一
「親分は? お靜さん」
久し振りに來たお品は、挨拶が濟むと、斯う狹い家の中を見廻すのでした。一時は本所で鳴らした御用聞――石原の利助の一人娘で、美しさも、悧發さも申分のない女ですが、父親の利助が輕い中風で倒れてからは、多勢の子分を操縱して、見事十手捕繩を守り續け、世間からは『娘御用聞』と有難くない綽名で呼ばれてゐるお品だつたのです。
取つて二十三のお品は、物腰も思慮も、苦勞を知らないお靜よりはぐつと老けて見えますが、長い交際で、二人は友達以上の親しさでした。
「何んか御用?」
お靜はお茶の支度に餘念もない姿です。
「え、少しむづかしい事があつて、親分の智惠を借り度いと思つて來たんだけれど――」
「生憎ね、急の御用で駿府へ行つたの、月末でなきや戻りませんよ――八五郎さんぢやどう?」
「親分がお留守ぢや仕樣がないねえ。――八五郎さんにでもお願ひしようかしら」
お品は淋しく笑ひました。ガラツ八の八五郎の人の良さと、頼りなさは、知り過ぎるほどよく知つて居ります。
「八五郎さん、ちよいと」
お靜が聲を掛けると、いきなり大一番の咳をして、
「お品さんいらつしやい」
ヌツと長んがい顏を出すのです。
「まア、八五郎さん其處に居なすつたの。あんまり靜かにしてゐるから、氣が付かないぢやありませんか」
お品は面白さうに笑ふのでした。
「あつしでも間に合ひますかえ」
「まあ、惡かつたわねエ。――八五郎さんが來て下さると本當に有難い仕合せで――」
ガラツ八は擽つ度く、首筋を掻くのです。でも、そんな事に長くこだはつて居る八五郎ではありませんでした。お品が事件の説明を始めるともう夢中になつて、一ぱし御用聞の出店位は引受ける氣だつたのです。
お品が持込んで來た事件といふのは、お品の家とは背中合せの、同じ本所石原町に長く質屋渡世をし、本所分限者の一人に數へられてゐる吾妻屋金右衞門が、昨夜誰かに殺されてゐることを、今朝になつて發見した騷ぎでした。
「家の新吉が下つ引を二三人連れて行つたけれど、こね廻すだけで判りやしません。そのうちに三輪の親分の耳にでも入つたら、どうせ默つて見ちや居ないだらうし、――本當に八五郎さんが行つて下さると助かりますよ」
お品の調子はしんみりしました。
「うまく言ふぜ、お品さん」
そんな事を言ひ乍らも、八五郎はお品と一緒に石原町まで驅け付けてゐたのです。
「それでは八五郎さん」
吾妻屋の入口から別れて歸らうとするお品。
「お品さんも現場を見て置く方が宜いぜ」
「でも、私が顏を出しちや惡いでせう。さうでなくてさへ娘御用聞とか何んとか、嫌な事を言はれるんですもの――」
「近所附合ひだ。見舞客のやうな顏をして行く術もあるぜ」
「さうね」
お品は強ひても爭はず、八五郎と一緒に吾妻屋の暖簾をくゞつて居りました。
「お、八五郎親分」
迎へてくれたのは利助の子分で、兎も角も十手を預かつてゐる新吉でした。
「大層厄介な事があつたんだつてね。一寸覗かして貰ふぜ、新吉兄哥」
八五郎はひどく好い調子です。
吾妻屋金右衞門はその時六十一、生涯を物慾に委ね切つて、隨分無理な金を溜めた爲に散々諸人の怨を買つたらしく、先年女房に死に別れ、放埒な伜を勘當して、娘のお喜多一人を頼りに暮すやうになつてからは滅切り氣が弱くなり、ことに近頃は一種の脅迫觀念に囚はれて、『誰か自分を殺しに來る』『俺はきつと近い内に殺されるに違ひない』と云ひ續けてゐる有樣でした。
そんな事から日常生活が恐ろしく神經質になり、半歳ほど前からは、我慢がなり兼ねて、權現堂の力松といふ男を用心棒に雇ひ入れ、自分は母屋から廊下續きの離屋の二階に住んで、娘と下女のお石と、番頭の周助と、用心棒の力松の外には、滅多な人間を寄せ付けないやうな暮し方をして居るのでした。