一
「フーム」
要屋の隱居山右衞門は、芝神明前のとある夜店の古道具屋の前に突つ立つたきり、暫くは唸つてをりました。
胸が大海の如く立ち騷いで、ボーツと眼が霞みますが、幾度眼を擦つて見直しても、正面の汚い臺の上に載せた茶碗が、運の惡い人は一生に一度見る機會さへないと言はれた井戸の名器で、しかも夜目ながら、息づくやうな見事さ。總體薄枇杷色で、春の曙を思はせる釉の流れ、わけても轆轤目の雄麗さに、要屋山右衞門、我を忘れて眺め入つたのも無理はありません。
「それは賣物か」
山右衞門は恐る/\訊いて見ました。どう間違つても、これは大道の夜店などに曝し物になる品ではなかつたのです。
「へエー」
古道具屋の親爺はボケ茄子のやうな顏を擧げました。
「ちよいと見せて貰へまいか」
要屋山右衞門はたうとう古道具屋の筵の前に踞み込んでしまひました。薄濕りの夜の大地の冷えが膝に傳はりますが、無造作に出された茶碗を手にすると、心身に一脈清凉の氣が走つて、改まつた茶席に列つたやうな心持になります。
手に取つて見ると十善具足の名器で、茶に凝つて居る要屋山右衞門などは、一と身上投げ出しても惜しくない氣になる品物です。
「頼まれた品でございますよ、旦那」
客の筋が尋常ならずと見て、古道具屋の親爺も少し乘出しました。
「箱や袋はないのかな」
「それが揃つてゐれば、大道へ出る品ぢやございません、へエー」
親爺もさすがに心得てをります。それに内箱外箱、御袋など一と通り揃つてゐると、これは大變なことになります。
「いくらに賣る氣だ」
山右衞門は氣を引いて見るやうな調子で恐る/\訊きました。
「少しお高うございますよ。頼んだ方は五十兩に賣つてくれと申しますが」
古道具屋の親爺もそこまでは眼が屆かない樣子です。
「えツ、五十兩?」
「だから私は、そんな無法なことを言ふのは嫌だと斷つたんで、夜店の品で五十兩は少し桁が外れますが――」
「いや、高い安いを言つてゐるのではない、五十兩なら私は買はう。が、縁日を冷かすのに、そんな大金を持つてゐるわけはない。すぐ家へ取りに行つて來るから、誰にも賣らないやうにして貰ひたい」
「へエへエそれはもう」
「これはほんの少しだが、今晩一と晩だけの手付けのつもりで預けて置く。いゝかえ」
山右衞門は懷ろから財布を出して小判で三兩ほど置くと、大急ぎで引返しました。
茶道に遊ぶものの冥利、一度は手に入れたいと思つた井戸の茶碗が、こんな機縁で、たつた五十兩で手に入るといふのは、全く夢のやうです。あの茶碗に附屬物一式揃つてゐたら、五百兩とか千兩とかいふ相場が付いて、大名の藏か三井鴻池といつた大町人のところに納まるものでせう。
それがたつた五十兩で手に入るとは、何といふ幸運でせう。この秋はあの茶碗の披露で一席催し、知つてゐる誰れ彼れを驚かしてやらう。
そんなことを考へながら、濱松町の路地を入つて、ハタと當惑しました。三年前から養子の山之助に店を讓つて、こゝの奧の隱宅に引つ込んだ山右衞門は、無用心さを考へて手許に十兩と纒つた金を置かなかつたのです。
「弓、お弓はゐるか」
「ハ、ハイ」
少しあわてて飛んで出たのは、お弓と言つて十九の娘。要屋の遠縁の者で、行儀見習ひに來てゐるのを、隱居が氣に入つて、この隱宅の方に引取つて、下女のお仲と共に朝夕の世話をさせてゐるのでした。
「誰か來てゐるのか」
「いえ、あの」
お弓は吃りました。本宅の手代で久吉といふのが、これも遠縁で要屋に引取られてゐるうち、不仕合せ同士のお弓と心易くなつて、ツイ人目を忍ぶ仲になつたのを割かれ、間がな隙がな、隱宅を覗いてゐるうち、隱居が神明樣の夜店へ行つた留守、ちよいと滑り込んで、お弓と話し込んでゐたのです。
「夜店で飛んだ掘り出しものを見付けてなう。――大名物と言つてもいゝくらゐな井戸の茶碗が、たつた五十兩だとさ。――あんな品に逢ふのは、人間一生に一度の福運だ。店へ行つて金を持つて來て買はうと思ふ――留守を頼むよ」
隱居山右衞門は金持らしく人の思惑などを考へずに、自分の言ひたいだけのことを言つて、そのまゝ路地の闇に引返しました。
そこから表通りの要屋――海道筋の老舖で、代々質兩替をやつてゐる店までは、ほんの一と走りだつたのです。
「チエツ、馬鹿にしてゐるぜ」
その後姿を、障子の隙間から見送つて、手代の久吉は大舌鼓を打ちました。
「まア、お前」
その冒涜的な調子をとがめるやうにお弓。これは隱居が戸口から引返したために、引入れた久吉が見付からなくてホツとした姿です。
尤もお勝手には二人の仲を百も承知の下女のお仲が、ガタピシと晩のお仕舞をしてゐるのですから、隱居が歸つて來たところで、言ひのがれの口實はいくらでもあつたことでせう。
「茶碗一つが五十兩だとさ。――それが安いつて大喜びだ」
久吉の機嫌は以ての外です。
尤も、五十兩といふのは當時にしては一と身上とも言ふべき大金で、白雲頭の頃から奉公して、遠縁だけにろくな給金も貰はず、折角狙つた要屋の家督は、赤の他人の、養子山之助に取られてしまつた久吉としては、何時暖簾を分けて貰ふ當てもないこのせつ、隱居が五十兩で茶碗を掘り出した夢中な姿が、ツイ小癪にさはつたものでせう。久吉は取つて二十八の、多血質で赤い顏をし、物事に容赦のならぬ男でした。
「そんなことを言はないで下さいよ。ね、久吉さん、御隱居さんは他にお樂しみがないんだから」
心根の優しいお弓は、ツイ辯解する氣になるのも、無理はなかつたでせう。山右衞門はそれほどこの娘に眼をかけて、久吉のやうに氣性の激しい男と一緒にするのさへ承知しなかつたのです。
「お弓さんが側にゐるんだ。この上樂しみがあつちやもつたいないぜ」
「あれ、お前」
「世間ぢや變なことを言つてるぜ。氣を付けるがいゝ」
久吉はプイと立ちました。フト隱居の山右衞門が、若くして美しいお弓を側へ置くのが、唯ごとでないやうに言ふ店中の噂を思ひ出したのです。
「そんなことを、久吉さん」
「俺は歸るぜ。精々御隱居さんに可愛がつて貰ふがいゝ」
「あれ、久吉さん」
追ひすがるお弓を拂ひのけて、久吉は外へ飛び出しました。生温かい青葉の風が頬を撫でて、何んとはなしに興奮を誘ふ晩です。