Chapter 1 of 1

中里介山

「浜、雪は積ったか」

炬燵に仮睡していた机竜之助は、ふと眼をあいてだるそうな声。

「はい、さっきから少しもやまず、ごらんなされ、五寸も積りました」

「うむ……だいぶ大きなのが降り出した」

「大きなのが降ると、ほどなくやむと申します」

「この分ではなかなかやみそうもない、今日一日降りつづくであろう」

「降っているうちは見事でありますが、降ったあとの道が困りますなあ」

「あとが悪い――」

竜之助は横になったまま、郁太郎に乳をのませている差向いの炬燵越しにお浜を見て、

「あとの悪いものは雪ばかりではない――浮世のことはみんなそれじゃ」

今日は竜之助の言うことが、いつもと変ってしおらしく聞えます。

「ホホ、里心がつきましたか」

お浜は軽く笑います。

「どうやら酒の酔もさめかけたような――」

竜之助はまた暫らく眼をつぶって、言葉を休めていましたが、

「浜、甲州は山国なれば、さだめて雪も積ることであろう」

「はい、金峰山颪が吹きます時なぞは、わたしの故郷八幡村あたりは二尺も溜ることがありまする」

こんなことを途切れ途切れに話し合って、雪を外に今日は珍らしくも夫婦の仲に春風が吹き渡るように見えます。

悪縁に結ばれた夫婦の仲は濃い酒を絶えず飲みつづけているようなもので、飲んでいる間はおたがいに酔の中に解け合ってしまいますけれども、それが醒めかけた時はおたがいの胸にたまらないほどの味気なさが湧いて来ます。その故に或る時は、二人の間に死ぬの生きるのというほど揉め出すかと思えば、或る時は水も洩らさぬほどの親しみが見えるのです。

「坊は寝たか」

「はい、すやすやと寝入りました」

「酒はまだあるか」

「まだありましょう」

「こう降りこめられては所在がない、また酒でも飲んで昔話の蒸し返しでもやろうかな」

「それが御無事でござんしょう」

お浜は寝入った郁太郎を、傍にあった座蒲団を引き寄せてその上にそっと抱きおろし、炬燵の蒲団の裾をかぶせて立とうとすると、表道で爽やかな尺八の音がします。

「ああ尺八……」

竜之助もお浜も、にわかに起ってそうしてこのしんみりした雪の日、人の心を吸い入れるような尺八の音色に引かれて静かにしていると、その尺八は我が家のすぐ窓下に来て、冴え冴えした音色をほしいままにして、いよいよ人の心を嗾るようです。

「よい音色じゃ、合力をしてやれ」

お浜が鳥目を包んで出すと、外では尺八の音色がいよいよさやかに聞えます。

お浜は台所に行っている間、竜之助は寝ころんだままで、その尺八を聞いています。

しおの山

さしでの磯に

すむ千鳥

君が御代をば

八千代とぞ鳴く

余音を残して尺八が行ってしまったあとで、竜之助は再びこの歌をうたってみました。

しおの山

さしでの磯に

すむ千鳥……

そこへ銚子を持って来たお浜が、

君が御代をば八千代とぞ鳴く

と立ちながらつづけて莞爾と笑いましたので、竜之助は、

「よく知っている――」

「故郷のことですものを」

「故郷とは?」

「しおの山とは塩山のこと、差出の磯はわたしの故郷八幡村から日下部へかかる笛吹川の岸にありまする」

「ああ左様であったか……」

しおの山、さしでの磯に……

竜之助は無意識に歌い返してみました。

「ここにいて笛を聞くのは風流でござんすが、この寒空に外を流して歩くお人は、さぞつらいことでしょう」

お浜も、炬燵に、つめたくなった手を差し入れて、

「それも若い者ならばともかくも、今の虚無僧のように年をとった身では」

「とかく風流は寒いものじゃ――」

竜之助は起き直り、お浜の与うる盃を取上げて一口飲み、

「親父も尺八が好きであったがな」

「あの弾正様が?」

「そうじゃ、親父は頑固な人間に似合わず風流であった、詩も作れば歌も咏む」

竜之助が父の噂をしんみりとやり出したのは、おそらく今日が初めてでしょう。

「この寒さは、さだめて御病気に障りましょう」

「うむ――」

竜之助には、このごろ初めて父のことが気にかかるようになったらしい。島田虎之助を極力ほめていた父の言葉が、昨夜という昨夜、ようやく合点が行ってみると、父はやはり眼の高い人であった……それで自然、今までに出なかった父の噂が唇の先に上って来るのです。

「御無事でおられますことやら。世間さえなくば、お見舞に上ろうものを」

お浜の附け加えたる言葉は竜之助の帰心を嗾るように聞えたか、

「浜――」

「はい」

「二人で一度、故郷へ帰ってみようか」

「あの、お前様が沢井まで……」

「うむ、最初には甲州筋から、そなたの故郷八幡村へ。あれより大菩薩を越えてみようか」

「それは嬉しいことでござんすが――万一のことがありましては」

お浜の面には懸念の色が浮びます。

「忍んで行けば大事はあるまい」

「お詫びは叶いませぬか」

「所詮」

「あの沢井のお邸にお住まいになれば、どんなに肩身が広いでしょう」

「あさはかなことを言うな、生涯あの邸には住まわれぬ」

「もう土地の人とても、大方は昔のことは忘れたでござんしょう」

「いやいや、あのあたりに住む甲源一刀流の人々は、いまだに拙者を根深く恨んでいるに相違ない」

「もとはと申せば試合の怪我、そんなに根深く思うものはござんすまい」

竜之助は答えず、暫らく打吟じて、思い出したように、

「浜、文之丞には弟があったそうな……」

「文之丞の弟……はい、兵馬と申しまする」

「その兵馬――それは今どこにいる」

「わたしが出るまでは番町の親戚におりました」

「歳はいくつになるであろう」

「左様、数え歳の十七ぐらい」

「その兵馬は、さだめて拙者をよくは思うまい」

「まだ子供でござんすものを」

「怖れるというではないが……いささか心がかりになる。今もその番町の親戚とやらにおるか、折もあらば聞き届けておくがよい」

「もし兵馬がお前様を仇と覘っていたら何となされます」

「仇呼ばわりをしたらば討たれてもやろう――次第によっては斬り捨ててもくれよう」

「それは不憫なこと、兵馬には罪がないものを」

お浜の本心をいえば、兵馬に憎らしいところは少しもない、兵馬にとっては自分は親切な姉であったし、自分にとっては兵馬は可愛ゆい弟です。その心持はどうしても取り去ることはできないのですから、まんいち兵馬が竜之助を覘うようなことがあらば、竜之助のために返り討ちに遭うは知れたこと、そのことを想像すると、お浜は兵馬が不憫でたまらなくなります。

「拙者を仇と覘うものがありとすれば、それは兵馬一人じゃ。同流の門下などは拙者を憎みこそすれ、拙者に刃向うほどの大胆な奴はあるまいけれど、文之丞には肉親の弟なる兵馬というものがある以上は、子供なりとて枕を高うはされぬ」

仇を持つ身の心配を今更ここに打明けて、

「兵馬さえなくば、父に詫して故郷へ帰ることも……」

兵馬さえなくば……その言葉の下には、兵馬を探し出さば、亡き者にせんとの考えがあればこそです。

お浜はここに言わん方なき不安を感じはじめました。

文之丞を亡き者にさせたのは誰の仕業であったろう、また兵馬をも同じ人の手で同じ運命に送らねばならぬとは――お浜は戦慄しました。その時、

「吉田氏、御在宅か」

外から呼びかけた声。

「おお、その声は芹沢氏」

竜之助はくるりと起き上ります。客は新徴組の隊長芹沢鴨。

芹沢鴨と机竜之助とは一室で話を始めています。さほど広い家でもないから、次の間ではお浜が客をもてなす仕度の物音が聞える。お浜の方でも、二人の話し声がよく耳に入ります。

「時に吉田氏」

芹沢の声が一段低くなって、

「昨夜のざまは、ありゃ何事じゃ」

「なんとも面目がない」

「土方めも青菜に塩の有様で立帰り、近藤に話すと、近藤め、火のように怒り、今朝未明に島田の道場へ押しかけたが、やがて這々の体で逃げ帰りおった」

「聞きしにまさる島田の手腕」

ここにもまた机竜之助の吉田竜太郎が、しおれきっているので芹沢は安からず、

「このうえ島田を斬るものは貴殿のほかにない。是が非でも島田を斬らねば新徴組の面目丸つぶれじゃ」

「しかし、本来を言えば島田にはなんの怨みもない、落度はこっちにあるから自業自得じゃ」

「そうでない、我々同志が敵でもあり、公儀にとっても油断のならぬ島田虎之助、ぜひとも命を取らにゃならぬ」

低く話すつもりでも高くなりがちな芹沢の声音。

次の間で仕度を済ましたお浜は、穏やかならぬ話の様子が心配なので、そっと郁太郎の傍に添寝をしながら二人の話を立聞き――いや寝聞きです。

お浜はこうして次の間の話を盗聴していると、それから話し声は急に小さくなって聞き取れません。

お浜は近ごろ竜之助が、夜の帰りも遅くなり、時には酒に酔うて帰ることが多いので、それも心配の一つ。ことにいずれも一癖ありそうな浪人者とばかり往来することが、心がかりでなりません。いま来た客というのも浪人組の隊長株であるとやら。さいぜん話の通り故郷へ引込むことができれば、竜之助の心も落着いて、酒を飲むこと、気が荒くなることも止み、浪人者との往来も少なくなるであろう。

低い声で竜之助と芹沢とが話し合っているうちに、おりおり近藤とか土方とかいう人の名が聞えます。土方歳三という人は剣術の出来る人で、もとの夫、文之丞とは往来のあった人、このごろどうかすると竜之助の口からその名前を聞く。また近藤勇という人も、八王子の天然理心流の家元へ養子になった有名な荒武者であって、これも竜之助が近ごろ懇意にしているようです。それらの名前を聞きとがめては、いろいろと気にしていると、

「吉田氏、貴殿は宇津木兵馬という者を御存じか」

芹沢の口から出た兵馬の名。お浜はハッとしました。

「ナニ、宇津木?」

竜之助の言葉も気色ばむ。

「いかにも。その宇津木兵馬という者が、貴殿を仇と覘いおるげな」

「そのような覚えが無いでもない」

竜之助はさのみ驚かず。

「その宇津木兵馬に、近藤、土方らが助太刀して、近いうち貴殿の首を取りに来るそうじゃ」

ありありと聞き取ったお浜は、我を忘れて障子際に耳を寄せようとすると、乳房がよく寝ていた郁太郎の面を撫でて、子供は夢を破られんとし、むずかって身を動かすので、お浜はあわててかかえて綾なします。

