Chapter 1 of 12

お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。

「某は高坂弾正と申して、信玄公被管の内にて一の臆病者也、仔細は下々にて童子どものざれごとに、保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅とて……」

それは巻の二の品の第五を、はじめから、お銀様はスラスラと読みました。

竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み了って第七にかかろうとする時分に、

「有難う、もうよろしい」

「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」

二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。

「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」

柱に凭れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。

「何の花」

「椿の花」

お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄ぶようにしていました。

「たあいもない」

竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。

さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの花活も何もありません。

「お銀」

竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己が妻の名を呼ぶような呼び方であります。

「はい」

お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。

けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。

「あなた」

お銀様は椿の花を面に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。

「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」

お銀様はクルクルと、椿の花を指先で操りました。

竜之助は返事をしません。けれどもお銀様はそれで満足しました。

「生けておきたいけれども、何もございませんもの」

お銀様は、わざとらしくその花を持ち扱って、机の上や室の隅などを見廻しました。この一間に仏壇があることは、お銀様も前から知っていました。けれども、この花は仏に捧げようと思って摘んで来た花ではありません。ところが、持余し気味になってみると、そこがこの花の自然の納まり場所であるらしい。

お銀様はその一花二葉の椿を持って、仏壇の扉をあけた時に、まだそんなに古くはない白木の位牌がたった一つだけ、薄暗いところに安置されてあるのを見ました。位牌が古くないだけにその文字も、骨を折らずに読むことができます。

「悪女大姉」

と読んでお銀様は、手に持っていた椿の花を取落しました。

「悪女大姉」の戒名は、尋常の戒名ではありません。

不貞の女をもなお且つ貞女にし、不孝の子をもなお孝子として、彼方の世界へ送るのが人情でもあり、回向でもあるべきに、これはあまりに執念の残る戒名であります。

何の怨みあってその近親の人が、この位牌を祀るのだかその気が知れないと思いました。また何の意趣があって、引導の坊さんがこの戒名を択んだのだか、その気も知れないと思いました。

それがお銀様にとっては、単に文字の示す悪い意味の不快な感じだけでは留まりませんでした。悪女! お銀様はむらむらとして、ここにまで自分を見せつけられる憤りから忍ぶことができないもののようです。けれども、この位牌はお銀様に見せつけるために置かれたものでないことは、その木の肌を見ても、墨の色を見てもわかることであります。

お銀様がここへ来るずっと前から、たった一つ、こうしてここに置かれてあったのだということも、いかに逞しい邪推を以て見てもそれは疑えないのであります。

お銀様は、悪女の文字から来る不快と悪感とをこらえて、そのことは竜之助に向って一言も言いません。せっかくの椿の花を拾い上げて、わざと後向きに花立へ差して、仏壇の扉を締めてしまいました。

その晩のこと、お銀様は竜之助を慰めるために話の種の一つとして、ふと、このことを言い出す気になって、

「そこにお仏壇がありまする、その中に、妙な戒名を書いたお位牌がたった一つだけ入れてありました、何のつもりで、あんな戒名をつけたのだか、わたしにはどうしてもわかりませぬ」

「何という戒名」

「悪女大姉というのでございます」

「悪女大姉? どういう文字が書いてあります」

「悪というのは善悪の悪でございます、女というのは女という字」

「なるほど、悪女大姉、それは妙な戒名じゃ」

「ほんとにいやな戒名ではござんせぬか」

「戒名には、つとめて有難がりそうな文字をつけるのに」

「それが悪女とはどうでございます、死んだ後まで、悪女と位牌に書かれる女は、よほどの悪いことをしたのでございましょう」

「誰かの悪戯だろう」

「いいえ、そうではございませぬ、立派な位牌にその通り記してあるのでございます」

「はて」

「もしわが子ならば親が無言ってはおりますまい、妻ならば夫たる人が、悪女と戒名をつけられて無言っていよう道理がございませぬ」

「どうも解せぬ、読み違えではないか」

「いいえ」

「その悪女の悪という字が、たとえば慈とか悲とかいう文字が、墨のかげんでそう見えるのではないか」

「そうではございませぬ」

「慈女大姉、悲女大姉、その辺ならばありそうな戒名だが、好んで悪女と附ける者はなかろう、それは御身の読み違えに相違ない」

「いいえ、確かに」

お銀様は、確かに自分の眼の間違いでないことを主張したけれども、そう言われてみると、懸念が起りました。

「そんならば、もう一度見て参りましょう」

お銀様はそれを曖昧に済ますことができない性質です。立って仏壇をあけて見ましたけれども、仏壇の中は暗くありました。

「それごらんあそばせ、悪女」

取り出してよいものか悪いものか懸念をしながら、お銀様は自説の誤らないことを保証するために、行燈の光までその位牌を持ち出しました。

「確かに悪女? そうして裏には……」

竜之助に言われて、お銀様が位牌の裏を返して見ると、そこには「二十一、酉の女」と記してありました。

その翌朝、竜之助は、お銀様に手を引かれて、小泉家の裏山へ上りました。

径を辿って丘陵の上まで来ると、そこに思いがけなく墓地がありました。林に囲まれた芝地の広い間には、多くの石塔といくつかの土饅頭が築かれてありました。墓地ではあったけれども、そこは日当りがよくて眺めがよい。そこから眺めると目の下に、笛吹川沿岸の峡東の村々が手に取るように見えます。その笛吹川沿岸の村々を隔てて、甲武信ヶ岳から例の大菩薩嶺、小金沢、笹子、御坂、富士の方までが、前面に大屏風をめぐらしたように重なっています。それらの山々は雲を被っているのもあれば、雪をいただいているのもあります。

