Chapter 1 of 7

「八、身体が暇かい」

銭形平次は、フラリと来たガラッ八の八五郎をつかまえました。

「有難いことに、あっしが乗出すような気の利いた事件は一つもねえ」

「大きな事を言やがれ」

二人は相変らずの調子で話を始めました。

「いったい何をやらかしゃいいんで、親分」

「左内坂に忍術指南の看板を出した浪人者があるというじゃないか」

「聴きましたよ、成瀬九十郎とかいって」

「その道場へ、これから入門しようというのだ」

「ヘエー、親分がね、ヘエー、忍術の稽古に」

ガラッ八は滅法キナ臭い顔をして見せます。

「忍術も武芸のうちだというから、教えて悪いことではあるまいが、泰平の世の中に『忍術指南』の看板を出すのは何となく穏やかじゃねエ。それに忍術というものは、甲賀組とか伊賀組とかが公儀から預かって、町人や百姓には稽古をさせるものじゃねえと思っているが、――左内坂のは甲賀流でも伊賀流でもなくて、霞流とかいうんだってね」

「ヘエー」

「御奉行所でもひどく心配なすって、万一謀反の企てでもあっては一大事だから、中へ入って捜るようにという申付けだ」

「ヘエ――」

「これから市ヶ谷左内坂まで行って、成瀬九十郎の門人になろうというのだよ、お前も付き合ってみちゃどうだ」

「そいつを稽古しておいたら、晦日に借金取りが来たときなんか、恐ろしく調法だろうね、親分」

「馬鹿な事を言やがれ」

無駄を言いながら二人は市ヶ谷左内坂に向いました。

ある秋の日の夕景、山の手の街は、もう赤蜻蛉がスイスイと頭の上を飛ぶ時分のことです。

成瀬九十郎の道場は――いや、道場と名のつくようなものではありませんが、表に出した真新しい看板の「霞流忍術指南」の六文字だけが目立つ程度の、至って貧弱なしもたやでした。

「御免」

声のでっかいガラッ八が、精一杯の威儀を作って訪うと、町内中の新漬の味に響くようなダミ声で、ドーレと来るべきはずの段取りを、どう間違えたか、

「ハイ」

優しい声がして、格子と中の障子を、たしなみ深く開けたのは、十八九の淋しい娘です。

神田の次平、五郎八と名乗って、忍術執心のことを申入れると、

「しばらくお待ちを」

娘は一たん奥へ引込みましたが、やがて改めて二人を案内します。

「神田の次平、五郎八というのか。本来ならば町人に忍術は無用のものだが、まだ一人も弟子がつかないから、大負けに負けて門弟にしてやる。さア、ズーッとこっちへ通るがよい」

おそろしく口の達者な四十男が、畳を剥いで、床板だけ敷き直した十畳敷ほどの道場に二人を通しました。

娘の淋しく美しいに似ず、これはまたなんという馬鹿馬鹿しい忍術の先生でしょう。背は低い方、肉付も極度に節約して骨と皮ばかり、顔は皺だらけのくせに、眼と口だけが人並以上で、わけても爛々たる眼には、人を茶にしたような、虚無的な光さえ宿っているのです。

「有難うござります、なにぶん宜しくお願い申します」

平次は用意の束脩を二人分、お盆を借りて差出し、その日は四方八方の話だけで帰りました。戸口を出るともう、

「親分、変な野郎じゃありませんか」

ガラッ八の八五郎には、腑に落ちない事だらけです。

「何が変なんだ」

「天下を一と呑みにするような大きな事ばかり言やがる癖に、人間を見ると、沢庵になり損ねた干大根みたいな野郎で――」

「だが、一と癖ありそうだな。俺は馬鹿にして行ったが、逢ってみて考え直したよ」

「ヘエ――、そんなもんですかね、――もっともあの娘は満更じゃねえが」

「娘の鑑定だけは、大した腕前だな、八」

「それほどでもねえ」

稽古日は三の日と、八の日。教えることは他愛もありませんが、この成瀬九十郎という人物から、平次は不思議な力と情熱を感じておりました。

三度目の稽古日、忍術に関するいろいろの口伝や理論を聞いて、小さい課程の幾つかを済ませた後、別室に退いて、娘に茶を入れさせながらの話です。

「少し話して行くがよい。次平は生れながらの忍術使いだ、二三年みっちりやると、うまくなるぞ」

成瀬九十郎はそんな事を言って、大満悦です。

「あっしは、先生?」

ガラッ八は側から鼻を出しました。

「五郎八は駄目だ」

「ヘエ――?」

「生れながらの鈍根だな、お前は」

「ヘエー」

まるっきり型無しです。

「ところで先生」

平次は静かに切出しました。

「何じゃな、次平」

「近ごろ御府内を騒がしている山脇玄内とかいう泥棒、あれはやはり忍術の心得があるのでしょうな」

「心得どころではない、忍術名誉の達人だな。南北両奉行の役人が、歯ぎしりしたところで、山脇玄内を縛ることなどは思いもよらない」

「それほど心得のある者が、押込夜盗の真似をするとは憎いじゃございませんか」

「いや、これにも仔細のあることだろう。例えば、山脇玄内は義賊といった輩かも知れぬではないか」

成瀬九十郎はケロリとしてこんな事を言うのです。

「その義賊というのを、あっしは大嫌いなんで。貧の盗みは百文盗っても世間は許しゃしません、義賊と名が付くと、百両盗って十両か二十両だけ貧乏人にやり、あとは自分の贅沢に費っても、世間じゃ見上げたもののように言い囃します。あっしはそれが気に入らないんで」

「たいそうな意気込みだな、次平」

成瀬九十郎は強いても争わず、ただニヤリニヤリと笑っているだけです。

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