それから話はまた小声になって、何だか聞き分けられません。暫くあって、

「しからば拙者はこれでお暇を致そう、貴殿もよくよく考えておき召されよ」

芹沢はこう言い捨てて帰るらしいから、お浜もそこを起きようとすると、

「その宇津木兵馬とやらはどこにいる」

立つ芹沢に問いかけたのは竜之助です。

「それは明かされぬ、それを明かしてはあったら少年が返り討ちになる。しかし、御用心御用心」

「うむ――」

竜之助は押返して問うことをしなかったと見えます。

「与八さん、わたしはこのお邸で死ぬか、そうでなければこのお邸を逃げ出すよりほかに道がなくなりました」

とうとう我慢がしきれずに、お松は夜業をしている与八のところへ来てホロホロと泣きました。仕事の手を休めて聞いていた与八は、

「逃げ出すがよかんべえ」

突然にこう言い出して、やがてあとをつづけて言うには、

「俺もお前様に力をつけて辛抱するように言ってみたあけれど、どっちにしてもこのお邸は為めになんねえお邸だ、いっそのこと、逃げ出した方がいいだ」

「それでは与八さん、わたしは直ぐにこれから逃げ出しますから誰にも黙っていて……」

「お前様が逃げ出すなら俺も逃げ出すから、一緒に逃げべえ」

「与八さん、お前が一緒に逃げてくれる?」

これはお松にとっては百人力です。こうして二人は、風儀の悪い旗本神尾の邸を脱け出す相談がきまってしまいました。

与八と、みどりとは、その晩、首尾よく神尾の邸を脱け出して、

「与八さん、どこへ行きましょう」

「沢井の方へ行くべえ、あっちへ行けば俺が知っている人がいくらもあるだ」

伝馬町を真直に、二人は甲州街道を落ちのびようというつもりでした。二人ともあまり地理に慣れないものですから、道を反対に取違えてしまって小石川の水戸殿の邸前へ出てしまったのです。

「こりゃ違ったかな、こんな坂はねえはずだが」

お茶の水あたりへ来た時に与八はやっと気がついて、

「何でもいい、行けるだけ行ってみべえ」

昌平橋と筋違御門との間の加賀原という淋しいところへ来ると、向うから数多の人と提灯、どうも役人らしいので与八も困って前後を見廻すと、ちょうど馬場の隅のところに屋台店を出しているものがあります。これを幸いに与八はみどりの手を引いて、屋台店の暖簾をかぶると、

「いらっしゃいまし、ずいぶんお寒うございます、この分ではまだ雪も降りそうで……」

お世辞を言う中婆さん。まだどこやらに水々しいところもあって、まんざら裏店のかみさんとも見えないようでした。

「みどりさん、天ぷらを食わねえか」

「与八さん、お前がよければ何でも」

「それでは天ぷらを二人前」

暫くして、

「お待ち遠さま」

行燈の光で器を出す途端に、面と面とを見合せた屋台店のおかみさんとみどり。

「おお、あなたは伯母さん」

みどりのお松は我を忘れて呼びかけました。

「まあ、お前はお松ではないか」

屋台店の主婦も呆れてこう言いました。

「伯母さん、どうしてこんな所に……」

「お前にこんなところを見られて、わたしは恥かしい」

きまりの悪そうなのも道理、この屋台店の主婦というのが、本郷の山岡屋の内儀のお滝が成れの果でありました。

「伯母さん、ほんとに御無沙汰をいたしましたが、皆様お変りもござりませぬか」

「変りのないどころじゃない。それにしても、お前もまあよく無事でいてくれたねえ」

「わたしも伯母さんのところからお暇乞いをしてあと、いろいろな目に遭いました」

「あの時はお前、わたしが留守だものだからつい……」

お滝も、あの時の無情な仕打を考え出しては多少良心に愧じないわけにはゆかないから、言葉を濁して、

「まあ、なんにしても珍しいところで会いました、お前、お急ぎでなければ、わたしの家へ来てくれないか、ついそこの佐久間町にいるんだから」

こう言われてみると、是非善悪にかかわらず、この場合お松にとっては渡りに船です。

「わたしも伯母さんに御相談していただきたいことがありますから、お差支えなければ、お邪魔にあがりましょう。ねえ与八さん、この方はわたしの伯母さんなの」

「そうでしたかえ、今晩は」

さきほどから二人の有様をながめて怪訝な面をして箸を取落していた与八、引合わされて取って附けたような挨拶でした。

この伯母さんに引張られて、二人は佐久間町の裏へ来て見ると、八軒長屋の、こっちから三つ目の家。伯母は委しく身の上を語ることを避けたがっていたが、その話の筋は、山岡屋は最初、泥棒に入られ、それから番頭に使い込まれ、次に商売が大損で、とうとう瓦解してしまったということです。それから瓦解と前後して主人の久右衛門が死んだ、残るところは借金ばかり、出入りの親切な人に助けられて、今ではその人と一緒になっているということを伯母が涙ながらに語るものだから、お松もついつい自分の身の上を打明けて、邸を逃げ出して来たことまで隠すことができなくなりました。

「心配をおしでない、これからお前の身の上はわたしが引受けるから」

と伯母が言ったが、これはあまり押しの利いた言葉ではないのですけれども、こうなってみれば、さしあたりこの人を頼りにせねばなりません。

幸い、一軒置いた隣が明いていたから、与八とお松とはそれを借りて隠れるということに、その夜のうちに相談がきまりました。

その翌朝になると、お松の頭が重くて熱がある。つとめて起きてみたけれども、ついに堪えられないで、どっと寝込んでしまいました。

お滝もやって来て心配そうな面をするが、それよりも与八の心配は容易なものではないのです、医者を呼ぶことはよしてくれと、逃げて来た手がかりを怖れてお松が頻りに止めるものだから、

「それでは風邪薬でも買って来べえ。それ、蒲団を頭のところからよく被っていねえと隙間から風が入る」

与八はお松に夜具を厚く被せてやって、風邪薬を買いに出かけると、それと行違いのようにやって来たのが伯母のお滝です。

「お松、気分はいいかい、さっき持たしてよこした玉子酒を飲んでみたかい」

「はい、どうも有難うございました」

「与八さんはどこへ行ったの」

「買物に行きました」

「そうかい――」

お滝は枕許へ寄って来て、お松の額に手を当て、

「おお、なかなか熱がありますね、大切にしなくては……それからねお松」

お滝は言いにくそうに、

「お前、なにかね、お鳥目を少しお持ちかね」

「はい」

「お持ちならばね、ほんとに申しにくいけれどね、商売の資本に差支えたものだからね、少しばかりでよいから融通してもらえまいかね」

「エエようござんすとも」

お松は快く承知して、

「済みませんけれども伯母さん、その手文庫を……その中に包みがありますから封を切って、お入用だけお使い下さいませ、たくさんはございませんけれど」

「そうかい、わたしが手をつけていいかい、済まないねえ、それでは調べてみますよ」

お松が神尾の邸を逃げるとき持って出た自分の手文庫、お滝はその蓋を取って、

「まあ、大へん綺麗なものがあるね、これは短刀かえ、錦の袋なんぞに入ってさ。これがお金の包み、まあ驚いた小判だね。それではお前、このうちを二両だけ借りておきますよ。ほんとに済まないね、お礼を申しますよ。それから何でもお前、不自由があったら遠慮なくそうお言い、我儘を言い合うようでないと親身の情がうつらないからね」

お滝がお世辞たらたらで出て行くと、まもなく与八が帰って来ました。

お松の病気はその翌日になっても癒りません。与八は大へんな心配で、枕許を去らずに看病しているところへお滝がやって来て、

「どうだいお松、ちっとはいいかい。医者に診ておもらいよ、長者町の道庵さんに診ておもらい。なあに、道庵先生なら心配はないよ、あの先生の口からお前の身の上がばれるなんということはないよ。与八さん、御苦労だが道庵さんへ行っておいで。この前の大通りを、それ、大きな油屋があるでしょう、あの辺が相生町というのだから、その相生町の角を真直ぐに向うへ行ってごらん、小笠原様のお邸がある、そのお邸の横の方が長者町だからね、あの辺へ行って道庵先生と聞けば子供でも知っているのだよ……それから、あの先生にお頼み申すにはね、秘訣があるのだよ、その秘訣を知らないと先生は来てくれないからね」

お滝は手ぶり口ぶり忙がしく与八に説いて聞かせる。

「その秘訣というのはね、貧乏人から参りましたが急病で難渋しております、どうか先生に診ていただきたいのでございますと、こう言うんだよ。貧乏人と言わないといけないよ、金持から来たようなふうをすると先生は決して来てくれない、いいかね、貧乏人から来ましたと言うんだよ」

「そんなに貧乏が好きなのかい」

「貧乏が好きというわけじゃないだろうけれど、そこが変人なんだよ。それから、いつでも酔っぱらっている先生だからそのつもりで」

お滝は喋りつづけて、いわゆる道庵先生のところへ与八を出してやったあとで、またそろそろとお松の枕許に寄り、

「お前ほんとに済みませんがね、今月の無尽の掛金に困っているものだから……」

お松の持っていた金は、もうこの気味の悪い伯母に見込まれてしまったのです。

どこへ行くのか知らん、机竜之助は七ツさがりの陽を背に浴びて、神田の御成街道を上野の方へと歩いて行きます。小笠原左京太夫の邸の角まで来ると、

「わーっ」

いきなり横合いから飛び出して竜之助の前にガバと倒れたものがあります。竜之助も驚いて見ると、慈姑のような頭をした医者が一人、泥のように酔うて、

「やあ失礼失礼」

起きようとするが腰に力が入らないおかしさ。やっとのことで起きて面を上げると、竜之助も吹き出さずにはおられなかったのは、いい年をしたお医者さんが潮吹の面をかぶって、その突き出した口をヒョイと竜之助の方に向けたからです。

「お起きなさい」

竜之助は苦笑いしながら医者の手を取って起してやると、

「失礼失礼」

骨なしのようにグデングデンで、面をかぶったままでお辞儀をするのが、いかにもおかしい。それと見た近所の子供連中がワヤワヤと寄って来て、

「やあ、道庵先生がひょっとこ面をかぶってらあ、おかしいなあ」

「先生、その面をあたいにおくれよう」

「おじさん、あたいにおくれよう」

医者の周囲を取巻くと、

「面こは一つしかないぞ、お前らみんなに分けてやれない」

「それではおじさん、じゃんけんをして勝ったものにおくれよう」

「じゃんけんでも何でもやれやれ、わーっ」

また竜之助の前へ倒れかかろうとする、竜之助はまた支える。

「やあ、失礼失礼」

往来の人は歩みを止めて集まって来る。竜之助は厄介な者につかまったと当惑し、

「これ子供たちや、このおじさんはどこの人じゃ」

「これは道庵先生というて、長者町のお医者さんじゃ」

「このように酔うては難儀じゃ、誰か邸まで沙汰をしてくれ」

「ナニおじさん、大丈夫だよ、この先生はいつでも酔払ってるんだから放っとけば一人で帰るよ」

「やーい子供、踊れ踊れ、踊りの上手な奴にこの面こをやるぞ、そら、こんなふうに踊れ」

面をかぶったまま章魚のような恰好をして踊り出したので、往来に見ていたものが一度に吹き出します。竜之助はそれをしおに振り切って新黒門の方へ行く。

竜之助が新黒門を広小路の方へ廻ろうとする時分に、すれちがった人があります。竜之助の方では気がつかなかったが、先方ではふいと歩みをとどめて、二三間行き過ぎた竜之助の姿を見送っている。それは宇津木兵馬でした。

兵馬は竜之助に会って、「ハテ見たような人」と思います。しかし急に思い出せなかったので、空しく見送ったばかりでなお思い出そうとつとめたが、一町ほど隔たった後、

「あ、それそれ、いつぞや島田先生の道場で試合をした人」

とようやく考えついて、

「たしか江川太郎左衛門配下というたが……妙な剣術ぶりであった」

あの時の試合、例の竜之助が音無しの構えの不思議であったことを兵馬は思い返して、

「先の勝ちで籠手を取られた、いかにも凄い太刀先に見えた、もう一度あの人と立合をしてみたい」

兵馬は胸にこう考えながら、

「あのくらいに出来る人なれば相当に名ある者に相違あるまい。はて、あの時は何と名乗った……おおそれ、吉田なにがしというたが……吉田なにがしと申す剣客はあまり聞かぬ……仮名ではあるまいか」

