牛を以て神を祭るは我国の古俗
牛が我国に輸入された時代は、紀年的に知ることは出来ぬが、その分布は案外に早かったもののようである。これは農耕にとり欠くことが出来なかった為である。そして、神武紀には、牛酒を以て軍族をねぎらいし記事が見え、皇極朝の元年には『村々の祝部の所教のまゝに或は牛馬を殺して、諸社の神を祭る』迄になった。この牛馬を殺して諸神を祭るのは、我国の習礼ではなくして、外国の模倣であると説く学者もあるが、必らずしもそうばかりとは云えぬようである。孝徳朝に善那が牛乳を献じたので姓を和薬使と賜い乳牛院を建てたことは著聞している。天武朝になり牛馬等の家畜を食うことを禁じたのは、仏教の影響であって我国の古俗ではない。昔の神道学者が、けものとけだものとを区別して、前者は野獣ゆえ食うてよく、後者は家畜とて食うはわるしと云われたのは無意味であって、古く我国では獣畜の差なく食した。神々もまた同じで、毛の柔物でも毛の荒物でも聞食したのである。奈良朝まで時代が降ると牛の記録も相当にあり、日本霊異記には牛五十頭を、東大寺に寄進するなどと見えているので、その需要の多かったことも知られる。しかし今の問題は牛の需要とか分布とか云う事ではなくして、祭儀に呪術に牛が如何に利用されたかという点にある。これについて斎藤彦麿は、左の如く述べている。
神祇正道に於ては、牛馬犬猿は人に畜はれ、人の用をなす故に、継ぎて産死の穢あり(中略)。後漢書に、以レ牛祭レ神とあり、広洲記に殺レ牛取レ血、和レ泥塗二右手背一祀とあり、これら神も真の神にあらず、牛馬も穢とせざるなり。天竺にては、雨を祈るに以二牛糞一塗二場地一、以二牛乳酪一食二法師一とあり(中略)。いつの程にか異国の風義うつりつらん、皇極天皇紀に殺二牛馬一祭二諸社神一云々。桓武天皇紀に断三百性殺レ牛用祭二漢神一云々。自然と悪風儀うつるなり(傍廂後篇)。
牛が世界的に崇拝されていることが、ここにも証明されているが、我国で牛を殺して神を祭ることが異国の風の移入とのみいうのはどうかと思う。古語拾遺に『大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ』たことや、さらに、『宜しく牛の宍を以て、溝の口に置かせた』ことがあり、なお播磨国風土記の賀毛郡雲潤里の条に丹津日子神が『吾れ宍ノ血を以て佃る故に、河の水を欲せず』とあるは、即ち牛の血液に稲種を浸すことで、以上は牛の肉や血を農耕に用いた呪術であって、ともに我国固有の習俗と見るべきである。
牛の腹中から出る牛玉が、牛玉宝印とまで発展し、それが熊野の烏と道連れとなり、誓詞に伴う民俗については、南方熊楠氏の考証が発表されているので略すが(南方随筆)、それによると牛は宰判するという信仰から来たとあるが、これこそ異国の風の移ったものとしか考えられぬ。