の模様を悉しく尋ねた。

然し母の話は、父の病気の経過のことや、一時無くなった食慾が甘酒のために出てきたことや、最期まで意識がわりにはっきりしていたことや、咳はひどかったが喀血は殆んどなかったことや、講談本を読んで貰うのが好きだったことや、臨終の苦悶がごく軽かったことなど、大抵恒夫が聞き知ってる平凡なことばかりだった。弟のことや弟の母親のことなどは、一言も出て来なかった。そして、何度聞いても常に彼の心を打つことが、ただ一つあった。

父は息を引取る四五時間前に、恒夫を枕頭に連れて来さして、その小さな手を五分間あまりもじっと握っていた。

その間、子供は顔をしかめながら、一生懸命に我慢してるらしかったそうである。

「僕は本当に泣き出しはしなかったの。」と恒夫は尋ねた。

「いいえ、顔をしかめてこらえていました。眉根に八の字を作って、口を曲げて、おかしな顔をしていましたが、それでも泣き出しはしませんでしたよ。お父さんは、手を布団から差出して、あなたの手を握って、じっと眼をつぶっていらしたが、五分ばかりして……いえもっと長かったかも知れません、ふいに咳込みなすって、咳の中から手真似で、あちらへ連れてゆけという様子をなさるんです。子供に病気がうつってはいけないと、いつもお云いなすっていたから、屹度それを心配なすったんでしょう。それから咳が鎮まって、あなたがまだ側に居るのを御覧なすって、なぜ早く向うへ連れて行かないんだと、大きな声でお叱りなさるんです。それで私は、あなたを向うの室へ抱いてゆきましたが、それから四五時間して、お父さんはもう駄目でした。私があなたを抱いて連れて来た時は、もう何にもお分りなさらないようでした。」

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