兵馬はうつらうつらと歩みつつ、

「見受けるところ、浪人のようにもあるし……」

こう考えてきて、何やら穏やかならぬ雲行きが兵馬の胸の中に起り出し、

「待て――机竜之助が得意の手に音無しの構えというのがあると――あの吉田なにがしの手は――あれは音無しの構えではあるまいかしら。音無し、むむ、そう思えばいよいよ思い当る。あの年頃は三十三四、竜之助、竜之助……あれが兄のかたき机竜之助ではあるまいか」

兵馬の心を貫く暗示。なんらの証拠があるわけではないが、こう思い来ると、今すれ違ったのがどうも竜之助らしい。兵馬は踵を廻して黒門の方へ取って返そうとすると、

「わーッ」

また横合いから飛び出して兵馬の前に倒れたのは、かの道庵先生です。

「やあ失礼失礼」

そのあとをつづいた子供らが、

「おじさん、面をおくれよう」

いい年をした男が、ひょっとこの面をかぶって来たから兵馬も笑い出して、それを避ける途端に道庵はころころと往来へ転がってしまいました。

「やあ、先生が倒れやがった、起せ起せ」

子供らは寄ってたかって道庵を起し、

「お家へ担いで行こう、わっしょ、わっしょ」

この騒ぎで宇津木兵馬は机竜之助の姿を見失って、その日はそれで帰りました。

お松の病気も大分よくなりました。よくなったとは言うものの、半月あまりも寝たことですから、その間の与八の骨折りというものは大したものでありました。

伯母のお滝は例の如く空お世辞を言っては金を借りて行き、その金を亭主の小遣銭にやったり自分らの口へ奢ったりしてしまったので、お松の病気の癒った時分には、持っていた金はほとんど借りられてしまったのです。

お松は蒲団の上へ起き上って乱れ髪を掻きあげていますと、お滝がまたやって来て、

「お前、ようやく癒ってよかったねえ」

「はい、おかげさまで」

「これというのも、わたしが湯島の天神様へ願がけをして上げたのと、それから道庵先生のおかげだよ」

「はい」

「それから今日はお前、天神様の御縁日だからお礼詣りに上らなくては済みませんよ」

「はい」

「近い所だけれども、まだ無理をするといけないから駕籠をそいって上げるよ」

「いいえ駕籠には及びません、歩いて参りませぬと信心になりますまいから」

「そんなことがあるものかね、歩いて行こうと駕籠で行こうと信心ごころさえ確かならねえ……それはそうとお前」

お滝の言葉が改まる時は、そのあとに来るのはいつも金のことですからお松はヒヤリとすると、案の定、

「道庵先生への薬礼はどうなさるつもりだえ」

「伯母さま、実を申し上げれば、今のところ……」

「もうお金は無いのかい」

「ええ……」

面を赧らめていると伯母は、

「わたしの方でも、お前にだいぶ借金がありますが、今々というわけにもいかず、困ったねえ」

困った面をして、

「道庵先生はああいう変人だから、少しぐらい延びたって何とも思いなさりゃしますまいが、それならそのように、なおさら早くお礼をしないと。それにお前だって、これから身を定めるには物要りがつづきますからね、何とかしなければ」

「左様でございますね」

「あのね、あんまり立入ったことだけれども、お前なにか金目の物を持っていやしないかね、売るとか質に入れるとかして、纏まったお金の手に入るようなものを」

「それは、どうも」

「あれは何だね、お前あの手文庫の中にあったもの、錦の袋に包んだ短刀のようなもの、あれはお金になりそうだね」

お滝が早くも眼をつけたのは、ずっと昔、お松が裏宿の七兵衛から貰った藤四郎の短刀です。

お松は返事に困って、この伯母という人の性根がどこまで卑しくなったかと、それを悲しむのみであります。

お滝がその品を道具屋に見せてごらんとすすめて帰ったあとで、お松は思い出したように、手文庫を調べて錦の袋に入れた短刀を取り出して鞘を払ってながめました。

暫らく手入れをしなかったが名刀の光は曇らず、それを見ていると過ぎにし年の大菩薩峠の悲劇がありありと思い出されるのです。こうして短刀を眺めながら、ひとりつくづく思案に耽っていると、

「これお前様、心得違えをしてはなんねえ!」

後ろから飛びついてお松の両手を抱きすくめたのは、薬取りから帰った与八です。

「飛んでもねえこんだ、刃物なんぞを持って」

「与八さん、勘違いをしてはいけません、ただこうしてながめていたばかりよ」

お松は、与八の驚き方があまりに大仰なのでおかしくなったのですが、与八はまた、お松が永の病気から身の上を悲観して自害でもするつもりと勘違いをしているので、お松の手から短刀をもぎ取って、

「危ねえ、こりゃ俺が預かる」

与八は鞘を拾って納めて包み直すと、お松は微笑して、

「ああ、それではお前さんに預けておきましょう……それよりは、いっそのこと」

お松はこの時ふと、売ってしまおうかという気になって、

「そんなものを持っていると危ないから、いっそ売り払ってしまいましょう、与八さん、御苦労ですが刀屋さんに見せて来てちょうだい」

「お前様これをお売りなさるのか」

「売ってしまいましょう」

「それでも大切の品だんべえ」

「大切といえば大切だけれど、与八さん、さしあたりそれを売って、お医者様のお礼やら、これからの入用にしたいと思います」

「そうか」

与八はお松から頼まれて、御成街道の小田原屋という武具刀剣商の店へ行ってその短刀を見せると、物言わず三十両に価をつけられました。たかだか二両か三両と思っていたのに、三十両とつけられて与八は暫らく返答ができないでいると、番頭は畳みかけて、三十三両と糶り上げ、与八に口を開かせないで、その金を押しつけるようにして短刀と引換えてしまいました。

与八はその金を懐にして佐久間町の裏店へ帰って来て、

「みどりさん、いま帰った」

「おお与八さん、御苦労でした」

見れば、みどりは、いつのまにか髪を島田に取り上げて、燈火の影にこちらを見せた風情は、今まで永く患っていたのとうつり変って、与八の眼をさえ驚かすくらいの美しさに見えました。

「思いのほかいい値に売れました、この通り三十三両」

「まあ、あの短刀がそんなに」

「あんな短けえもので三十両もするだから、よっぽどいい品に違えねえ」

「それでは与八さん、御苦労ついでに道庵先生まで行ってお礼をして来て下さいな」

「ああいいとも」

「御飯の仕度が出来たから一緒に食べましょう」

「そうかい、お前様が仕度をして下すったかい」

二人は膳を並べて、

「さあ与八さん、お出しなさい」

「どうも済みましねえ」

ここで旅費も出来たから、二人はかねての望み通り沢井へ行って、与八はもとの水車番、お松はその傍で襷がけで働くこと、その楽しい生活を想像しながら話し合って、食事を終り与八は、

「そんならお医者様へお礼に行って来るだ」

「何だって、薬礼を持って来たって。薬礼を持って来たらそこへ置いて行きな」

与八が訪ねて行った時、道庵先生は八畳の間に酔い倒れて、寝言半分に与八に返事をしています。

「先生、いくら上げたらいいだ」

「いくら? 十八文も置いて行きねえ」

「十八文?」

与八も変な面をして、

「半月もお世話になって十八文じゃ、あんまり安い」

「生意気なことを言うな、安かろうと高かろうとこっちの売物だ」

「先生、そんなことを言わねえで、本当の値段を言っておくんなさいまし」

「だから十八文でいいのだ」

「先生酔っぱらっていなさるからいけねえ」

「酔っぱらったって商売に抜目はねえ、早く十八文おいて帰れ」

「それじゃ済まねえ」

「てめえは馬鹿だな、本人の俺が十八文でいいというのだから、十八文おいて帰ったらいいじゃねえか」

「それは先生が馬鹿だ、半月も診てもらったり薬を飲ましてもらったりして、そのおかげさまで病人がすっかり癒って、そうしてお礼が十八文で帰れるか、よく考えてごらんなさい」

「馬鹿野郎、手前は十八文おいて帰ればいいのだ」

「でもね先生、そんなに怒らずにお聞きなすって下さいよ、わしが家へ帰って、道庵先生に薬礼をいくら差上げて来たと聞かれた時にね、十八文おいて来ましたとは言えなかんべえ」

「うるさい野郎だな、十八文おいてさっさと帰れ!」

「それじゃ先生、一両おいて行くべえ」

「何だ一両だ? てめえ一両なんという金をどこから盗んで来た!」

「盗んで来たあと? この野郎、先生野郎」

与八はムキになって怒り出しました。

「俺、人の物を塵一本でも盗んだ覚えはねえ、飛んでもねえことを言わねえ方がよかんべえ」

「盗んだに違えねえ」

道庵先生が首を振ると、与八はいよいよ怒り出し、

「ほかのこととは違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ俺が面が立たねえ」

「ナニ、盗んだに違えねえ」

「なんだと、道庵先生の野郎」

与八は飛びついて道庵の胸倉を取りますと、

「この馬鹿野郎、わしに喧嘩をしかけるつもりか、喧嘩なら持って来い」

道庵先生も与八の頭へ噛りつきましたが、力ではとうてい与八に勝てっこはありません。

与八は一時の怒りに道庵先生へ武者振りついてみましたけれども、もともと悪気があるのではないですから、持扱い兼ねていると、道庵先生はいい気になって、与八の頭へ噛りついたり引っ掻いたり、ピシャピシャ撲ったりするので、与八は弱りきっているうちに、いいかげん与八の頭をおもちゃにした道庵先生は、そのままそこへ倒れて寝込んでしまいました。

与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。

与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。

「お松さん、お松さん」

呼んでみたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、

「伯母さん、伯母さん」

これも中ではことりとも音がしません。

「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」

さっぱり返事がない。

「もし、お隣のおかみさん」

「どなた」

「隣の与八でござんす」

「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」

「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」

「まあ与八さん、お前、知らないの」

「何だね」

「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして移転をしておしまいじゃないか」

「移転を?」

「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい娘衆は駕籠でお出かけじゃないか」

「ちっとも知らねえ、俺そんなことはちっとも知らねえ」

与八は面の色を変えて唇を顫わせる。

「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」

「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」

「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶に出ますって」

「俺に黙って引越すなんて……」

与八は呆れてホロホロと涙をこぼし、

「四谷のどこへ引越したんべえ」

声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか一目散に表の方へ走り出しました。

与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、

「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」

「誰だえ」

これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを覘うとき会合した家に訪ねて帰る宇津木兵馬の声でありました。

「ああ兵馬さん」

せわしい中で立ち止まった与八。

夜が静かになると人の心も静かになります。静かになるに従って昼のうちは取紛れていたことまでが、はっきりと思い返され、寝られぬ時は感が嵩じて、思わでものことまでが頭の中に浮んで来ます。聖人というものでない限りは、誰でも自分の今までの生涯を思い返して、過がなかったと立派な口が利けるものはないはずで、人間の良心というものは、ほかの欲望の働く時は眠っていますけれども、その欲望が疲れきった時などによく眼を醒して「それ見ろ」と叱ります。

竜之助は夜中になると、きっと魘されます。

お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の寝相を見ると何とも言えず物すごいのであります。凄じい唸りと歯を噛む音、夜更けての中に悪魔の笑うようにも聞えます。お浜はぞくぞくと寒気がして、郁太郎を乳の傍へひたと抱き寄せて、夜具をかぶろうとして、ふと仏壇の方を見ました。竜之助夫婦は仏壇などを持たないのですから、これは前に住んだ人がこしらえ残しておいたものです。奥には阿弥陀様か何かが煤けた表装のままで蜘蛛の巣に包まれてござるほどのところで、別にお浜の思い出になるものがこの仏壇の中にあるはずもないのですが、このとき仏壇がガタガタと鳴っています。それとても不思議はない、鼠が中で荒れ廻っているからです。

