Chapter 1 of 8

「親分、とうとう神田へ入って来ましたぜ」

「何が? 風邪の神かい」

その頃は江戸中に悪い風邪が流行って、十二月頃から、夜分の人出がめっきり少なくなったと言われておりました。

「いえ、風は風だが、あの『疾風』と言われている強盗で……」

「どこへ入ったんだ」

「神田も神田、新石町の大黒屋で」

「ヘエ、そいつは近過ぎて知らなかったよ。いつだい」

「昨夜――と言っても暁方だったそうで、盗られた金は三百両だが、後の祟りが恐ろしいから、店の者一統に口留めして、おくびにも出さないことにしたんで」

「手前はそのおくびをどこで聞いた」

「朝湯へ行くと、湯を貰いに来た大黒屋の下女が、これは極々の内証話だから、誰にも言わないように――って、ペラペラ喋っていましたよ。口留めされるとかえってウズウズして、言わずにいられないんだね、もっとも、泥棒の汚した板敷や畳を掃除するのに、湯を沸かす暇がないという言い訳代りに、湯屋のお神さんを相手に、内証話を一席やった積りだろうが」

こんな事の聞込みにかけては、ガラッ八の八五郎、天才的な早耳でした。

「それは知らなかった、――外の事なら知らん顔もするが、『疾風』がこの辺へ入込むようじゃ放っちゃおけねえ。行ってみようか」

「そう来るだろうと思って、まだ草履も脱がずにいるんで」

二人は支度もそこそこ新石町へ飛んで行きました。

「疾風」というのは、その頃江戸中を顫え上がらせた兇賊で、人も害めず、戸障子も破らない代り、巧みに人の虚を衝いて、深夜の雨戸を開けさせて入り、抜刀で脅して有金を残らず渫って行く手際は、巧妙と言おうか、悪辣と言おうか、実に人も無気なるやり口だったのです。

最初は本所から、浅草下谷を荒らし、土地の御用聞をすっかり手古摺らせておりましたが、警戒が厳重で手も足も出なくなると、今度は河岸を変えて平次の縄張なる神田へ黒い手を伸して来たのでした。

「番頭さん、昨夜はお客様だったってネ」

「あっ、親分さん、もう御聞きで――」

「そりゃア渡世だもの」

平次は気のおけない微笑を浮べて、店先に腰を下ろしました。

大黒屋という、小体ながら表通りに店を張って、数代叩き上げた内福な呉服屋、番頭の佐吉は、内外一切の采配を揮っている、五十年配の白鼠だったのです。

「主人はあいにく休んでおります。――なアに大した事じゃございませんが、平常弱いところへ、昨夜はうんと脅かされましたんで、ヘエ」

「それは気の毒だ。なアに、主人に逢うほどの用事じゃアない。昨夜のことを、お前さんから詳しく話して貰えば、それでいいわけだから」

「内証にしておこうと思ったのは、みんな私の指金で、――素人の悲しさでございます、こんなに早く御耳に入るとは夢にも思いません。私どもにしますと、奪られた三百両より、後で仇をされるのが怖かったんでございます」

番頭の佐吉はクドクド言い訳をしながらも、平次を奥へ案内しなければなりませんでした。顔のよく売れた御用聞を、いつまでも店頭に置くことは、商売のためにも決して結構なことではなかったのです。

日頃の平次は、こんな術を用いるのは大嫌いでしたが、相手が頑固で策を施しようのない時は、出来るだけ神経を荒っ削りにして、こんな事もしなければならなかったのでした。

「昨日、日暮前の一番立て混んでいる時分に、若い御女中が一人、西陣の見事な帯を持っていらっしゃいまして、他所様から拝借した品だが、これと同じような帯が欲しいとおっしゃって、いろいろ御覧になった上、御気に召したのを一本お求め下さいました。ちょうどその時門付か何か来て、店先が騒々しかったもので、ツイうっかりしておりましたところ、お帰りになった後で気が付くと、見本に御持ちなすった帯を忘れてお帰りになったのでございます」

「その忘れ物を、夜中に取りに来たんだろう」

「ヘエ――御察しの通りで」

佐吉は舌を捲きました。渡世や商売にしても、平次の気の廻るのに驚いたのです。

「よくある術だ、――それから」

「かれこれ丑刻半(三時)、どうかしたら、寅刻(四時)――近かったかも判りません。表の戸をそっと叩く者があります。店に寝ていた小僧が起きて、臆病窓から覗くと、若い娘が月の光に照されて、濡れたような姿でションボリ立っていたんだそうでございます。声を掛けると、夕方買物に来た時、他所から借りた見本の帯を忘れて行ったような気がする。お店にあればいいが、もし途中で落しでもしたのなら、親に叱られるばかりでなく、母親の形見だという大事の品を借り出して、向うの方へも済まないから、生きて合せる顔はない――と言ったそうで」

「フーム、手が混んでいるな」

「あんまり気の毒なんで、手代を起して相談の上、表戸を開けて、忘れ物の帯を渡してやったんだそうでございます」

「何だって臆病窓から渡さなかったんだ」

と平次。

「私もそれを申しました。すると、親分さんの前だが、若い者というものは、仕様のないもので――」

「番頭さんには若い時がなかったようだネ」

「へッ、御冗談で、――とにかく、相手は若くて滅法綺麗な娘が一人、こっちは若い男が二人ですから、臆病窓からなんか物を渡す気になれなかったことでしょう」

番頭は世にも苦々しい顔をしました。

「その娘の後ろから、覆面の浪人者が、抜刀を持って飛込んだというのだろう」

「その通りで、親分さん」

「みんな同じ手だ、――で、その男は物を言ったかえ」

「申しました。が、『金を出せ』――とたったこれだけで、帳場にあったのを掻き集めてやると、黙って頭を振りました。通じない振りをして見ていると、『俺は物貰いじゃない、小判の外は金だと思わない事にしている』と言います。憎い野郎で――」

「それからどうした」

「何しろ抜刀を持っているのと、何となく腕が出来そうで、不気味でなりません。仕方がありませんから、主人と相談の上、三百両出してやりました」

「一緒に来た娘は、その間どうしていた」

「それが一向判りません。店中の者が吃驚している隙に、外へ出てしまいましたようで」

これ以上の事は誰に訊いても解りません。買物に来た娘の年頃は十八九、かなり良い容貌だったとは言いますが、夜来たのはその娘と同じ人間かどうか、それさえも判然しなかったのです。

強盗の装や背の高さもまちまちで、五尺五六寸と言う者もあり、せいぜい五尺一二寸しかなかったと言う者もあり、覆面頭巾は一致しましたが、眼は大きいか小さいか、そんな事を注意した者もなく、ひどい事には、羽二重の小袖の紋さえも記憶している者がなかったのです。

「紋のない紋付というものはあるまい。羊羹色でも羽二重なら、紋ぐらいはあったはずだ」

平次は突っ込んで訊きます。が、

「それが不思議で、どう思い出してもただの石持で、紋の形を覚えている者は一人もございません」

これでは手のつけようがありません。

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