Chapter 1 of 7

「親分、あつしはもう癪にさはつて癪にさはつて」

ガラツ八の八五郎は、いきなり錢形平次の前に、長んがい顎を漂よはせます。

よく晴れた秋の日の朝、平次は所在なく雁首を爪繰り乍らあまり上等でない五匁玉の煙草包をほぐして居るのでした。

「何をブリ/\してゐるんだ。腹の立て榮えのする面ぢやないぜ、手前なんか」

一服吸ひ付けて、平次は暫らく薄紫色の煙をなつかしむ風情です。

「だつて、これが癪にさはらなかつた日にや、親分、生きてゐるとは言へないぜ」

「大層思ひ込んでしまつたんだね。其の癪にさはるわけを言つて見な。誰が一體手前に三年前の割前勘定なんか催促したんだ」

平次はまだニヤリニヤリとして居ります。

「そんなんぢやねえ。割前なんか、拂はねえことに決めてゐるから、催促されたつて驚くあつしぢやねえが――」

「成程、氣は確かだ」

「町内の蝦子床へ入つて、順番を待つうち、中で木枕に頭を當てゝ、ついウトウトとしかけたと思ふと、多勢立て込んだ客が、あつしが居るとも知らずに、飛んでもねえ話を始めた――」

「――」

ガラツ八の癪の原因は、何か筋道が立ちさうな氣がして、平次も少しばかり本氣になります。

「――近頃神田一圓を荒し廻る辻斬野郎、――最初は弱さうな二本差を狙つてゐたが、近頃はタチが惡くなつて、町人でも女子供でも、見境なくバサリバサリやつた上、死骸の懷中物まで拔くといふぢやないか、――武家の惡戯は、町方役人の知つたことぢやねえと言ふ積りだらうが、一體誰がこれを取締つてくれるんだ、――錢形とか平次とか、大層顏の良いのが居たつて、辻斬へ指も差せねえやうぢや案山子ほどの役にも立たねえ、――と斯うだ、親分」

ガラツ八が腹を立てたのも無理はありませんが、町内の衆が、浮世床で不平を漏したのも理由のあることでした。この夏あたりから、神田一圓を荒し廻る辻斬の無法慘虐な殺戮は町人達は言ふ迄もなく武家も役人も、御用聞の平次も腹に据ゑ兼ねてゐたのです。併し、市井の小泥棒や、町人同士の殺傷沙汰と違つて、腕の利いた辻斬では、平次の手にも負へず、それに、神出鬼沒の早業で、幾度か正體を見屆け損ねて、夏も過ぎ、秋も半ばになつたのでした。

「その通りだよ、八、町内の衆の言ふ事にこれんばかりも間違ひはない」

平次は自責の念に堪へ兼ねた樣子で、思はず深々とうな垂れます。

「親分、さう言はれると、一も二もねえ。が、床屋の店先で、遠慮もなく親分の惡口をまくし立てるのは、憎いぢやありませんか。一番憎い口をきいたのは、遊び人の――」

「そいつは聽かない方が宜い、――なア八、憎いのは町内の衆ぢやなくて、人間を牛蒡や人參のやうに斬つて歩く、辻斬野郎ぢやないか」

「――」

平次はツイ、無法な殺戮者に對する、鬱積した怒を爆發させます。

「二本差同士なら兎も角、町人まで斬つて歩くのは我慢がならねえ。八、手を貸してくれるか」

「そいつは危いぜ、親分、辻斬は大抵、腕自慢が嵩じた野郎だ」

「どんな腕の出來る人間でも、惡業が積めば年貢を納める時が來るものだ、――俺はきつと辻斬野郎を縛つて見せる。年寄や女子供まで斬つて歩くやうな野郎を、どんな大身だつて勘辨して置くわけに行かない」

平次は拱いた腕をほぐしました。眉宇の間に、何やら決然たるものが閃めくのでした。

「親分、早速出かけませうか」

さう言ひ聽かされるとガラツ八は、大江山へ酒呑童子でも退治に行くやうな氣組です。

「辻斬はまだ朝寢をしてゐるよ」

「違げえねえ」

「だがな、八、無暗に歩いても、何時辻斬に逢ふか見當が付かねえ、――まさか鉦太鼓で搜すわけにも行くめえから、少し物事に順序を立てゝ考へて見ようぢやないか」

平次は日頃の冷靜に返ると、理智的にプランを立てゝ、その中へ辻斬を追ひ込まうとするのでした。

「順序てえと」

「早い話、辻斬は夏から始まつて、十二三人も害めたらうが、不思議なことに荒し廻るのは、兩國から明神樣まで、外神田一圓と下谷淺草の端つこだけ、――寛永寺の寺内、湯島天神樣の境内、淺草寺本願寺寄りを避けて、大川と神田川の向うへは一度も乘り出さない」

「――」

「こいつは、曲者が外神田に住んでゐる證據だ。どんな大膽不敵な野郎でも、血刀を腰に差して、夜更けの御見付は通られねえ」

「成程ね」

「明神下から兩國までとなると、思ひの外狹くなる。その間に住んでゐる、旗本御家人の殺伐な次男三男、お留守居の伜、若くて荒つぽい浪人、――斯んな手合を調べたら、思ひの外早く目星が付くといふものだらう」

平次の論理は、もう整然とした網を描いて、その中に辻斬の曲者を追ひ込んで行きます。

「それぢや、わけは無いぢやありませんか。辻斬なんかやる野郎は、どうせ親孝行で身持のよい筈は無い。五六人性の惡いのを當つて見ちや――」

「馬鹿なことを言ふな、相手はいづれ武家だ。怪しい素振りがあるからと言つて、直ぐしよつ引いてくるわけにはいかねえ――」

「成程ね」

「斯うしてくれ。十二三人も斬るうちには、いづれ一度や二度は、腰の物を研屋へ出すだらう。外神田の研屋、下つ引を二三人使つて、片つ端から當つて見てくれ。外神田に無きや、下谷、本郷、淺草、日本橋あたりまで、手を延ばすが宜い」

「――」

「人を斬つた刀の脂は、素人の手では、拭いても洗つても落ちるものぢやねえ。脂の浮いた刀か、刄こぼれのある刀を、近頃研屋へ持込んだ奴が判れば、占めたものだ」

「成程、そいつは氣が付かなかつた、――それぢや親分、三日ばかり待つておくんなさい三四人手分けをして、江戸中の研屋を漁つて來ますから」

「頼むぜ、八」

「親分は?」

「その間、晝寢でもしてゐるよ」

平次は淋しく笑ひました。腹の中では、辻斬を搜し出してその刄の前に立たうと言つた、突き詰めた計畫を樹てゝゐたのです。

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