それでもあまりにその音が仰山なので、お浜は、

「しっ!」

嚇してみました。

それで鼠の音はハタと止まるには止まったが、やがてバタバタと飛び出した大鼠、お浜の直ぐ枕許へ落ちました。お浜は驚いて枕を上げて打とうとすると、度を失うた鼠は、お浜の乳房と、ちょうど抱いて寝ていた郁太郎の面の間へ飛びかかったのであります。

「あれ!」

お浜は狼狽して払いのけようとする。いよいよ度を失うた鼠は、お浜の腹の方へ飛び込みました。

「あれあれ」

お浜は寝床からはね起きます。その途端に鼠はポンと郁太郎の面の上へ落ちかかると、郁太郎は火のつくように泣き出します。

「おお、坊や、坊や」

お浜は急いで郁太郎を抱き起す。鼠はその間に襖を伝わって天井の隅の壁のくずれの穴へ入ってしまいましたが、郁太郎の泣き声は五臓から絞り出すようです。

「おお、よいよい、鼠は行ってしまった」

お浜は抱きすかして乳房を含めようとすると、その乳房の背に一痕の血。

「あなた、お起きあそばせ、大変でございます」

お浜は片手には泣き叫ぶ郁太郎を抱えて、片手を伸べて無二無三に竜之助を突き起します。

「何事だ」

眼をさました竜之助。郁太郎の泣き声にも驚かされたが、自分の身体の手の触るるところが、水で漬けたような汗であるのにも驚きました。

「よく見て下さいまし、坊やが鼠に噛まれました」

「ナニ、鼠に?」

「はい、大きな鼠があの仏壇から出て、この中に潜りこんで坊やに食いつきました」

「どれどれ」

竜之助は起き上って、燈心を掻き立てて、郁太郎の身体を調べて見ると咽喉に一文字の創。別に深い創ではないが、そこから血がにじんで、蚯蚓ぐらいの太さにダラダラと落ちて行くのです。

「咽喉を噛まれました」

お浜は狂気のように叫びます。

「大事はない、早く血を拭いて創をよく巻いてやれ」

竜之助はあり合せた晒木綿の断切れを取ってやる。

「針箱の抽斗に膏薬がありますから早く……早くして下さい」

「焦くなよ」

「まあ焦れったい、その右の小さい方の小抽斗」

「これか」

「水でよく創を洗ってやりましょう、あなた、お冷水を」

お浜は何もかも夢中で騒いでいます。ようやく水で拭き取った創のあとを洗ってやる、その間も郁太郎は苦しがって身をもがいて泣く。

「いいよ、いいよ、坊や、痛くはないよ、さあもう少し」

やっとのことで創を洗って、膏薬を貼って晒で首筋を巻きました。

「もう泣くのではありません、坊やは強いからね」

泣き止まぬ郁太郎を膝の上に、お浜自身も半ばは泣き声です。竜之助も、さすがに心配そうに郁太郎の面をながめていたが、そのうちに痛みが少しは退いたのか、または声を泣きつぶしてしまったのか、郁太郎は母の乳房を抱えたなり少し静まってきたので、

「お医者様へつれて参りましょう」

「もう遅い、明朝のことにせい」

「いけません、手後れになると大変ですから。それに、ほかの創と違って鼠に噛まれたのは、ことによれば生命にかかわると申しますから」

お浜はこの真夜中に、郁太郎をつれて医者へ往こうと主張する。

「よし、そんならわしが一走り、医者を迎えに行って来る」

竜之助が医者を迎えに行ったあとでお浜は、

「にくい畜生だ」

鼠というやつの憎さが骨身に徹って、取捉まえて噛み切ってやりたい。お浜は鼠を呪いつめて仏壇の方を睨めて歯噛みをする。

郁太郎の苦しむことさえなくば、室の中も戸の外も、静まり切った丑三時で、しんしんと更けてゆきます。天井ではまたしても鼠が走せ廻る、その足音が「ざまを見ろ」というように聞える。

お浜は天井をまでも仇のように見上げて、見下ろすと、痛々しい繃帯が泣き疲れた郁太郎の繊細い首筋を締めつけるもののように見えて、わけもなくかわいそうでかわいそうでたまりません。

「坊や、大切におし、咽喉はだいじだからね」

お浜はこう言ってホロホロしながら、じっと我が子の面を見つめて、

「お前が万一のことがあれば、このお母さんは生きていられないよ」

実際、郁太郎は今までよく育ったもので、肉附きはよし、麻疹も軽くて済み、誰が見ても丈夫そうで、他人さえ可愛いらしかったくらいですから、お浜にとって、どうして可愛がられずにいられよう。

「ほんとに、思い出しても憎い畜生だ」

可愛さ余っての憎さはまた鼠の方へ廻る。

お浜は医者を待つ用意で寝衣を平常着に着換えようとして、ようやく少し静まった郁太郎を、そっと蒲団の上に置こうとすると、郁太郎はまたひーと泣き出す。ハッとしてお浜はまた抱き直すと、さあ、それから、また泣き出して、もう声も涸れきっているのに、涙ばかりをホロホロとこぼし、パッチリとあいた眼に、じっと母親の面を見据えて五体をわななかせる。

「坊や、まだ痛いかえ。まあお前、そんな怖い面をして母さんを見るものじゃありませんよ」

お浜は力も折れて泣きました。郁太郎は身をふるわせて母にしがみつくように、その眼は瞬きもせずに母の面のみ見つめていますから、

「まあ、お前はナゼそんなにお母さんを苛めるの、なんという因果だろうねえ」

お浜は泣きながら我が子の面を見ていたが、

「ああ罰だ、罰だ、これがほんとの天罰というのに違いない」

投げ出すように郁太郎を蒲団の上に差置いたお浜の眼は、物に狂うように光っておりました。

お浜がいまさら天罰を叫ぶは遅かった。しかし、遅かれ早かれ、一度は天罰を悟ってみるのも順序であります。

我が子なればこそ、これほどのささやかな創に気も狂うほど心配するものを、今お浜が、

「ああ怖い」

と言って慄え上った瞬間に眼前にひらめいた先の夫文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期を遂げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨んだか。

お浜とても、今まで寝醒めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面に文之丞の末期の色がある。天井で噪ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼い面をして睨めている。蒲団の唐草の模様を見ると、その蔓がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫で廻そうとしている。針箱の抽斗からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚って行きそうでならぬ。

室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓を押しあけて外を見ました。

夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、

「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」

郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと身体を動かすばかり。やはり眼を見開いて、母親の面を睨んでいます。

ちょうど有明の月がこの窓からは蔭になりますけれども、月の光は江川の本邸の内の土蔵の棟に浴びかかって、その反射で見た我が子の面が、この世の人のようには見えなかったので、

「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」

こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。

医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その窓際に立ちつくしているのでありました。

昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、

「あなた、あなた」

枕許を揺り動かすのはお浜の声。

頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。

「こんなお手紙が」

「ナニ、手紙が……」

竜之助、何心なく受取って見ると意外にも逆封。

「これは――」

やや驚いて、表を読んでみると「机竜之助殿」、裏を返せば「宇津木兵馬」。

竜之助は勃然として半身を起し、封を切って読むと、

「貴殿に対して遺恨あり、武道の習にて果合致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻まで御越あり度」

「うむ、小癪な果し状」

竜之助は手紙をポンと投げ出して、夜具を蹴って起き直りました。

「坊やはどうじゃ」

「よく寝ておりまする」

竜之助はお浜の抱いている郁太郎の面をのぞき込み、

「医者の申すには、一時物に怖えたので、格別のこともないそうな」

起きて面を洗い食事を済ましてから、

「浜、坊やをこれへお貸し」

「それでもよく眠っておりますものを」

「眠っていてもよいわ、抱いてみたい」

「今日に限ってそんなことを」

「いいからお貸し」

「せっかく寝たものを、起すとまたむずかりまする」

「いいから、これへ出せというに」

竜之助の言葉が強くなりますので、お浜は詮方なく、よく寝ていた郁太郎を、そっと移して竜之助に渡すと、竜之助は抱き上げて、つくづくと郁太郎の面から昨夜の創を繃帯したあたりなどを見て、今更のように、

「まあ、無事に育つがよい」

「無事に育たなくてどうするものかねえ、坊や」

「親はなくても子は育つというからな」

「両親とも立派にあるものを、縁起でもない」

お浜はやや不足顔。竜之助は思い出したように、

「浜、わしも近々京都の方へ行こうと思う」

「京都の方へ?」

お浜は意外な面。

「京都へは諸国の浪人者が集まり乱暴を致す故、その警護のためにとて腕利きの連中が乗り込んで行く、わしもそれに頼まれて」

「まあ、それはいつのこと」

「近いうち、或いは足もとから鳥の立つように」

「そうして、坊やとわたしは?」

「やはり、こっちに留守しておれ」

「いいえ、それはいけませぬ」

竜之助が不意に京都へ行くと言い出したので、お浜は驚いて、力を極めてそれに故障を申し入れる。

「それでは、もう一度考えてみよう」

こう言って竜之助は、やっとお浜を安心させて、自分は次の間へ引込んでしまいました。

大した創ではないが容体が思わしくないから、お浜が引続き郁太郎を介抱している間に、竜之助は一室に閉籠ったまま咳一つしないでいるから、

「あの人は、どうしてああも気が強いのかしら」

お浜は竜之助が、我が子の大病をよそに、何をしているだろうと、怨めしそうに独言をしてみたりしているうちに、竜之助がついと室を出て来ました。

見れば刀を提げていますから、

「どこへおいでなさる」

「ちょっと芹沢まで」

「急の御用でなければ、坊やもこんな怪我なのですから宅にいて下さい」

「急の用事じゃ、直ぐ帰る」

「早く帰って下さい、そうでないと心細いのですから」

「うむ」

出て行く竜之助の後ろ影を見送りながら、

「あの人は、情愛というものを知ってかしら」

何とはなしに、竜之助と添うてからのことが胸に浮んで来ました。愚痴は昔に返るのみで、文之丞との平和な暮しに自分が満足しなかったことの報いを今ここに見るとは思い知っても、まだまだ自分が悪い、自分だけが悪いのだとは諦め切れないのです。

こんなふうに、お浜は人を恨んだり自分を恨んだりして郁太郎の介抱に一日を暮らしましたが、直ぐ帰ると言った竜之助は、夕方になっても帰って来ないのです。

「ほんとうにどうしたことでしょう、あの人はあんまり情けない」

お浜は繰返し繰返し竜之助の帰りの遅いことを恨んで、

「どうして現在自分の子にまで、こんなに情愛がないのでしょう」

いったん悪縁に引かされて、お互いに切っても切れぬようになったればこそ、二人はともかくも無事にここまで暮したけれど、お浜にとっては竜之助の愛情がいつも不足に堪えられなかったのです。お浜はじっさい竜之助から、もっと濃い情愛を濺がれたかったはずなのに、それは存外冷やかで、時としてはお互いの心と心との間に鉄を挿んだような隔てが出て来るように感じ、ついには竜之助の愛し方が足りないばかりでなく、二人の間に出来た子供に対してすら、その愛し方に不満足を感ずるのであります。

