Chapter 1 of 2

枇杷の実は熟して百合の花は既に散り、昼も蚊の鳴く植込の蔭には、七度も色を変えるという盛りの長い紫陽花の花さえ早や萎れてしまった。梅雨が過ぎて盆芝居の興行も千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の明い寂寞が都会を占領する。

しかし自分は子供の時から、毎年の七、八月をば大概何処へも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れた自分の身には何処へも行くべき郷里がないからである。第二には、両親は逗子とか箱根とかへ家中のものを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか音楽とかとにかく中学生の身としては監督者の眼を忍ばねばならぬ不正の娯楽に耽りたい必要から、留守番という体のいい名義の下に自ら辞退して夏三月をば両親の眼から遠ざかる事を無上の幸福としていたからである。

たしか中学を卒業する前の年の事かと記憶する。どういう訳か逗子へ半月ばかり行っていた時の事を半紙二帖ほどに書いたものが、今だに自分の手篋の底に保存されてある。成島柳北が仮名交りの文体をそのままに模倣したり剽窃したりした間々に漢詩の七言絶句を挿み、自叙体の主人公をば遊子とか小史とか名付けて、薄倖多病の才人が都門の栄華を外にして海辺の茅屋に松風を聴くという仮設的哀愁の生活をば、いかにも稚気を帯びた調子でかつ厭味らしく飾って書いてある。全篇の題は紅蓼白蘋録というので挿入した絶句の中には、

已見秋風上二白蘋一。 〔已に見る秋風 白蘋に上り

青衫又汚二馬蹄塵一。  青衫又た馬蹄の塵に汚る

月明今夜消魂客。    月明るく 今夜 消魂の客

昨日紅楼爛酔人。    昨日は紅楼に爛酔するの人

年来多病感二前因一。  年来 多病にして前因を感じ

旧恨纏綿夢不レ真。   旧恨 纏綿として夢真ならず

今夜水楼先得レ月。   今夜 水楼 先ず月を得て

清光偏照善愁人。    清光 偏えに照らす 善だ愁うの人〕

なぞいうのがあった。今日読返して見ると覚えず噴飯するほどである。わずか十四、五歳の少年が「昨日は紅楼に爛酔するの人」といっているに至っては、文字上の遊戯もまた驚くべきではないか。しかし自分は近頃十九世紀の最も正直なる告白の詩人だといわれたポオル・ヴェルレエヌの詳伝を読み、

Les sanglots longs

Des violons

De l'automne……

「秋の胡弓の長き咽び泣き」という彼の有名な La chanson d'automne(秋の歌)の一篇の如きはヴェルレエヌが高踏派の詩人として最も幸福なる時代の作で、その時分には妻もあり友達もあり一定の職業もあった事を伝記の著者から教えられた。して見ると、「過ぎし日の事思出でて泣く、」といったりあるいは末節の、「われは此処彼処にさまよう落葉」といったのはやはり詩人の Jeux d'esprit(心の遊戯)であったのだ。しかし自分は無論己れを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。唯晩年には Sagesse の如き懺悔の詩を書いた人にも或時はかかる事実があったものかと不思議に感じた事を語るに過ぎぬのである。

私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月を大川端の水練場に送った事である。

自分は今日になっても大川の流のどの辺が最も浅くどの辺が最も深く、そして上汐下汐の潮流がどの辺において最も急激であるかを、もし質問する人でもあったら一々明細に説明する事の出来るのは皆当時の経験の賜物である。

午後に夕立を降して去った雷鳴の名残が遠く幽に聞えて、真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま見渡す水神の森の彼方に浮んでいるというような時分、試に吾妻橋の欄干に佇立み上汐に逆って河を下りて来る舟を見よ。舟は大概右岸の浅草に沿うてその艪を操っているであろう。これは浅草の岸一帯が浅瀬になっていて上汐の流が幾分か緩であるからだ。しかし中洲の河沿いの二階からでも下を見下したなら大概の下り船は反対にこの度は左側なる深川本所の岸に近く動いて行く。それは大川口から真面に日本橋区の岸へと吹き付けて来る風を避けようがためで、されば水死人の屍が風と夕汐とに流れ寄るのはきまって中洲の方の岸である。

自分が水泳を習い覚えたのは神伝流の稽古場である。神伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮洲の上に建てられる。浮洲には一面蘆が茂っていて汐の引いた時には雨の日なぞにも本所辺の貧い女たちが蜆を取りに出て来たものであるが今では石垣を築いた埋立地になってしまったので、浜町河岸には今以て昔のように毎年水練場が出来ながら、わが神伝流の小屋のみは他所に取払われ、浮洲に茂った蘆の葉は二度と見られぬものとなった。

一通遊泳術の免許を取ってしまった後は全く教師の監督を離れるので、朝早く自分たちは蘆のかげなる稽古場に衣服を脱ぎ捨て肌襦袢のような短い水着一枚になって大川筋をば汐の流に任して上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這上って犬のように川端を歩き廻る。

濡れた水着のままでよく真砂座の立見をした事があった。永代の橋の上で巡査に咎められた結果、散々に悪口をついて捕えられるなら捕えて見ろといいながら四、五人一度に橋の欄干から真逆様になって水中へ飛込み、暫くして四、五間も先きの水面にぽっくり浮み出して、一同わアいと囃し立てた事なぞもあった。

泳ぐ事もできず裸体で川端を横行する事も出来ぬ時節になっても、自分はやはり川好きの友達と一緒に中学校の教場以外の大抵な時間をば舟遊びに費した。

われわれは無論ボオトも漕いだ。しかしボオトは少くとも四、五人の人数を要する上に、一度櫂を揃えて漕出せば、疲れたからとて一人勝手に止める訳には行かないので、横着で我儘な連中は、ずっと気楽で旧式な荷足舟の方を選んだ。その時分にはボオトの事をバッテラという人も多かった。浅草橋の野田屋や築地の丁字屋から借舟をするにしても、バッテラと荷足とは一日の借賃に非常な相違があった。

