昭和十五年十月四日
姉の病気のため五月末から外へ出ず、もう大丈夫となってからもやはり気がかりなので余儀ない用事の場合月に二、三度、それも見舞の人に留守を頼んで出たついでに日にあたってくるぐらいが関の山だった。しかし近頃では姉もよほどよくなったし、これからすこし散歩をしようと思ってるうちに今度は自分が病気になってしまった。八月二十九日発病、胆石。そのまえからひとの原稿を見てたのが二、三日ひどく大儀になって机にむかう気になれず、籐の枕をして寝ころんだまま読んだ。それを性来嫌いな暑さのためと思い、また永い間の看護や心労、執筆につづいての読書や詩作、それらの疲労が重なったのだろうとも思っていた。それもあったかもしれないが既に体の調子が悪くなってたのではあるまいか。二十九日の晩飯は食慾が進んでふだんよりよほど多く食べた。食後間もなく兄の碁の相手をして、暫くすると胸がつかえてきた。たべすぎのうえの碁のせいだろうと思って消化薬をのみ書斎へあがって長椅子に横になってたが、過食のためならじきらくになるはずのところ反対にだんだんひどくなる。水おちのへんがはちきれそうだ。私は皆より先に二階で床についた。そして胸をさすったり、寝返りをしたり、起きあがったり、いろいろやってみても一向かわりがない。そのうち下の人たちも寝てしまった。苦痛はますます烈しくなる。横になっても、仰向いても、椅子に腰かけても、どうにもならない。しまいには蚊帳のまわりを歩きまわってまぎらそうとする。そのじぶんにはただのつかえではないと気がついた。が、胃潰瘍の痛みでも、盲腸炎のでもないらしい。診察とは思ってももう遅くもあるし、頭を悪くした姉を夜中におこして心配をさせたくない。どうかして朝までと必死にこらえる。そのうちふと胃にたまってるものを出してしまおうと考えついた。洗面所へおりていって器のなかへ吐く。血液らしいものはみえないけれど食物はほとんど消化していない。胃がからっぽになったらしいまでもどしてもちっともらくにならない。苦痛はまったく別のところからくるらしい。それからまた寝床へもどり転輾としてるうちに疲労の極とろとろとして目をさましたら夜が白んでいた。私はとうとうたまりかねて下へおり姉を起して近処の先生をよんでもらった。その薬で胸の裂けそうな苦痛はよほど和いだものの全体の気分はすこしもよくならない。□□先生に電話をかける。午後来てくださるという返事だった。床を下の次の間へうつす。病気の程度によって看護の都合上そうする習慣になっている。
ひる過ぎ間もなく御来診。苦痛の長びいたのに比べて病名は無造作にすぐきまった。胆石です といって、出てしまえばなんでもない と腹部をあちらこちら ここはどうです とおさえられるのが的にあたって痛い。苦しさにまぎれて見もしなかったが肝臓のへんが脹れてるらしい。絶食、湿布ということになって先生は帰られた。姉が湿布をしてくれる。そういうことは慣れてもいるし上手だけれど病後のことで気の毒でもあり、心配でもある。××が薬をとってくるのをもどかしく待つうちにいつかうとうとしたらしい。横向きになってる背中のほうに人の気はいがしたので首をねじむけてみたら「蝉」だった。来るはずになってたのだが知らないうちに坐ってたとみえる。
「とても苦しいんだよ」
私はめったにない弱音をはいた。その苦しさがゆうべからのとちがってきた。身動きするのも息をするのも苦しい。そんな風で一夜があけた。
先生のお世話で看護婦さんがきてくれた。△△さんという健康の化身みたいな人だった。看護の都合上次の間から座敷へもう一度移ることになり、そちらに別の床がのべられた。こうして私が座敷へ寝るようになったらもうおしまいなのだ。三日や五日で起きられないときに限る。三人がかりで寝てる床をひっぱり新規の床へぴたりとつけた。あとは自分で転がってかわらなければならない。それ以外の方法では一層患部にひびきそうな気がする。で、私は歯をくいしばり体を廻転させてやっとこさとうつぶせの姿勢にまでなったがその拍子に思わず イタイ イタイ イタイ イタイ と悲鳴をあげた。石のつかえてるあたりだろうか、体の動きにつれてまるで体内の錆びついた歯車が無理やり逆に廻されるような痛みを感ずる。私は半廻転して床と床のあいだのへんに下をむいたまま両方に握り拳をこしらえて上体を支えている。しかしいつまでもそんな姿勢はつづけられないのでまたもや悲鳴をあげながら廻転し、仰向けを通りこして右を下に止ったときはヒーヒーいって短い息をはずませた。吸い込むたびに痛むので息が半分しかできない。歯車の歯が折れてしまいそうだ。そのままぐたりとしてあがりかけた魚みたいに喘いでいる。
これから以下は病床日誌を参照しながら書く。朝、昼、晩と水蜜桃の汁をしぼって百グラム乃至百二十グラムくらい吸いのみでのむ。――葛湯の百五十グラムは味がなかった。――水蜜は本場のを貰ったのが冷蔵庫で種まで冷えている。こんよりと底澄みのしたきめの細かいその果汁はさながら崑崙の玉を溶かしたかのようにみえる。それはえならぬ薫りと舌をとろかす甘みをもちながらしかも卑しい人肌の温みのない西王母の乳である。仙女の恵みの露はしんしんとして指の先までもしみわたる。
夕刻副院長さんがきて注射をしてくださる。
夜。よく眠る。