「郁太郎はおれの子ではない」

竜之助はいつぞや腹立まぎれに、お浜に向ってこんなことを言ったことがある。それが今も怖ろしい勢いでお浜の耳に反響して来るのでありました。

「あの人は、ほんとにこの子を、自分の子とは思うていないのかしら」

そこへ飄然と竜之助が帰って来ました。

「いま帰った」

竜之助の面の色はいつもよりも一層蒼白く、お浜と郁太郎とをひとめ見たきりで、さっさと次の間へ行こうとする。お浜はこの時、腸の底まで竜之助の憎らしさが沁み込んで、

「あなた、この子は誰の子でござんしょう」

その声は泣き声でありましたから、竜之助はその切れの長い目でジロリと、

「誰が子とは?」

「坊やは誰の子でしょう」

「何をいまさら」

「郁太郎はお前様の子ではありませぬ」

「何を言うのだ」

「この子は死んでしまいますのに」

「なに?」

竜之助は、お浜の例の我儘な突っかかりが始まったと思うたが、今日はそんな嚇し文句に対して思いのほか冷淡で、

「寿命なら死ぬも仕方がない」

「まあ……」

お浜は凄い目をして竜之助を睨みました。竜之助もまた沈み切った眼付でお浜を睨み返す。いつもならばここで癇癪が破裂して、生きるの死ぬのと猛り立つべき場合であったのに、今日は不思議にも二の句をついで何とも言い張りません。

竜之助はそのまま次の室へ入って、机に向って暫らく茫然と坐っていましたが、自分で燈火をつけて、それから料紙、硯箱を取り出して何か書き出したものと見えます。

まもなくお浜はここへ入って来ました。

「あなた、竜之助様」

「何だ」

「お願いがござりまする」

「言ってみろ」

竜之助は書きかけた筆を置きもせず、お浜の方を見返りもせず冷やかな返事です。お浜の方も何か深い決心があるらしくて、別にくどいことも言わず、これも眼の中はやっぱり冷やかな光で満ちて、

「離縁をして下さい」

「離縁?」

竜之助はこの時、ちょっと筆を休めてお浜を見返り、

「離縁、それも面白かろう」

「ええ、面白うござんす、ずいぶんあなたとは永く面白い芝居を見ましたから」

「ここらで幕を下ろそうというのかな」

「離縁状を書いて下さい」

「誰に断った縁でもない、いまさら三行半にも及ぶまいが」

「そんなら今から出て行きます」

「それもよかろう」

竜之助は、いよいよ冷淡な気色で、

「しかしここを出てどこへ行く」

「どこへ行きましょうとお差図は受けませぬ」

「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の面倒は頼みますぞ」

「郁太郎はわたしの子ですもの」

お浜はついと立って出て行きます。

お浜は箪笥の抽斗をあけて、あれよこれよと探しはじめましたが、そのうちにふと抽斗の底から矢飛白の袷を引張り出しました。

この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、霧の御坂で竜之助に会ったとき着ていたのもこの袷。

されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに氷川へ落ち、そこの炭焼小屋で夜を明かし、上野原の親戚をそっと欺いて旅費を借りて、それで二人が甲州街道を江戸へ下った時、やはりこの袷を着ていたのであります。

ここに世帯を持ってから、屑屋にも売られずに残っていることが思い出の種。和田へ来るとき甲州の姉が贈ってくれたこの袷。自分はいい気になって、ずいぶん姉様をもないがしろに取仕切った、それでも姉夫婦は自分が宇津木へ縁づくについてはさまざまに力を入れてくれ、この着物なども姉様が手縫にして下すったもの。

お浜はそれを思うと自分の我儘であり過ぎたこと、姉の親切であったことなどが身に沁みてくるのです。

「甲州へ帰りましょう」

一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、

「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」

お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え来って血がすっと胸から頭まで湧き立ちました。

袷を投げ出した時――衣類の間に見えたのは袋に入れた一口の懐剣です。

お浜はこの懐剣を見ると、

「死!」

この世で最も怖ろしい感情。

「生きて生恥を曝すより、いっそ死のう」

これがこの瞬間に起った考えでありました。

お浜は今まで死ぬ気はなかったのです、郁太郎をつれてとにかくこの家を出て、広い世間のどこかに隠れ家を見つけようと、無鉄砲な考えで胸も頭もいっぱいでした。

生きる執着が残っていたればこそ、いろいろと思い煩ったものを、それが全く取れてしまえば、もう道は開けたので……その道は地獄よりほか行き場のない道ではあるけれども。

お浜は手早く懐剣を拾い取って、盗み物を隠すように懐中へ入れてみると、胸は山のくずれるような音をして轟きましたけれども、お浜の面には一種の気味のよいような笑いがほのめいて、じっと眼を行燈の光につけたまま失神の体で坐っている。

「浜、浜はまだいるか」

これは竜之助が呼ぶ声。

「浜はおらぬか」

二度目に呼んだ時にお浜の耳に入りました。そのとき三度目の声。

「浜、浜」

竜之助の呼び声がこの時お浜にとって無茶苦茶にいやな感じを与えるのでありました。

お浜の返事がないので、竜之助は立ってこちらへ来るようでしたが、

「旅立ちのお仕度かな」

襖をあけるとそこへ突立ってこちらを見入っています。お浜はジロリとその面を見上げましたが、つんと横を向いて取合いません。

「浜、お前はどこへ行くつもりだ」

「存じません」

「まあよいわ、先刻お前から離縁の申し出があってみれば赤の他人……いや、まだ餞別に申し残しがあったのだ、よく聞いておけ」

竜之助は立ったなりで、

「おれは近いうちに宇津木兵馬を殺すぞよ」

「兵馬を殺す?」

お浜は膝を向け直す。

「うむ、兵馬を斬るか、兵馬に斬られるか……」

「それは――」

「まさか兵馬が小腕に斬られようとも思わぬ、毒を食わば皿までということがある、宇津木兄弟を同じ刃に……」

竜之助の蒼白い面に凄い微笑が迸る。

お浜は真正面からその面を見上げて、この時は怖ろしいとはちっとも思いませんでした。

「お殺しなさい――」

竜之助は自分で酒を飲んで早く寝込んでしまいました。

お浜は、また暫らくの間はぼんやりと坐っているばかり、郁太郎は幸いにすやすやと眠っています。

「兵馬を殺す」

と言った竜之助の一言、それがお浜の胸を刺す。

竜之助も眠りに就いたようで、例の唸る声、キリキリと歯を噛む音。

お浜は思い出したように立ち上って次の間へ行ってみました。

竜之助の机の上には、さきほど書いていたらしい手紙が三本。お浜はそっとその一つを手に取って見ると、それは宇津木兵馬からの果し状でありました。

「武道の習にて果合致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻まで……」

お浜は読み去って宇津木兵馬と記された署名のところに来て、はじめて万事の合点がいったのであります。

殊勝なこと、こうも立派な果し状を人につけるようになったとは。自分の知ったのは十三四の可愛ゆい兵馬、それがまあ……それにしても、やっと十六か七、これまでには相当の修行も積んだことではあろうけれど、何というても竜之助の腕は豪いもの、刀を合せれば竜之助の酷い太刀先に命を落すは知れたこと。お浜は一途に兵馬がかわいそうです。

「うーん」

またしても魘される竜之助の声、兵馬を斬って血振いをするのかとも想われる。

「兵馬どのが不憫じゃ」

お浜の手がまたも懐剣へさわる。

お浜は自分が死ぬ前に――竜之助を殺す――罪の二人が共死をすれば可愛らしい兵馬が助かる。お浜の決心は急速力で根強く、ついにここまで進んで来ました。

果し合いを明朝に控えて、ともかくも眠っていられるだけの余裕が竜之助にはあるのです。

衰えたりといえども剣を取っては人を眼中に置かぬ竜之助、僅かの間に一寝入りして気力を養っておこうと横になったけれども、この竜之助の気は疲れています。

夜な夜な魘されたり、歯を噛んだり、盗汗をかいたりすることは、かの新坂下の闇討に島田虎之助の働きを見てからであります。寝ても起きても島田の面つき、立って行く姿、坐っている態度、それが竜之助の眼先にちらついて離れることがありません。

それがために頭が少しずつ混乱してゆくようで、今もこの僅かなる一寝入りにさえ、机竜之助の前には島田虎之助が衣紋の折目正しく一の香を焚いて端坐しているところへ、自分は剣を抜いて後ろから覘い寄る、刀を振りかぶると前を向いていた島田が忽然とこっちへ向く、横に廻って突っかけようとすると、いつか島田はそっちを向いている、焦って躍りかかろうとすると、島田の前に焚かれた香の煙が一直線に舞い上って、その末端がクルクルと廻って自分の面に吹きかけて来る。竜之助、その煙を払いながら太刀をつけて島田の周囲をグルグル廻っているうちに、眼が眩んで鼻血が出て、そこへ香の煙が濛々と捲いて来て息が詰まる。その時にヒヤリと自分の首筋に冷たいもの。

「やッ何者! 誰だ!」

夢を破られた竜之助、パッと跳ね起きてむずと押えたのは和らかい人の手、その手首には氷のような白刃が握られてありました。これは夢ではない、たしかに現実。

「やあ、浜ではないか」

竜之助の上から乗りかかって、彼の首に短刀を当てたのは、現在の自分の妻の仕業でありました。

「何をする、気ちがいめ」

竜之助は短刀を奪い取って身を起すと共に、はったと蹴倒すと、お浜は向うの行燈に仰向けに倒れかかって、行燈が倒れると火皿は破れてメラメラと紙に燃え移ります。

蹴倒されたお浜は、むっくりと起き直るや、前に用意して明けておいたと見える表の戸から外の闇へ転げ出してしまいました。

「憎い女!」

お浜の倒した行燈の火はみるみる障子に移ります。これを踏み消しておいて竜之助、刀を取って同じく表の闇へ飛び下りる。

家の中も真の闇。その中では郁太郎が咽喉の裂けるばかりに泣いている。

お浜はどこへ行った。

闇とは言いながら、もう夜明けに間もない時ですから東の空は白み渡っていました。神明から浜松町へかけての通り、お浜の駈けて行く後ろ影。

増上寺三門の松林の前まで追いかけて、

「待て!」

お浜の襟髪は竜之助の手に押えられて、同時にそこに引き倒されたのであります。

「放して下さい」

「浜、おのれは兵馬に裏切りをしたな」

「早く殺して下さい――」

殺したところで功名にも手柄にもならぬ。のぼりつめた時にも冷静になり得る竜之助、お浜の取乱した姿を睨んでいる。

「竜之助様、わたしを殺して、どうぞお前も殺されて下さい」

面と面とを合せれば、いくらか白み渡った空ですから、見てとることもできる通り、お浜はもう放せの助けろのと騒ぐ峠は越して、言葉にも相当の条理がある。

「わたしもお前様におとなしく殺されて上げますから、お前様もどうぞ素直に兵馬の手にかかって殺されて下さい、そうすれば、あれもこれも帳消し……罪ほろぼしとやらになりましょうから。ねえ、竜之助様」