お銀様は、その山岳の重畳と風景の展望に、心を躍らせて眺め入りました。

山岳にも河川にも用のない机竜之助は、日当りのよいことが何より結構で、お銀様が風景に見恍れている時に、竜之助はよい気持であたりの芝生の上へ腰を卸して、日の光を真面に浴びている。

「あなた、そこはお墓でございますよ」

お銀様に言われて、そうかと思ったけれども、敢て立とうとはしません。

竜之助の腰を卸していたところは墓に違いありません。ほかの墓とは別に、孤島のように少しばかり土を盛り上げたところに、無縫塔のような形をした高さ一尺ばかりの石が一つ置いてあるだけでありました。その前には、竹の花立があったけれど、誰も香花を手向けた様子は見えず、腐りかけた雨水がいっぱいに溜っているだけです。

竜之助が動かないから、お銀様もまた、その近いところへ蹲まりました。ここは誰も人の来る憂えのないところです。天の日は二人ばかりのために照らし、地の上は二人ばかりを載せているもののようです。

あたりの林も静かでありました。丸腰で来た竜之助は、ついにそこへゴロリと横になって肱枕をしてしまいました。竜之助の横になって肱枕をしたその頭のあたりがちょうど、無縫塔の形をした石塔のあるところであります。

それだから竜之助は、墓を枕にして寝ているもののようです。寝ている竜之助はそれをなんとも思ってはいないらしいが、傍で見たお銀様は、快い形と見ることができません。この人に墓を枕にして眠らせるということが、好ましいことではありません。それとも知らずに竜之助は、

「こんなところで死にたいな」

と言いました。けれどもそれは嘘です。竜之助がこう言ったのは、それは、あんまり日の当りがよくて、そこに足腰をゆるゆると伸ばした心持が譬え様がないから、そう言ったのだけれど、お銀様は、やはりその言葉を不吉の意味があるもののように聞いて、

「石になっては詰りませぬ」

お銀様はこう言いながら、ほとんど二人並んで寝るように片手を伸べて、竜之助の頭の石塔の石を撫でました。石を撫でながら、なにげなく石の裏を見ると、そこに、「二十一、酉の女の墓」と小さく刻んであるのが、図らず眼に触れてゾッとしました。その気になって見れば、この石塔の前面には何の文字もなくて、裏にだけ遠慮をしたもののように「二十一、酉の女の墓」と刻んであるのが異様です。なお他にある総ての墓とは、ほとんど除物のようにされて、この墓だけが一つ、ここに置かれてあることも異様です。

それよりもまた、お銀様の胸を打ったのは、昨夜調べてみた「悪女大姉」の位牌の裏の文字が、これと同じことの「二十一、酉の女」の文字であったことです。

この文字を見た時にお銀様は、蛇を踏んだような心持になりました。寝ていた机竜之助は、何を思ったか、むっくりと頭を上げて起き直り、

「お銀どの」

「はい」

「あの、ここは何村というのであったかな」

「ここは東山梨の八幡村」

「東山梨の八幡村?」

「八幡村の大字は江曾原と申すところでございます」

「八幡村の江曾原!」

竜之助がいま改めてそれを聞くのはあまりに事が改まり過ぎる。ここへ来てからも相当の日数があるのだから、仮りにも現在の己れのいる土地の名前を記憶しておらぬということはあるまい。けれどもこの人は、初めてそれを聞くもののように、念を押して尋ねて再びそれを繰返しました。

「して、いま我々が厄介になっている家の主人の名は」

「小泉と申します」

「小泉……それに違いないか」

「いまさら、そのような御念を」

「八幡村の小泉家――そこへ、拙者も、お前も、今まで世話になっていたのか」

「それがどうかなさいましたか」

「小泉の主人というのは、拙者の身の上も、お前の身の上もみんな承知で世話をしているのか」

「いいえ、わたしの身の上は知っておりますけれど、あなたのことは少しも」

「それと知らずにこうして、隠して置いてくれるのか」

「左様でございます」

「お銀どの、そなたの家は甲州でも聞えた大家であるそうじゃ」

「改めて左様なことをお聞きになりますのは?」

「お前はここからその実家へ帰ってくれ」

「まあ、何をおっしゃいます」

「小泉の主人に頼んで、実家へ詫びをして帰るがよい、今のうちに」

「わたしに帰れとおっしゃるのでございますか、わたし一人を有野村へ帰してしまおうとなさるのでございますか」

「生命が惜しいと思うならば、一刻も早く帰るがよい、もし生命が惜しくないならば……それにしても帰るがよい」

「何のことやらさっぱりわかりませぬ」

「わからないうちに帰るがよい、危ないことじゃ、これから先へ行くと、お前も悪女になる」

「悪女とは?」

「悪女大姉、二十一、酉の女がいま思い当ったよ」

「あなたのお言葉が、いよいよわたしにはわからなくなりました」

「わかるまい、悪女大姉、二十一、酉の女というのは、拙者にも今までわからなかった」

「あれはどうしたわけなのでございます」

「あれはな」

「はい」

「あれは、人に殺された女よ」

「かわいそうに。そうしてどんな悪いことをしましたの」

「お前がしたような悪いことをした」

「妾がしたような悪いこととは?」

「男の魂を取って、それを自分のものにしようとしたからだ」

「妾はそんなことは致しませぬ」

「いまに思い知る時が来る」

竜之助が石塔の頭へ手をかけて立ち上った時に、どこからともなく一陣の風が吹き上げて来ました。その風が、颶風のように颯と四辺の枯葉を捲き上げました。紛乱として舞い上る枯葉の中に立った竜之助は、今その墓から出て来たもののようであります。

「なんだか、わたしは怖ろしうございます」

日はかがやいているのに、お銀様はその周囲が鉛のように暗くなることを感じました。

Chapter 1 of 12