Chapter 1 of 9

「あら松根様の若様」

「――――」

恐ろしい魅力のある声を浴せられて、黙って振り返ったのは、年の頃二十三四、色の浅黒い、少し沈鬱な感じですが、何となく深味のある男でした。

不意に呼びかけられて、右手に編笠を傾げるうちにも、左手は一刀の鯉口を、こう栂指で押えていようといった嗜みは、敵持ちか、要心深さがさせる業か、とに角容易ならぬ心掛の若者です。

「余吾之介様――ではいらっしゃいませんか」

「お前は?」

「秋、乳母の元の娘の秋でございます」

嫣然とした年増、隔てもなくニッコリすると、桃色の愛嬌が、その辺中へまきちらされそうな女でした。

余吾之介はその魍魎をかきのけるように、思わず二三歩引き退きました。精々二十二三、年増といっても、余吾之介より一つ二つ若いでしょう、その頃から流行りはじめた派手な模様の幅の存分に広い帯を少し低くしめて、詰め袖の萌えでたような鮮やかな草色を重ね、片頬をもたらせるように品を作ると、ほのかな靨が、凝脂の中にトロリと渦をまきます。

「お、なるほどお秋か、久しぶりであったな」

「お詣りでいらっしゃいましたか」

浅草観音の仁王門をでたところへ声をかけられたのですから、これは間違いもなくお詣りです、まだ奥山に見世物も玉乗りもなかった頃――

「左様」

「お立寄り下さいませ、秋の家へ」

「さア」

「母がどんなに喜びますでしょう」

「この近所か」

「ツイ其処、ほら、見えるでしょう」

少しぞんざいな口をきいて、お秋はよりそうように伝法院の裏の方を指しました。桃色真珠のように、夕陽に透いてキラキラと光る指を見ると、目当ての家などは何んでもよかったのでしょう。

二人はそのまま田原町から蛇骨長屋へ、言葉少なにつれだって行きました。

よく磨いた格子のなかには、御神灯がブラ下って、居間の長火鉢の上には、三味線が二挺――それを見ると、余吾之介は二の足をふみましたが、此処まで来るとお秋の方が帰してはくれません。

お秋はその頃江戸の町に散在していた、町芸者の一人だったのです。

「元は?」

座もきまらぬに、余吾之介は、うろうろ四方を見廻しております。

「母はあれにおります、余吾之介様」

指した方には、ささやかな仏壇。

「何? 死んだのか」

「え、達者でいるとは申しませんでした、待っているとは申上げましたが、ホ、ホ」

「それは」

余吾之介はそれっきり苦笑いを噛み殺しました。騙されて此処までつれこまれたには相違ありませんが、お秋の悪戯っ娘らしい狡そうな忍び笑いを見ると、腹をたてるのも馬鹿馬鹿しかったのです。

「それでも母は、死ぬまで申し暮しておりました。余吾之介様はお見かけは優しいが、お家中でも名誉のお腕前だから、キット悪人共に思い知らせて下さるに違いない――と」

「――――」

「最上のお家を取潰したのも、御先代が怪しい御最期を遂げられたのも、みんな山野辺右衛門様をはじめ、楯岡などの仕業に相違ない、お家の潰れるのも構わず公儀に楯をついて、高野山に登った方もあるが、江戸に踏みとどまって、日頃取込んだ不義の財で、栄耀の限りを尽しておる者も少くない。御父上松根備前様の思召を継いで、余吾之介様は屹度あの悪人共を退治して下さるであろう、乳母は冥土からそれを拝見いたします――とこう申しておりました、余吾之介様」

「――――」

余吾之介は驚きました。こんな色っぽい女の口から、最上家の悪人退治などいう飛んでもない大望を聞かされようとは、思いもよらなかったのです。

山形の城主最上源五朗義俊が所領を召上げられて、重臣を各大名に預けられたのは、元和八年七月十八日、この物語から丁度一年半ばかり前のことです。

最上家の没落は領主源五郎義俊が酒色に耽って政治を顧みなかったのも一つの原因ですが、その顛落に拍車を加えたのは、藩中の一部に山野辺右衛門大夫義忠の擁立運動があったためでした。義俊の父家親が、楯岡甲斐の家で毒を進められ、余吾之介の父松根備前が、幕府に訴えて黒白をつけようとしましたが、証拠がないために敗れて流され、幕府はそれを口実に、山形の所領を収めて、義俊母子を近江三河一万石に蟄居させてしまったのでした。

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