御成門外で人の足音、増上寺の鐘。

「人殺し――」

竜之助はついにお浜を殺してしまいました。

十一

「あの声は――」

今の絶叫を聞咎めたのは、御成門外で駕籠を捨てた宇津木兵馬の一行です。

「人殺しと聞えた」

介添に来た片柳伴次郎が小首を傾ける。

「たしかにあの松原の中」

兵馬は松原の木の下闇を見込む。

「見届けて来ますべえか」

提灯を持った与八が松原の中へと進んで行く。松原の中へ入りこんだ与八、松の木にバッタリ、

「あ痛え」

額を押えてみると、ぷんと血の香。

「はて……」

提灯を差しつけると、そこの松の木の根に人がある。

「えッ、人が――」

それは女、胸のあたりからベットリと土にまで流れた血。

「皆さん、女が殺されている」

大事の前、それでも人の一命と聞いて見過ごすわけにはいかない。

「ああ、酷たらしい殺され方」

「それ、血が袴の裾に」

「傷はどうじゃ」

「胸を一突き」

「もっと提灯を近く」

「ああかわいそうに。乳の下を突かれたのかね」

提灯を突きつけてオドオドしていた与八は、

「おや、なんだか見たことのあるような女衆だ」

与八は死人の面に自分の面を摺りつけるようにして、

「もし……この女衆は……お浜さま……」

不安の色で兵馬を見上げて、

「兵馬様……お前様もよくこの女衆の面を見て下さいまし、気のせいか、文之丞様の奥様に似てござる」

「ナニ、姉上に?」

兵馬は附添の片柳と水島とを押し分けて、

「姿は変れどよう似てござる、念のため与八どの、この女の持物はないか、調べてくりゃれ」

「ここに短い刀が……書付が……あれ、こっちにも」

与八が拾って兵馬に手渡したのは、意外にも自分の手から机竜之助に送った果し状でありました。

次に受取った一通、

「なに、宇津木兵馬殿へ、はまより?」

これはお浜の手ずから書いたもので、そして兵馬に宛てた手紙。

机竜之助は果し合いの場へ出て来ませんでした。

果し状をつけられながら逃げるというはこの上もなき恥辱。ことに人を殺せば血を見るはずの竜之助がこの場合に、逃げ去るとは甚だ合点のゆかぬことです。

しかしながら約定の時刻にも赤羽橋へ来るということもなく、新銭座の家へ行って見れば、家の中はさんざんであるのに、子供が一人、声を涸らして泣いているばかり。手を分けて行方をさがしたけれどもわからず、これがためにその日の果し合いは中止。宇津木兵馬は残念の余り、張り詰めた勇気も一時に砕くるの思いでしたが、ここに唯一の手がかりというのは、机竜之助が芹沢鴨に宛てた書面一通を発見したことで、その中に、

「兵馬を斬つて後、拙者は予ての手筈の通り京都へ立退き申すべく……」

という文言です。

この手紙を見れば、竜之助が今日の果し合いに立合う覚悟は勿論のこと、立合えば必ず兵馬を斬ることに自分できめ、兵馬を斬れば京都へ飛ぶその手筈まで整うていたものと見えます。それほどの覚悟が出来ながら逃げるとは何事であろう。これは誰にもちょっとわかり兼ねたところであるが、お浜を殺したのも竜之助であろうとは――誰人にもそのように想像されるのでありました。

十二

「どうも永らく御無沙汰を致しました」

妻恋坂のお絹の宅へやって来たのは珍らしくも裏宿七兵衛。

「これは珍らしい七兵衛さん、どうしたかと心配していました」

「つい百姓の方が忙がしいもんでございますから。それに、骨休めを兼ねてお伊勢参りをして来たものでございますから。これはわざっとお土産の印」

「それはお気の毒な。お前さん方は、ほんとに羨ましい身分ですね、稼いでおいてはお伊勢参りだの、江戸見物だのと気晴らしができますから」

「へえ、どう致しまして」

「並のお百姓では、そんなにチョイチョイ出て歩けるものではありません」

お絹にこう言われて七兵衛は苦笑い。

「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」

「内職を? 何か反物でも商いをなさるの」

「へえ、まあそんな事で」

「そう、そんなら今度ついでの時に、甲斐絹の上等を少し見せてもらえまいかね」

「よろしゅうございます、持って参りましょう。時にお師匠様」

七兵衛は話向きを改めて、

「お松の方はどうでございましょう」

「ああ、その事、その事。それはわたしの方からお前さんに尋ねたい。飛脚を立てようかと思っていたところですよ」

「へえ、お松がどうぞ致しましたか」

「あの子はお前、駈落をしてしまいましたよ」

「駈落を?」

「それも御主人の若様と逃げたとか、然るべき男と逃げたというんならお話にもなりますけれど」

「いったい、誰と逃げました」

「誰といってお前、山出しの馬鹿と逃げたんだもの、話にも何もなりやしない」

「馬鹿と……」

「お前さんには最初から話さないとわからないが、二月ほど前にあの子を、わたしが四谷の神尾様という旗本のお邸へ御奉公に上げましたところが、そのお邸に与太郎とか与八とかいう馬鹿がいて、どうでしょう、お松はその馬鹿に欺されて夜逃げをしてしまいました」

「四谷の神尾様というのは、あの伝馬町の神尾主膳様のことでございますか」

「そうです。その神尾様、三千石のお旗本なんだから、首尾よく御奉公して殿様のお気に入ればどんなに出世するかわからないのに、人もあろうに風呂番をしていた与太郎という馬鹿と駈落するなんて、わたしも呆れ返ってしまった、あんな世話甲斐のない子というはありやしない」

「それほど馬鹿な女とは思いませんでしたが、いったい、どっちの方へ逃げましたか、手がかりはございませんか」

「いっこう知れません、いろいろ手配をして探してみましたけれども、どうしてもわかりません。お前さんの方へも飛脚を立ててみようとしましたけれども、殿様がおっしゃるには、そんな腐った奴を騒ぎ立てて探すには及ばないと、それなりにしてありますが、わたしの身になると、殿様には面目がないし、自分では腹が立つし……」

「そういうわけならば、ひとつ私も探してみましょう。あのお松とても生来が、それほど馬鹿ではなかったはずですから、尋ね出して聞いてみたら何か事情があるかも知れません」

十三

七兵衛が最初この家へ入った時から見え隠れについて来て、今まで路地内や表通りをうろうろしていた一人の紙屑買いが、いま七兵衛が出かけると、またそのあとをついて行きます。

七兵衛は妻恋坂から本郷元町の山岡屋の前まで来る。山岡屋は戸が締まって売家の札が斜めに貼られてある。

暫らく立って見ていると、

「もし旦那」

後ろから呼びかけたのは紙屑買い。

「私ですかえ」

「へえ、左様で」

「何ぞ御用かえ」

「へえ、別に用というわけでもございませんが、旦那様はさいぜんからこの店の模様をごらんになっておりまするが……」

紙屑買いは手拭を畳んで冠った額越しに七兵衛の面を仰ぎ、

「山岡屋のことで何かお聞きになりたいならば、私がよく知っておりますから」

妙な差出口をする男であるが、べつだん懐中から十手が飛び出しそうにもないから、これには何か仔細があるだろうと七兵衛は、

「それは幸い。山岡屋さんは今どこへお引越しになりました」

「それには長いお話があります。旦那様どちらへおいででございますか、なんなら歩きながらお話を致しましょう」

「私は新宿の方へ行きますが」

「それなら私も四谷の方へ参りますから、御一緒にお伴をしながら、山岡屋没落の一代記をお話し申すことに致しましょう」

七兵衛は気味の悪い紙屑買いと思いながらも、まあ何を言い出すか聞くだけ聞いてやろうと、道づれになって歩き出すと、

「今から四年ほど前の夏の盛りのことでございました。或る晩のこと、あの山岡屋へ泥棒が入りましてな」

「ふーむ」

「ちょうど旦那は留守でございました。ところがお内儀さんのお滝というのが、眉の毛を剃り落した若い男を引張り込んでふざけているところへ、その泥棒がお見舞い申したのでございます」

「なるほど」

「その泥棒というのが、ただの物盗りばかりではない、意趣返しに来たものと見えて、内儀さんと若い男をずいぶんこっぴどい目に遭わせて帰りました」

「なるほど」

「とても委しくは申し上げられませんが、早い話がお内儀さんと若い男を素裸にしましてな」

「ふむ」

「それでお前さん、朝になってからの騒ぎというものは御覧じろ、話にも絵にもなりませんわ」

「なるほど」

「それが忽ち評判になる、山岡屋のお内儀さんは強盗に裸にされたという噂がパッとひろがったから、とても居堪れません」

「なるほど」

「そこへ御主人が帰って来た」

「ふむ」

「さあ、家は揉める、なんしろお内儀さんというのが家附きの娘ですから、出るの入るの、摺った揉んだのあげく」

「離縁になったのかな」

「ところが騒ぎの真最中、御亭主殿が急に患いついてポクリと死んでしまいました」

「はあ――て」

「それからお内儀さんというものが捨鉢の大乱痴気で身上は忽ちに滅茶滅茶、家倉は人手に渡る」

「ふむ」

「そのまた買った人がどうしても伸立たない。なんでもあの土蔵からお化けが出るという噂で、あれからもう三代目、こうしていまだに売物に出ていますようなわけで」

「それはまあ、なんにしてもお気の毒……そのお内儀さんというのは今どうしていますな」

「さあ、そいつが聞きもので……しかし私ばかりこうベラベラ喋ってもよいもんですかどうですか。旦那、お前様はいったい山岡屋の何なんでございます」

「お前さんはまた何だえ」

二人は面を見合せて、

「実は旦那」

紙屑買いの言葉が妙に改まって、

「私共の面にはお見覚えがござんすまいが、私共の方には旦那のお面にようく見覚えがござります」

「何だ、私の面に見覚えとは」

「へへ、何を隠しましょう、と大きく出るほどの者ではございませんが、実はあのころ山岡屋に丁稚奉公をしておりました」

「はあ、山岡屋の番頭さんか、それはお見外れ申しました」

「ちょうど、旦那があのお松という子をつれて店前へおいでなすった時、お面をよく見覚えておきました」

「なるほど」

「なるほどだけでは張合いがございません。私もあのドサクサまぎれに店の金を少々持逃げ致しまして、ちっとばかり悪いことをやり、今ではこんな姿に落ちぶれました。旦那をお見かけ申したのは、ほかじゃあございません……」

「何だい」

「もとはと申せば、みんなお前様の蒔いた種といってもよいのでございますから、どうかいくらか恵んでやって下さいまし」

「お前さんも相当の悪になったね」

七兵衛はジロリと紙屑買いの面を見ると、紙屑買いは嫌味な笑い方をして、

「その代り旦那、お前様がつれておいでなすったあのお松という女の子、あの子の行方を私がすっかり喋ってしまいますよ」

「うむ、そうか、ともかくお前さんにこれを上げるから喋れるだけ喋ってごらん」

七兵衛は懐中から取り出した財布をソックリ紙屑買いに手渡しする。

「どうもこりゃ恐れ入りやした。それでは旦那、これから私がその娘さんのいるところへ御案内をしてしまいましょう」

それで二人が神楽坂のところまで来ると、紙屑買いは足が痛い痛いと言い出す。どうやらおれを蒔く気だなと悟った七兵衛は、わざと油断をしていると、ふいと路地を切れて姿を隠す。先廻りをした七兵衛、

