Chapter 1 of 7

「八、何處の歸りだ。朝つぱらから、大層遠走りした樣子ぢやないか」

錢形の平次は斯んな調子でガラツ八の八五郎を迎へました。

「わかりますかえ親分、向柳原の叔母の家から來たのぢやないつてことが」

八五郎の鼻はキナ臭く蠢めきます。

「まだ巳刻前だよ、良い兄さんが髷節に埃りを附けて歩く時刻ぢやないよ。それに氣組が大變ぢやないか。叔母さんとこの味噌汁や煮豆ぢや、そんな彈みがつくわけはねえ」

「まるで廣小路に陣を布いてゐる八卦屋だね」

「それとも千住か板橋から馬でも曳いて來たのか」

「冗談ぢやありませんよ、親分。二年前に死んだ人間が人を殺したんだ。小石川の陸尺町から一足飛びに飛んで來ましたぜ」

「二年前に死んだ人間が人を殺した?」

「その上まだ/\四五人は殺してやるといふんだから大變で――」

「誰がそんな事を言ふんだ?」

「二年前に殺された人間ですよ」

「さア解らねえ、まア落着いて話せ」

「落着いて聽いて下さいよ親分、こいつは前代未聞だ」

ガラツ八の持つて來た話は、あまりにも桁外れでした。二年前に死んだ人間が、豫告して人を殺すといふことは、絶對にあり得べからざることですが、ガラツ八は自分の眼で、現にそのあり得べからざる事件を見て來たといふのです。

「小石川陸尺町(安藤坂下――今の水道町)の成瀬屋總右衞門といふのを親分は覺えてゐるでせうね」

「陸尺町の成瀬屋總右衞門――二三年前に御府内を騷がせた大泥棒蝙蝠冠兵衞を生捕つて、お上から御褒美を頂いた家だね」

平次はよく知つて居りました。その頃義賊と稱した泥棒で、その實、百兩盜つて、十兩か五兩を貧しい者に惠み、あとの大部分は自分の懷ろに入れた蝙蝠冠兵衞は、自分の良心を欺いて、無智な世間の人氣を博することと、如何なる締りも、なんの苦もなく開けて忍び込む天才的な術を心得てゐる點で、有名だつた男です。

その蝙蝠冠兵衞ほどの強か者も、傳通院前の成瀬屋に忍び込んだ時は、取返しのつかぬ失策をしてしまひました。

小石川切つての大地主で、巨萬の富を積んでゐる成瀬屋は、蝙蝠冠兵衞に狙はれると知つて、屋敷の内外に鳴子を張り渡した上、幾つも/\罠を仕掛けて、苦もなく忍び込んだ巨盜冠兵衞を生捕りにし、番頭で用心棒を兼ねた傳六といふ男が、散々冠兵衞をなぶりものにした揚句、半死半生のまゝ役人に引渡したのでした。

蝙蝠冠兵衞は間もなく鈴ヶ森で獄門になりました。生前の善根らしきもののお蔭で、助命の歎願などもありましたが、素よりそんなものは取上げられる筈もなく、一代の巨盜もそれつ切り江戸つ子の關心から拭ひ去られてしまつたのです。

「――その成瀬屋總右衞門の家へ、二年前に御處刑になつた蝙蝠冠兵衞が祟るんだから變ぢやありませんか」

「待つてくれ、そいつは捕物ぢやなくて怪談だぜ、八」

平次は恐ろしく酢つぱい顏をしました。

「その怪談が大變なんで、一と月も前から成瀬屋の一家を鏖殺にするといふ蝙蝠冠兵衞の手紙が三本も來てゐるぢやありませんか」

「よくある術だ」

「ところが、到頭やりましたよ、親分」

「――」

「成瀬屋の用心棒――腕自慢の力自慢で、その上恐ろしく氣の強い番頭の傳六が、見事に芋刺しになりましたよ」

「殺されたといふのか」

「寢てゐる心の臟をたつた一と突きだ。グウとも言はずにやられたらしいんで」

「お前見て來たのか」

「恐ろしい手際だ。行つて見ませんか親分」

八五郎が舌を振るつて驚いてゐるのです。

「よし行つて見よう。幽靈を縛るのも洒落て居るだらう。案内してくれ」

「有難い、親分が動き出しや百人力だ。ところで此の儘ぢやあつしの方が動けませんよ」

「どうしたんだ」

「まだ朝飯にあり付かないんで、――あわてて飛出したが、空つ腹に小石川は遠過ぎましたよ」

「馬鹿だなア」

八五郎の爲に遲い朝飯の用意をする女房のお靜の後ろ姿を見乍ら平次は苦笑しました。

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