Chapter 1 of 17

昨日も、今日も、竜之助は大津の宿屋を動かない。

京都までは僅か三里、ゆっくりとここで疲れを休まして行くつもりか。

今日も、日が暮れた。床の間を枕にして竜之助は横になって、そこに投げ出してあった小さな本を取り上げて見るとはなしに見てゆくうちに、隣座敷へ客が来たようです。

「どうぞ、これへ」

女中の案内だけが聞えて、客の声は聞えないが、畳ざわりから考えると一人ではないようです。

「お風呂が明いておりまする」

「ああ左様か、それではお前、さきにお入り」

「わたしはあとでようござんす」

「御一緒にお入りなされませ」

客は若い男女の声、それが聞いたことのあるようなので、竜之助は本を伏せる。

隣へ来た客というのは、火縄の茶店で竜之助と別れた男女。竜之助は再び耳を傾くるまでもなくそれと悟って、そうして奇妙な心持がしました。

「参宮の帰りにしてはあまり早い」

今宵はあまり客も混雑せず、大寺にでも泊ったような気持。静かにしていると、襖を洩れて聞ゆる男女の小声が、竜之助の耳に入ります。

「明日は京都へ着きますなあ」

「京都へ着いたとて……」

男は歎息の声。

「わたしは、早うお雪さんに会いたい」

これは、お浜に似た女の声。

「妹に会うたからとて、どうなるものではない……ああ、わしはいっそここで死にたい」

「ほんとに、死んでしもうた方が……」

ここで、また話が途切れます。

竜之助思うよう、やっぱり、これは無分別な若い者共じゃ。

「わたしじゃとて、もう亀山へは帰れず」

「わしも京都へは帰れず」

「死んでしまおう、死んでしまおう」

この声は少し甲を帯びて高かった。竜之助がこちらにあることを知らないものだから。

男は死んでしまおうと言う、女がそれに異議を唱えないのはそれを黙認している証拠で、この男女の相談は心中というところへ落ち行くのが、ありありとわかります。

「それでは、お前」

「真さん、わたしは、もう覚悟をきめました」

「済まぬ、済まぬ、お前には済みませぬ」

「いいえ」

「この世の納めの盃」

またここで話が途切れて、暫らくは啜り泣きの声。

「さあ、お前、書き遺すことはないか」

「はい、実家へ宛て、一筆」

「落着いて、見苦しからぬようにな」

「はい」

矢立をパチンとあけて、紙をスラスラと展げる、その音まで鮮やかに響いて来るのです。竜之助は男女の挙動を手にとるように洩れ聞いて、どういうものか、これを哀れむ気が起らなかった。

過ぐる時、少しばかりの危難に立合ってやったのにさえ、自分に対しては再生の恩のように礼を述べた女が、ここでは、この男のために喜んで死のうという。それほどに粗末な命であったのか。死を許す深い仲を、傍で見て嫉むのではない、死の運命に落ち行く男女の粗末な命を嘲るのであろう。助けらるべき人を見殺しにする、そこに一種の痛快な感じを以て、竜之助は人を殺したあとで見する冷笑を浮べて寝ころんでいるのです。

「死ね、死ね、死にたい奴は勝手に死ぬがいい」

心の中では、こんなに叫んでいる。それでもなんだか、後からついて来るものがあるようです。

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