「おい大将」

横の方から御膳駕をつく。

「やあ――」

「何がやあだ」

「旦那は足が早い」

「お前さんも早い」

「御冗談を」

「足の痛いのは癒ったかね」

「また痛み出してきました」

「そんなら今のように駈け出してごらん」

「もう御免です」

「いったい、わしをどこへつれて行きなさる」

「山岡屋のお内儀さんのところへ」

「山岡屋のおかみさんはどこにおいでなさる」

「新宿に」

「それじゃあ方角が違わあ」

「また出直しましょう」

「今度は屑屋さん先へおいで」

二人はまた歩み出すと、西の空がポーッと赤くなります。

「あれ、あんなに赤く」

「火事だ」

「新宿の方だね」

「でも、風がないから大したことはありますまい」

言っているうちに火の赤るみはようやく大きくなる。

「たしかに新宿の方角だ、早く行こう」

「足が痛うございます」

七兵衛は紙屑買いの手を取って引摺る。紙屑買いは苦しがって、

「旦那、そう引張っちゃいけません、お前様の足は早過ぎる」

「グズグズ言わずに早く歩きなさい」

「まあ待って下さい。それじゃあ旦那、私は白状しちまいます。お前様のお尋ねなさるお松さんという娘は、女郎に売られちまったんですよ」

「ナニ、女郎に? どこへ」

「それがお前様……」

「早く言え」

七兵衛は紙屑買いの手を捻じ上げると、

「それが遠くで」

「どこだ」

「京都へ売られて行ってます。痛い!」

紙屑買いの自白するところによると、お滝はあの晩、与八を出し抜いてお松を欺き、急にこの男の家へつれて来たとのこと、そこへつれて来ると共にお松を人買いの手に売り渡したこと、その売渡し先は京都の島原であること、わざわざ京都へ売ったのは江戸では事の発覚を怖れたからで、折よく京都の方から買手が来ていたので話が纏まったものだということです。この男の言うことがどのくらいまで信用が置けるか知らないが、前後の話の辻褄はよく合うから七兵衛は、

「さあ、お前の家まで行こう」

「旦那、もうどうか御免なすって」

「お滝という女はお前の家にいるんだろう」

「いいえ、どう致しまして」

「お滝とお前と共謀になってお松を誘拐して売ったに違いない」

「ナニ、そんなことはございません」

「ともかく急げ」

ちょうどこの時、町の角に自身番があったのを紙屑買いが見かけて、突然に大きな声、

「泥棒!」

「ナニ!」

七兵衛が首筋を締め上げると、紙屑買いは苦しい声を張り上げて、

「旦那方、こいつは泥棒でござります、泥棒、泥棒」

自身番に詰めていたもの、今の火事騒ぎで通りかかったもの、こちらへ飛んで来るから七兵衛は、紙屑買いを突き放して人混みの中へ姿を隠してしまいます。

お松がはたして京都へ売られたものならば、七兵衛の足は直ぐに京都へ飛ぶであろう、七兵衛がその気で歩き出した時は、朝江戸を出て、その夜は京都の土を踏むことであろう。

それとは関係なく、机竜之助が落ち行く先もまた京都であるとすれば、宇津木兵馬の追って行くところもまた京都でなければならぬ。

ことに芹沢、近藤、土方ら、新徴組が数を尽して向うところも京都警護の役目である。

十四

青梅街道をトボトボと歩いて行くのは与八です。

背には郁太郎をおぶって、手には風呂敷包を紐で絡げて提げ、足は草鞋を穿いて、歩きながら時々涙をこぼしています。

与八の身になっても意外のことばかりで、お松をつれてこの街道を帰るつもりであったのが、一夜のうちにこんなことに変ってしまったのです。

「おお、与八じゃねえか」

「ああ太郎作さん」

畑の中で仕事をしている知合いの百姓。

「江戸から帰ったのかい」

「うん」

「儲かったかい」

「儲からねえ」

「そりゃどこの子だい、お前の子じゃあるめえ」

「俺の子じゃあねえよ」

「拾いっ子かい」

「拾いっ子だよ」

「ああお土産を持ってるな与八さん、そのお土産をここへ分けて行けよ」

与八は情けない面をして包みに眼を落しながら、

「こりゃお土産じゃねえよ」

この包みにはお浜の遺髪が入っているのです。

「太郎作さん、俺が水車は大丈夫かえ」

「ああ大丈夫だよ」

「水で突ん流されるようなことはなかったかい」

「うん、そんなことはねえ」

「さよなら」

与八はスタスタと出かけます。

御岳の山も沢井あたりの山も大菩薩の方も、眼の前に連なっています。与八はこれを見るとまた悲しくなって、そっと後ろの郁太郎を振返ると、子供は無心に寝入っている。ぼんやり立ち止まっては、提げていたお浜の黒髪を包んだ風呂敷に眼が落ちると、ひとりでに涙がこぼれます。与八は善いことをしては、いつでもそれが悪い結果になる。あれもこれもみんな自分が馬鹿だから。これからは罪滅ぼしに多くの人の追善をはかり、かたわらこの子を育て上げて立派な人にして申しわけを立てねばならぬ。与八には人を怨むという考えがなくて、一も自分が悪い、二も自分が悪いで通って行くのです。

「俺の大先生に拾われたところはここだ」

与八はその昔、自分が拾われたというところへ来て一休み。

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ちちははの めくみもふかき こかはてら

ほとけのちかひ たのもしきかな

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十五

東海道、関

江戸へ百六里二丁

京へ十九里半

伊勢の国鈴鹿峠の坂の下からこっちへ二里半、有名な関の地蔵が六大無碍の錫杖を振翳し給うところを西へ五町ほど、東海道の往還よりは少し引込んだところの、参宮の抜け道へは近い粗末な茶店に、七十ばかりになるお爺さんが火縄をこしらえながら店番をしていると、

「許せ」

上りの客はこの宿で、下りの客は坂の下あたりで宿をきめてしまったと思われる時分、この茶店へ飄然と舞い込んだのは一人の旅の武士であります。

「おいでなさいまし」

老爺は火縄の手を休めて腰を立てると、武士は肩にかけた振分けの荷物を縁台の上に投げ出して、野袴の裾をハタハタと叩き、

「老爺」

「はい」

「汲みたての水を一杯所望」

「はいはい、汲みたての水、よろしゅうございます、うちの井戸は自慢ものの上水でございまして」

老爺が水を汲みに裏へ廻る時、件の武士は縁台に腰を下ろしていたが、頭にいただいた竹皮笠は取らず、細く胴金を入れた大刀を取って傍に置き、伏目になった面を笠の下からのぞくと、沈みきった色。

机竜之助はともかくも、京都をめざしてここまで落ちて来たものです。

老爺が手桶に汲んで来てくれた水を、竹の柄杓で一口飲んで、余水を敷居越しに往還へ投げ捨てて、柄杓を手桶に差し込んでホッと息をつく。

「お茶をいかがでございますな」

老爺が念を押してみると竜之助は首を左右に振る、火鉢をすすめても煙草をふかす様子もないし、詮方なく老爺は再びもとの座に戻って火縄にかかろうとすると、

「草鞋を一足くれぬか」

「はいはい」

吊された手づくりの草鞋一足を引き抜いて、

「峠を三度上り下りしても大丈夫、金の草鞋というのでございます」

老人の癖は自慢である、水を飲ませるにも草鞋を売るにも、すべて自慢がつき纏う。

「それはそうとお武家様、今から草鞋を穿き換えていずれへござらっしゃる」

竜之助の穿き換える足許を見ながら、老爺が不審を打ったのは、この宿で泊るにしても、坂下まで行くにしても、まだ持ちそうな草鞋を捨てるのは早い。

竜之助はその不審に答えなかったから、老爺は手持無沙汰で、

「降らねばいいに」

軒端から天を仰いで独言。

なるほど、今日は朝から陰気臭い日和であった、関の小万の魂魄が、いまだにこの土にとどまって気圧を左右するのか知らん、「与作思えば照る日も曇る」の歌が、陰に響けば雨が降る。

「今夜はこの宿でお泊りが分別でござりましょうがな」

老爺は忠告とも独言ともつかないようなことを言って、また坐り込んで火縄にかかる。

草鞋を穿き終った竜之助は、笠越しに空を見上げているところへ、

「さあ御新造、ここが抜け道の茶屋で」

威勢よく店前へ着いた一挺の駕籠、垂を上げると一人の女。

「お浜!」

竜之助は僅かにその名を歯の外には洩らさなかったけれども、この女の名が浜でなければ不思議である。それとも竜之助の眼には、すべての女の面がお浜のそれに見えるのかも知れません。

「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」

竜之助は眼をつぶってその姿を見まいとした、耳を抑えてその声を聞くまいとした。あれもこれも生き写し。

女は駕籠から出て、

「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」

と言いながら帯の間を探ってみて、ハッと面の色を変え、慌しく懐や袂に手を入れて、

「まあどうしましょう、ちょっと駕籠の中を」

隅々を調べてみて当惑の色はいよいよ深く、

「駕籠屋さん、済みませんけれど」

二人の駕籠屋は突立ったなり、左右から女の様子をながめていたが、

「何だえ御新造」

「連れの人がほどなくこれへ見えますから、少しのあいだ待っていて下さいな」

「待っていろとおっしゃるのは?」

「たしかに持っていたはずの紙入が見えませぬ故」

「何だ、紙入がねえと?」

女の面をジロジロと見て、傍に敷き放してあった蓙の上に尻を乗せたのは、この宿では滅多に見かけないが桑名から参宮の道あたりへかけてはかなりに知られた黒坂という悪でしたから、茶店の老爺は気を揉んでいると、

「そいつは大変だ、紛失物をそのままにしておいたんじゃあ、この黒坂の面が立たねえ、悪くすると雲助仲間の名折れになるのだ、なあ相棒」

「うん、そうだ」

「それじゃあ、もういちばん駕籠に乗っておもれえ申して、お前様に頼まれたところからここへ来るまでの道を、もう一ぺんようく見きわめた上、宿役へお届け申すとしよう。相棒、時の災難だ、もう一肩貸してくんねえ」

「合点だ」

「ああもし、それほどのものではありませぬ、ホンの僅かばかりですから……どうも困りましたねえ」

「お前さんも困るだろうが、こっちも商売の疵になる、さあ、どうかお乗りなすっておくんなさい」

手を取って無理にも駕籠へ押し込もうとするから、女は困じ果てて、

「それでは駕丁さん、こうしましょう……」

艶々しい頭髪の中から抜き取ったのが、四寸ばかりの銀の平打の簪。これが窮したあげくの思案と見えて、

「これを取っておいて下さい」

「そんな物は要らねえ」

黒坂は平打の簪をグッとひったくって、

「さあ、もう一ぺん駕籠に乗り直しておくんなさいまし」

「駕丁さん、駕丁さん」

火縄の老爺は見兼ねて膝を叩いて立ち上って来ました。

「まあまあ」

割って出たけれども、さしあたり仲裁の言葉に行詰って、

「いいかげんにするがいいやな」

「何がいいかげんだい、爺さん」

「女衆にあんまり言いがかりを附けねえことだ」

「爺さん、言いがかりというのはどっちのことだ、引込んでいな」

「あれ、どうしましょう」

「よ、もう一ぺん乗り直しておくんなさいまし」

女の腕を押えて、片手は帯のところへかけて押せば、よろよろと駕籠の縁へ押しつけられます。

「あれ、堪忍して下さい」

こうなると机竜之助、たとえ血も涙も涸れきった上のこととは言え、なんとか言葉をかけねばならぬ場合に立至ったのです。

「駕丁――駕丁」

黒坂が振返って見ると、今まで気がつかなかった旅の武士が一人、笠越しにじっとこっちを見据えています。

「何ぞ御用ですか」

「駕籠賃は拙者が立換えるによってこれへ出ろ」

「へえ」

連れというのはこの武士のことであろうかと、黒坂はそう思って竜之助の傍までやって来て、

「ナニ、この御新造がおかしなことを言うもんですから」

敷居の上へ腰を卸して煙草入れを引抜き、太い煙管を取り出して口にくわえ、叺を横にしてはたいてみる。

「いくらになる」

「へえ、亀山から一里半の丁場でござい」

「よろしい」

竜之助は財布を取り出して、小銭百文をパラリと縁台の蓙の上へ投げ出して、その取るに任せると、黒坂は横目で、

「有難うございます」

その小銭はまだ手にだも触れないで、女の方を流し目に見て、

「御新造、酒手の方をいくらか……旦那に話してみていただきてえもんでございます」

女もまたこの時、竜之助のあることを初めて知って、いかにも気の毒そうに、

「そんな無理なことを言うものではありませぬ」

「無理とはどっちの言うことだ御新造、いったいお前様は亀山のどこからおいでなされた、お前様の駕籠に乗り方があんまりあわただしいから、ずいぶん酒手を貰う筋があると睨んだのに何が無理でえ」