土曜といわず日曜といわず学校の帰り掛けに書物の包を抱えたまま舟へ飛乗ってしまうのでわれわれは蔵前の水門、本所の百本杭、代地の料理屋の桟橋、橋場の別荘の石垣、あるいはまた小松島、鐘ヶ淵、綾瀬川なぞの蘆の茂りの蔭に舟をつないで、代数や幾何学の宿題を考えた事もあった。同時にまた、教科書の間に隠した『梅暦』や小三金五郎の叙景文をば目の当りに見る川筋の実景に対照させて喜んだ事も度々であった。

かかる少年時代の感化によって、自分は一生涯たとえ如何なる激しい新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて隅田川なる自然の風景に対する事は出来ないであろう。

鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来ていたものである。それらの新しい勢力は事実において日に日に土手や畠や河岸や蘆の茂りを取払って行きつつあるが、しかし何らの感化をも自分の心の上には及ぼさなかったのだ。黒煙を吐く煉瓦づくりの製造場よりも人情本の文章の方が面白く美しく、乃ち遥に強い印象を与えたがためであろう。十年十五年と過ぎた今日になっても、自分は一度び竹屋橋場今戸の如き地名の発音を耳にしてさえ、忽然として現在を離れ、自分の生れた時代よりも更に遠い時代へと思いを馳するのである。

いかに自然主義がその理論を強いたにしても、自分だけには現在あるがままに隅田川を見よという事は不可能である。

自然主義時代の仏蘭西文学は自分にはかえって隅田川に対する空想を豊富ならしめた傾がある。

モオパッサンはその短篇中に描いたセエヌ河の舟遊びによって、漫にわれわれの過ぎ去った学生時代を意味深く回想させ、ゴンクウル兄弟が En 18… の篇中に書いた月夜ムウドンの麗しい叙景は、蘆と水楊の多い綾瀬あたりの風景をよろこぶ自分に対して更に新しく繊巧なる芸術的感受性を洗練せしめた。ゾラは『田園(Aux champs)』と題する興味ある小品によって、近頃の巴里人が都会の直ぐ外なるセエヌ河畔の風景を愛するようになったその来歴を委しく語って、偶然にも自分をして巴里人と江戸の人との風流を比較せしめた。

ゾラの所論によると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊びに出掛るような熱心な興味を感じてはいなかった。その証拠は時代風俗の反映たるべき文学を見ても、十七、八世紀の文学上には一ツとして今日の抒情詩人が歌っているような「自然」に対する感想を窺う事は出来ない。ルッソオ出でて始めて思想は一変し、シャトオブリアンやラマルチンやユウゴオらの感激によって自然は始めて人間に近付けられた。最初希臘芸術によって、divinise(神らしく)された自然、仏蘭西古典文学によって度外視された自然は、ロマンチズムの熱情によって始めて humanise(人間らしく)せられた。しかしユウゴオやラマルチンはまだ一度も巴里郊外の自然をそが抒情詩の直接の題材にして歌った事はない。それはかの通俗小説の作家として今では最う忘れられようとしている Paul de Kock を以て嚆矢と見做さなければならぬ。ポオル・ド・コックは何も郊外の風景その物を写生する目的ではないが、今から五、六十年前 Louis-Philippe 王政時代の巴里の市民が狭苦しい都会の城壁を越えて郊外の森陰を散歩し青草の上で食事をする態をば滑稽なる誇張の筆致を以てその小説中に描いたのである。その時代から一般の風俗は次第に変って来てポオル・ド・コックの後には画家の一団体が盛に巴里郊外の勝地を跋渉し始めた。今日では誰も知っている彼の Meudon の佳景を発見したのは自然を写生するために古典の形式を破棄した Franais 一派の画工である。それからずっと上流の Mantes までを探ったのは Daubigny である。今まではその地名さえも知られなかったセエヌの河畔は忽ちの間に散歩の人の雑沓を来すようになって、最初の発見者 Daubigny はとうとうセエヌ河の本流を見捨て Oise の支流を溯って Anvers の遠方へ逃げ込み、Corot はやっと水溜りや大木の多い、Ville d'Avray に踏み留るようになった。

この記事から飜て向島と江戸文学との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里人よりももっと早くから郊外の佳景に心附いていたのだ。俳諧師の群は瓢箪を下げて江東の梅花に「稍とゝのふ春の景色」を探って歩き、蔵前の旦那衆は屋根舟に芸者と美酒とを載せて、「ほんに田舎もましば焚く橋場今戸」の河景色を眺めて喜んだ。

最初河水の汎濫を防ぐために築いた向島の土手に、桜花の装飾を施す事を忘れなかった江戸人の度量は、都会を電信柱の大森林たらしめた明治人の経営に比して何たる相違であろう。

巴里の人たちは今でも日曜日には家族を引連れて郊外の青草の上で葡萄酒を飲む。しかしわれわれの新しき時代は絵のような美しい伝統を破棄するの急務に追われているばかりである。

この二、三日方々から頻に絵葉書が来る。谷川を前にした温泉宿や松の生えた海辺の写真が来る。友達は皆例の如く避暑に出かけたのだ。しかし自分はまだ何処へも行こうという心持にはならない。

縁先の萩が長く延びて、柔かそうな葉の面に朝露が水晶の玉を綴っている。石榴の花と百日紅とは燃えるような強い色彩を午後の炎天に輝し、眠むそうな薄色の合歓の花はぼやけた紅の刷毛をば植込みの蔭なる夕方の微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。

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