一
話はガラッ八の八五郎から始まります。
「あら親分」
「…………」
「八五郎親分」
素晴らしい次高音を浴びせられて、八五郎は悠揚として足を止めました。粋な単衣を七三に端折って、懐中の十手は少しばかり突っ張りますが、夕風に胸毛を吹かせた男前は、我ながら路地のドブ板を、橋がかりに見たてたいくらいのものです。
「俺かい」
振り返るとパッと咲いたような美女が一人、嫣然として八五郎の鼻を迎えました。
「八五郎親分は、江戸にたった一人じゃありませんか」
「お前は誰だい」
「随分ねエ」
女はちょいと打つ真似をしました。見てくれは二十二三ですが、もう少しヒネているかもわかりません。自棄な櫛巻にした多い毛にも、わざと白粉を嫌った真珠色の素顔にも、野暮を売物にした木綿の単衣にも、包み切れない魅力が、夕映えと一緒に街中に拡がるような女でした。
「見たような顔だが、どうも思い出せねえ。名乗ってみな」
「まア、大層なせりふねエ、――遠からん者は音にも聞け、と言いたいけれど、実はそんな大袈裟なんじゃありませんよ、――両国の篠をお忘れになって、八五郎親分」
女は少しばかりしなを作って見せます。
「何だ、水茶屋のお篠か、白粉っ気がなくなるから、お見逸れ申すじゃないか」
「まア、私、そんなに厚塗りだったかしら?」
お篠はそんな事を言いながら、自分の頬へちょっと触って見せたりするのです。笑うと八重歯が少し見えて、滅法可愛らしくなるくせに、真面目な顔をすると、屹とした凄味が抜身のように人に迫るたちの女でした。
「赤前垂を取払うと、すっかり女が変るな。一年近く見えないが、身でも固めたのかい」
「とんでもない、私なんかを拾ってくれ手があるものですか」
「そうじゃあるめえ、事と次第じゃ、俺も拾い手になりてえぐれえのものだ」
「まア、親分」
お篠の手がまた大きく夕空に弧を描くのです。
「ところで何か用事があるのかい」
「大ありよ、親分」
「押かけ女房の口なら御免だが、他の事ならてえげえ相談に乗ってやるよ、ことに金のことなどと来た日にゃ――」
「生憎ねえ。親分、金は小判というものをうんと持っているけれど、亭主になり手がなくて困っているところなの」
「ふざけちゃいけねえ」
「ね、八五郎親分、掛合噺はまた来年の春にでもゆっくり伺うとして、本当に真剣に聴いて下さらない?」
「大層またあらたまりやがったな」
「私本当に困ったことがあるのよ、八五郎親分」
「あんまり困ったような顔じゃないぜ、何がどうしたんだ」
ガラッ八も引込まれるともなく、少しばかり真面目になりました。
「親分は私の妹を御存じねエ」
「知ってるとも、お秋とか言ったね、お前よりは二つ三つ若くて、お前よりも綺麗だった――」
「まア、御挨拶ねエ」
「その妹がどうしたんだ」
「両国の水茶屋を仕舞った時の借りがあったので、私と別々に奉公したんです。私は――今は止したけれど浅草の料理屋へ、妹は堅気がいいと言うんで、湯島の山名屋五左衛門様へ――」
「そいつは料簡が悪かったな、山名屋五左衛門は、界隈に知らぬ者のない癖の悪い男だ」
「それも後で聞きました。驚いて妹を取戻しに行きましたが、どうしても返しちゃくれません」
「給料の前借りでもあるのか」
「そんなものはありゃしません」
「証文を入れるとか、請人をたてるとか、何か形の残るものが向うへ入っているんじゃないか」
「知った同士で話をつけ、何一つ向うへは入っていません」
「それじゃ戻せないことはあるまい」
ガラッ八は一向手軽なことのように考えているのでした。
「女一人行ったところで、馬鹿にされて戻されるのがせいぜいです。今までにもう、三度も追い帰されました」
「フーム」
「今つれて帰らなきゃ、妹のお秋にどんな間違いがあるかも判りません。独り者の山名屋はお秋を妾にする気でいるんです。あの娘には、まだ祝言こそしないが、決った許嫁があるのも承知の上で」
「そいつは気の毒だが、本人が帰る気がなきゃどうすることも出来ない」
「本人は帰りたいに決っています。あんな蛸入道が瘧を患ったような、五十男の手掛けになって、日蔭者で一生を送りたいはずはありません」
「…………」
「この間も私が行くと、逢われないながらも、二階の格子の中で泣いているじゃありませんか、私はもう可哀相で可哀相で」
「それで、俺に何をしろと言うんだ」
ガラッ八もだいぶ呑込みがよくなりました。
「決して無理なことをお願いするんじゃありません。山名屋の店先へ行って、見えるように見えないように、その懐中の十手をチラチラさして下さりゃいいんです。私が一人で乗込んで、主人を始め番頭手代と渡り合い、きっと妹のお秋を救い出して来ます」
お篠は一生懸命説きたてるのです。一時両国の水茶屋で、鉄火者で鳴らしたお篠が、妹のお秋を虎狼の顎から救い出したさに、ガラッ八の十手のチラチラまで借りようというのは、全く並々ならぬ危険を感じたからのことでしょう。
お秋のたき美しさをガラッ八は知りすぎているだけに、この頼みを蹴飛ばしかねました。
「よし、それじゃ行ってやろう」
「有難うございます、八五郎親分」
「その代り、俺は店の中へは入らないよ。外に居て、十手をチラチラさせるだけだよ」
ガラッ八は馬鹿馬鹿しくも念を押します。