「まあ、どうしましょう」

女はわーっと泣き出すと、竜之助はすっくと立って物も言わずに黒坂の横面をピシーリ。

「あ痛ッ」

黒坂は何としたか一度ひっくり返って、その次に居直るかと思えばそうでもなく、雲を霞と逃げて行きます。

黒坂の逃げたのは、竜之助を巡廻の役人とでも思ったのか、それとも敵わじと見て仲間を呼んで仕返しに来るつもりでもあろうか。

「なんともお礼の申上げ様がござりませぬ」

女は乱れた衣紋を繕うて竜之助の前に心からの感謝を捧げる。

「お怪我はござらぬか」

「いいえ、別段に怪我は致しませねど……あなた様がおいで下さらねば、どのようになりますることやら」

「悪い駕丁どもだ」

竜之助は再び縁台に腰を下ろす。礼を言う女の面、潤沢な髪を島田に結うた具合、眼つきに人を引きつけるところ、首筋から背へかけてすっきりした……どう見てもお浜です。

「おおお豊さん、これに見えてか、えろうわたしは遅れましたわいな」

こう言いながらこの場へ駈け込むようにしたのは、旅の姿はしているがつやつやしい優男。

「真さん、わたしはひどい目に遭いましたわいな」

女は男の姿を見かけるとオロオロと泣きかけたので、

「お前は泣いている、まあ、どうしたものじゃいな」

男は近寄って女の背を撫で、髪の毛までも掻き上げてやり、他の見る眼も親切にいたわります。

「悪い駕籠屋に難題をかけられて危ない目に遭うところを、これにおいでのお武家様に助けていただきました」

「おお悪い駕籠屋に……わしもそれを心配していた……これはまあ、いずれのお方様やら、御親切に」

若い男は竜之助の方に向き直り、倉卒の場合ながら折屈みも至って丁寧であります。

この若い男の語るところによれば、男は京都の者で女は亀山、二人は親戚の間柄で、一緒に伊勢参宮をするとて、この宿で待ち合わせる約束であったとのこと。

竜之助は、二人がこもごも申し述べるお礼の言葉を聞き流して、

「おのおの方は早くここをお引取りなさい、また悪者が立帰ると事が面倒じゃ」

「左様ならば」

男は女を促して、竜之助には改めて慇懃にお辞儀をして、手を取り合わぬばかりに欣々として立ち行く二人の後ろ影を、机竜之助は暫らく見送るともなく見送っておりました。

「おお、要らざることに暇取った、老爺、茶代を置く」

十六

坂の下へ着いた時分には、坂も曇れば鈴鹿も曇る、はたしてポツリポツリと涙雨です。

この雨が峠へかかれば雪になる。雨になり雪にならずとも夜になるにはきまっている。鬼の棲むちょう鈴鹿の山を、ことさらに夜になって越えなくとも、坂の下には大竹小竹といって、間口十八間、奥行これに叶う名代の旅籠屋もあるのだから、竜之助一人を泊めて狭しとするでもなかろうに、他目もふらず、とうとう坂の下の宿を通り越してしまいました。これから峠へかかって三里、茶屋も宿屋もないものと思わねばならぬ。さては夜道をするつもりで草鞋を穿き替えたものと見える。

「雨か」

竜之助が立ち止まって天を仰いだ時は、鈴鹿の山も関の雄山も一帯に夜と雨とに包まれて、行手に鬱蒼と一叢の杉の木立、巨人の姿に盛り上って、その中からチラチラと燈明の光が洩れて来る。

身はいつか鈴鹿明神の鳥居の前から遠からぬところに立っていたのであります。

「ああ雨か」

この雨は、竜之助が坂の下の宿に入る時分から降り出した雨です。いま見れば笠も合羽もビッショリ、それを気づかず、ここまで来て「雨か」は甚だ遅い。

「あの客人はどこへ行かんすやら」

大竹小竹の宿引が不審の眼をったのも気がつかず、一文字にここまで来て、

「雨では山越しも困る」

鈴鹿明神の森の中を見込むと、鳥居の右へ向っては峠の山道、鈴鹿御前の社と内外宮とが棟を並べた中に、春日形の大燈籠の光も雨に濡れている。左手にはそそり立つ大杉一幹、その下に愛宕の社、続いて宮司の構。竜之助はそのいずれへも行かず、正面から鳥居を潜って杉の大木の下の石段を踏む。引返したとていくらの道でもあるまいものを。尋常の旅籠に着いて、軟らかい夜具を被って、穏やかに夢を結んだらよかりそうなものを。

身に火のついたものは井戸の中へも飛び込む。竜之助は心頭に燃えさかる火を消さんがために、わざと淋しいところ怖ろしいところを求めて行くのか知らん。闇をたどって忍びやかに鈴鹿明神の頓宮に入りこんだ竜之助は、とりあえず荷物を抛り出して、革袋の中から火打道具と蝋燭と懐中付木とを探って、火をつけ床に立てて、濡れた笠と合羽を脱ぎ捨てて、また革袋から小提灯を取り出し、床に立てた蝋燭をそれにうつして一通り社殿の中を見廻しました。

荷物を枕にしてみたが眠れない。

お浜によう似た女のことが、どうも眼先にちらついてならぬ。若い夫婦が二見ヶ浦のあたりを行く、それがお浜と自分のようだ、おお、郁太郎もおるわい。

とにもかくにも、お浜は情のある女であった。不足を唱えたのはああいう勝気な女の常で、そのくせ、よくあの暮しに辛抱して世話女房をつとめ了せたものだ……情に強いようで実はきわめて脆い女である、自分を誤ったのがあの女の罪か、あの女を誤らせたのが自分の罪か。

今となって物の哀れに動かされると、竜之助も人が恋しくなる、眼が冴えて眠れない。

外では雨にまじる風の音、稲荷の滝の音が遠く攻鼓のように響いて来る。と、その中に人の鼾。

「はて、人の鼾がするようじゃ」

竜之助は小提灯の光を揚げて見ると、四隅のいずれにも鼾の主は見えないで、見上げるところに大きな額、流るる如き筆勢で、

鈴鹿山、浮世をよそに振りすてて

いかになり行く我身なるらん

これはこれ西行法師の歌でありました。

十七

「お前にそう言われると、わしはどのようにしてよいやら」

床の柱に凭れて若い男は思案に暮れている様子を、それと向き合って女はなだめるように、

「どうと言うて真さん、今宵はここへ泊って、明日はおとなしゅうお帰りなさるがお前のため、わたしのためでござんしょう」

「それが成るくらいなら……わしはこうしてここまで来はせぬわいな」

「そんなら、どうしようと言うの」

「それはお前の心を聞いての上」

「わたしの心はいま言うた通り」

「では、わしに京都へ帰れと言うの」

「それがおたがいの上分別」

「やと言うて、わしはもう京都へは帰られぬ」

「そんな駄々を言うものではありませぬ」

「いやいやお前は何も知らぬ、わしが今日の身の上を知らぬ」

「今日の身の上というて、お前はやはり亀岡屋の跡を取る安楽な身分ではないか」

「それが違います、今の亀岡屋はお前の思うているような亀岡屋ではありやせぬ、わしの家は先月の十六日の夜に盗賊が入って……」

「あの、盗賊が?」

「軍用金じゃというて家の金銀は申すに及ばず、公儀よりお預かりの大切な品までもみんな奪って行きました」

「それは、ついぞ初めて聞きました」

「それに、わしが前からの身持ち、多分の使い込みが一時に現われて、ほんにもう立つ瀬がない」

「そんなこととは少しも知りませんでした」

「亀岡屋は丸つぶれ……父母へなんともお気の毒、それに不憫なは妹のこと」

「お雪さんが……」

「あ、島原へ身を売ってしまったわい」

男はホロホロと涙をこぼします。

「まあ、お雪さんが島原へ……」

女は驚いて、

「も一度くわしく話して下さい、お雪さまはもう勤めにお出なされたか、島原は何という家で、それはお母様も御承知のことか」

「このうえ尋ねてもらうまい……ともかくそれで、わしが京へ帰れぬわけを察してたも」

男は腕を深く組んで、しゃくり上げているようです。

竜之助とは火縄の茶屋で別れて、この若い男女は参宮に行くでもないし、地蔵堂に近い宿屋の離れ座敷に、こうして打明話をし合って泣いている。峠で竜之助を苦しめた雨は、ここの中庭の植込をも物柔かに濡らしている。関の小万の涙雨は、どちらへ降っても人に物を思わせると見えます。

「どうしましょうねえ」

今までなだめ気味であった女の方が、事情を聞いてから、いっそう力を落したようです。

「せめて妹の身を救うてやりたいが」

暫くたって男の声。外では雨がじめじめ降って、夕べを告げ渡る宝蔵寺の鐘の音に、たったいま女中の点して行った燈の影がゆらゆらと揺れる。女はふと思い出したように、庭の木立に濺ぐ雨を見て、

「日が暮れました、今晩は帰らねば」

素振は急に落着かなくなる。

「帰る?」

男は屹と首をもたげて、

「わしを一人置いてお前は帰るのか」

「悪く取ってはいけませぬ、わたしはもう前のような身では……」

「はあ、それではかねて噂のあったように、あの、お前の縁組みが……」

「そんなことはないが、今宵はどうぞ帰して下さい、そしてわたしにも考えることがあります故、明日の朝は、きっと出直して参りますから」

「もう日も暮れたに、一里半の道を……またさいぜんのような悪者が出たら」

「と言うて、帰らねばわたしの身が立たず。駕籠は宿に頼んで性の知れた者を雇うて行きますから」

「それでは強ってとめても悪い、帰るならお帰り」

「どうぞ、そうして下さい、その代り明朝は」

男は返事をしない、女は済まないような気分で立ち上りました。

女の亀山へ帰るというのを、男は涙を隠して廊下まで見送り、引返して、がったりと倒れるように、

「ああ、豊さんまでが……」

と言って、またハラハラ。

亀山へ帰ると言うて出たお豊は、しばらくするとなぜか戻って来ました。廊下を忍び足に、もとの室のところまで来ると、障子の外に立って中の動静に気を配るようでしたが、

「これまあ、真さん、お前は――」

障子押しあけ、飛びついた男の手には白刃がある。男は脇差を抜いて咽喉へ突き立てるところでした。

「こんなこともあろうかと、胸が騒いでならぬ故、立戻って来ましたわいな、さあ放して」

「豊さん……どうでもわしは死なねば……」

「そんな気の弱いことがありますものか、遺書まで書いて、危ないこと、危ないこと」

女は男の手から脇差をもぎ取って、

「いまお前が死んだら、親御たちや妹さんはどうします。わたしもこれでは帰れない、帰ることは止めにします。真さん、泊って行きます、今宵は泊めてもらいましょう、ゆっくり打明けて相談をしましょう、ね」

お豊は真三郎と一夜を語り明かし、どう相談が纏まったものか、その翌朝は二挺の駕籠を並べて、亀山へは帰らずに、ちょうど竜之助が大津へ着いた頃、男女は鈴鹿峠の頂を越えたものでありました。お豊の実家で娘の姿が見えぬとて、親たちもお豊の婿になるべき人も血眼になって、八方へ飛ばした人が、関と坂下へ来た時分には、男女の姿は土山にも石部にも見えませんでした。

Chapter 1 of 1