Chapter 1 of 9

「八、目黒の兼吉親分が来ていなさるそうだ。ちょいと挨拶をして来るから、これで勘定を払っておいてくれ」

銭形の平次は、子分の八五郎に紙入を預けて、そのまま向うの離屋へ行ってしまいました。

目黒の栗飯屋、時分どきで、不動様詣りの客が相当立て込んでおります。

「姐さん、勘定だよ。何? 百二十文。酒が一本付いているぜ、それも承知か。廉いや、こりゃ」

ガラッ八は自分の懐みたいな顔をして、鷹揚に勘定をすると、若干か心付けを置いて、さて妻楊枝を取上げました。

ぬるい茶が一杯。

景色を見るんだって、資本をかけると何となく心持が違います。

「ちょいと、伺いますが、あの銭形の親分さんは?」

優しい声、耳に近々と囁くように訊かれて、ガラッ八は振り返りました。二十前後の大店の若女房といった女が、少し顔を赧らめて、尋常に小腰を屈めるのでした。

「親分は向うへ行ってるが、なんだい、用事てえのは?」

「あの、銭形の親分さんのところの、八五郎さんというのはあなたで――」

「よく知っているな、八五郎は俺だ」

「確かに八五郎親分さんで――」

「八五郎親分てえほどの貫禄じゃねえが、銭形の親分のところに居る八五郎なら俺に間違いはねえ。本人が言うんだから、これほど確かなことはあるまい」

ガラッ八は古風な洒落を言って、長い顎を撫でました。

「それじゃこれを、そっと銭形の親分さんへお手渡し下さいませんか」

八五郎に握らせたのは、半紙半枚ほどの小さく畳んだ結び文。

「あッ、待ちねえ。親分ときた日には江戸一番の堅造だ。こんなもの取次ぐと、俺は殴り倒されるぜ」

追っかける八五郎の手をスルリと抜けて、女は店口から往来の人混みの中へ、大きな蝶々のように身を隠してしまいました。

「冗談じゃねえ、岡っ引へ付け文する奴もねえものだ。これだから当節の女は嫌いさ」

ガラッ八はでっかい舌鼓を一つ、四方を見廻しましたが、さて、その結び文を捨てる場所もありません。

「ままよ、どうとも勝手になれ」

幸い平次から預かった羅紗の紙入、それへポンと投り込んで、素知らぬ顔をすることに決めてしまいました。これなら結び文は完全に平次の手には入りますが、自分は知らぬ存ぜぬで通せば、余計な橋渡しをした罪だけは免れます。もっとも、平次の女房のお静には少し済まないような気がしないではありませんが、少々ぐらい良心がチクチクしたところで、そんな事に屈託する八五郎でもなかったのでした。

「どりゃ帰ろうか」

平次は離屋から帰って来ました。

「ヘエ紙入。勘定は百二十文、あんまり安いから受取も中へ入れておきましたよ」

「栗飯の受取なんざ、禁呪にもなるめえ」

庭石をトンと踏んで、傾きかけた西陽を浴びると、なるほど女に付け文をされるだけあって平次はまだまだ若くて好い男であります。

「何をニヤニヤしているんだ。帰ろうぜ」

「ヘエ――、姐御がさぞ気が揉めるだろうな」

「何だと」

「なに、こっちのことで」

二人は肩を並べて、神田へ向いました。

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