一
「八、居るか」
向柳原の伯母さんの二階に、獨り者の氣樂な朝寢をしてゐる八五郎は、往來から聲を掛けられて、ガバと飛起きました。
障子を細目に開けて見ると、江戸中の櫻の蕾が一夜の中に膨らんで、甍の波の上に黄金色の陽炎が立ち舞ふやうな美しい朝でした。
「あ、親分。お早う」
聲を掛けたのは、まさに親分の錢形平次、寢亂れた八五郎の姿を見上げて、面白さうに、ニヤリニヤリと笑つて居ります。
「お早うぢやないぜ、八。もう、何刻だと思ふ」
「そのせりふは伯母さんから聞き馴れてゐますよ。――何んか御用で? 親分」
八五郎はあわてて平常着を引つ掛けながら、それでも減らず口を叩いてゐるのでした。
「大變だぜ、八五郎親分。こいつは出來合ひの大變と大變が違ふよ。溝板をハネ返して、野良犬を蹴飛ばして、格子を二枚モロに外すほどの大變さ」
平次はさういひ乍ら、一向大變らしい樣子もなく、店先へ顏を出した八五郎の伯母と、長閑なあいさつを交してゐるのでした。
「あつしのお株を取つちやいけません。――どうしたんです、親分」
八五郎は帶を結びながら、お勝手へ飛んで行つて、チヨイチヨイと顏を濡らすと、もう店先へまぶし相な顏を出しました。
「觀音樣へ朝詣りをするつもりで、フラリと出掛けると、途中で大變なことを聽き込んだのさ。お前に飛込まれるばかりが能ぢやあるまいと思つたから、今日は俺の方から、『大變』をけしかけに來たんだ。驚いたか、八」
「驚きやしませんよ。まだ、親分は何んにもいつてないぢやありませんか」
「成程、まだいはなかつたのか。――外ぢやない。廣徳寺前の米屋、相模屋總兵衞が、昨夜人に殺されたんだとさ」
「へエ――。あの評判の良い親爺が?」
「どうだ、一緒に行つて見ないか」
「行きますよ。ちよいと待つて下さい親分」
「これから飯を食ふのか」
「腹が減つちや戰が出來ない」
「待つてやるから、釜ごと噛らないやうにしてくれ。あ、自棄な食ひやうだな。伯母さんが心配してゐるぜ。早飯早何んとかは藝當のうちに入らない」
「默つてゐて下さいよ、親分。小言をいはれ乍ら食つたんぢや身にならねえ」
「六杯と重ねてもか」
そんな事をいひ乍らも、八五郎は飯を濟ませて、身仕度もそこ/\に飛出しました。
廣徳寺前までは一と走り、相模屋の前は、町内の彌次馬で一パイです。
「えツ、退かないか。その邊に立つてゐる奴は皆んな掛り合ひだぞ」
三輪の萬七の子分、お神樂の清吉が、そんな事をいひながら、人を散らして居ります。
「どうした、お神樂の。下手人は擧がつたか」
平次は穩かに訊きました。
「擧がつたやうなものですよ。帳場の金が百兩無くなつて、下男の權八といふのが逃げたんだから」
「逃げた先の見當は付いたかい」
餘計なことを、ガラツ八は口を挾みました。
「解つてゐるぢやないか。吉原の小紫のところよ。――野郎の名前は權八だ」
「へツ」
八五郎は唾を吐きました。まさに一言もない姿です。平次はそんな事に構はず、相模屋の中に入つて、いきなり事件の核心に觸れて行きます。
殺された相模屋總兵衞は、その時もう六十歳。早く女房に死に別れて、跡を繼ぐべき子供も無かつたので、二人の姪――お道、お杉――を養つて淋しいが、併し滿ち足りた暮しをして居る、有徳の米屋でした。
口やかましくて、手堅い性分で、なまけ者や誤魔化しを見てゐることの出來なかつた總兵衞でしたが、その一面には慈悲の心にも富み、信心も篤く、先づ町人としては申分のない人柄で、人に殺される筈もないやうですが、物事に容赦のない性格が、飛んだ怨を買つたのかもわかりません。
平次は兎も角、番頭の市五郎に逢つて、いろ/\のことを訊きました。市五郎は四十五六の一癖あり氣な男ですが、日頃主人の總兵衞は何も彼も自分の胸一つに決め、大事小事悉くその差金でやつてゐたので、番頭といつても、あまり身上に立ち入つたことは知らず、米の粉に塗れて、たゞもう他の奉公人達と一緒に働いてゐるといつた樣子でした。
主人總兵衞の死骸は、今朝姪のお杉――下女同樣に働いてゐる二十五の大年増が、雨戸が一枚開いてゐるのに驚いて、その寢間を覗いて發見しました。お杉の聲に集まつた人達は、床から少しのり出して、紅に染んでこと切れてゐる主人の凄じい姿に膽を潰し、忽ち煮えくり返るやうな騷ぎが始まつたのです。
傷は喉へ一箇所、馬乘になつて突いたものでせうが、餘ツ程落着いた手際で總兵衞は多分聲も立てずに死んだことでせう。兇器は總兵衞自身が寢室の床の間に置いた用心の脇差で、それは曲者が逃げる時、面喰つて持出したものか、裏口の外、溝の中に抛り込んでありました。
無くなつたものは、現金で百兩、それは番頭の市五郎もよく知つて居ります。昨夜帳尻をしめて現金百十二兩主人に渡し、主人はそれを空財布に入れてふところに入れたのを見てゐたのですが、死骸の側にはふり出した財布には、小粒で十二兩殘つてゐるだけ、小判で百兩の金は、何處にも見當らなかつたのです。
「主人を怨む者はなかつたのか」
平次は、こんな平凡なことを訊ねました。
「慈悲深い、よく出來た御主人でございました。怨む者がある筈もございません」
「昨夜から見えないといふ下男は?」
「權八と言つて、二十九になる男でございます。下總の古河の者で、十年前から奉公し、まことに實直に勤めて居りました。主人を害めるやうな、そんな男ではございません」
「その權八の荷物はどうした」
「それも三輪の親分さんがお調べになりましたが、――着換一枚だけ持ち出したやうで」
さういはれると、この下手人は、權八に間違ひはないやうです。
「權八の在所へは?」
「三輪の親分さんが追手を出しました」
それではもう、平次にしなければならぬ仕事は一つもありません。