一
本郷菊坂の六軒長屋――袋路地の一番奧の左側に住んでゐる、烏婆アのお六が、その日の朝、無慘な死骸になつて發見されたのです。
見付けたのは、人もあらうに、隣に住んでゐる大工の金五郎の娘お美乃。親孝行で綺麗で、掃溜に鶴の降りたやうな清純な感じのするのが、幾日か滯つた日濟しの金――と言つても、緡に差した鳥目を二本、袂で隱してそつと裏口から覗くと、開けつ放したまゝの見通しの次の間に、人相のよくない烏婆アが、手拭で縊り殺されて、凄じくも引つくり返つて居たのです。
「あツ、大變、――誰か、來て下さい」
お美乃は思はず悲鳴をあげました。確り者と言つても、取つてたつた十八の娘が、不意に鼻の先へ眼を剥いた白髮ツ首を突き付けられたのですから、驚いたのも無理はありません。
「何んだえ、お美乃さんぢやないか」
眞つ先に應へてくれたのは、一間半ばかりの路地を距てて筋向うに住んでゐる、鑄掛屋の岩吉でした。五十二三の世をも人をも諦めたやうな獨り者で、これから鑄掛道具を引つ擔いで出かけようと言ふところへ、この悲鳴を聽かされたのです。
「鑄掛屋の小父さん、た、大變ですよ」
「何處だい、お美乃さん」
お六婆アの家の表は、まだ嚴重に締つてゐるので、岩吉はお美乃の聲が何處から聽えて來たか、一寸迷つた樣子です。
「お六小母さんが――」
「婆さんがどうしたといふんだ」
岩吉は枳殼垣と建物の間を狹く拔けて、お六婆アの家の裏口へ廻つて仰天しました。
「小父さん、どうしませう」
「何うも斯うもあるものか、長屋中へ觸れてくれ。それから、醫者にさう言ふんだ」
岩吉はさう言ひ乍ら、裏口の柱につかまつて、ガタガタ顫へて居ります。中へ入つて死骸の始末をすることも、死骸の側を通り拔けて、表戸を開けてやることなども、この中老人は出來さうもありません。
そのうちに、壁隣りに居るお美乃の父親――大工の金五郎も飛んで來ました。二日醉ひらしい景氣の惡い顏ですが、これはさすがに威勢の良い男で、
「早く介抱してやるが宜い。締められた位で往生するやうな婆アぢやあるめエ」
いきなり死骸を抱き起しましたが、石つころのやうに冷たくなつて、最早命の餘燼も殘つてゐさうもありません。
「こいつはいけねエ」
金五郎は死骸を置いて表戸を開けると、其處には、岩吉の隣りに住んでゐる日雇取の與八と女房のお石が、叱られた駄々ツ兒のやうな、脅えきつた顏を並べて立つて居るのでした。
最後に金五郎の隣り――與八夫婦の向うに住んでゐる按摩佐の市の母親も出て來ました。眼の見えない佐の市を除けば、これで長屋總出になつたわけですが、脅えた顏を揃へて、わけの解らぬことを囁き合ふだけで、何の足しにもなりません。
「何が始まつたんだ。大變な騷ぎぢやないか」
木戸の外から聲を掛けて、若い男が入つて來ました。六軒長屋の直ぐ外――表通りに住む雪之助といふ二十七八の男で、本石町の丸木屋の次男坊に生れ乍ら、商賣は嫌ひの風流事が好きで、こんなところに別宅を建てて貰ひ、耳の遠い年寄を一人使つて、意氣事と雜俳とにその日を暮す、雪江といふ筆名に相應しい結構な若旦那でした。
「若旦那、大變なことになりましたよ」
與八は齒の根も合はぬ姿でした。
「またお前のところの夫婦喧嘩かい」
事もなげに笑ふ雪之助。
「そんな事ぢやありませんよ。お六婆さんが殺されて死んで居るんで」
「へエ、あの婆さんでも殺されると死ぬのかい」
雪之助はまだ巫山戯氣分です。
「見て下さいよ。凄い人相ですぜ、若旦那。三途河の婆アだつて、あの顏が行くと驚きますぜ」
大工の金五郎はこんな時にも江戸つ兒らしい剽輕さを失ひませんでした。
「あれ、父さん、そんな事を」
お美乃はさう言ふ父親の口へ蓋でもし度い樣子です。
「成程、そいつは凄からう。――ところで、屆けるところへ屆けたのかい」
「面喰つて居るから、何んにもやりませんよ」
と金五郎。
「それでは後がうるさい。何を措いても町役人と、眞砂町の親分に知らせなきやなるまい。お前一と走り頼むぜ」
「へエ――」
日頃若旦那の雪之助に物を言ひ付けられてゐる與八は、こんな時一番先に駈け出すやうに慣らされて居たのです。