Chapter 1 of 13
Chapter 1
前文に於て墨流しの現象の物理学的研究を紹介した。その研究では墨を磨る時の水の成分のことは詳しく調べてあったが、用いた硯は普通市販の一定の硯に限られていた。それで寺田先生は次に、色々の墨を色々の硯で磨った時に、墨汁の膠質的性質が如何に変わるかという問題にとりかかられたのである。
墨汁の色々の性質特に墨色などが、墨の良否によるばかりでなく、硯の種類によっても著しく左右されるということは、画家及び書家の間では常識となっている。古来名硯と称せられるものの色々の特性については、伝説的な説明が沢山ついているが、それらの主張は主として古代の支那文献から伝わったものである。例えば良い硯で墨を磨ると、ちょうど熱した銅の上で蝋を磨るような手触りであるというような説明がある。従来の大抵の記載はこの種の主観的なものが多いのであるが、この実験で墨と硯との間の摩擦係数、墨のおり方、粒子の大きさなどを調べて見ると、墨汁の物理的性質は硯によってもまた著しく異なるということが、客観的に実証されたのであった。