Chapter 1 of 6

飯田町の地主、朝田屋勘兵衞が死んで間もなく、その豪勢な家が、自火を出して一ぺんに燒けてしまつたことがあります。火事は幸ひ一軒で濟みましたが、主人勘兵衞が死んだ後、思ひの外の大きい借金があつたりして、暮を越し兼ねての細工ではないかなどと、變な噂が立つたりしたものです。

「へツ、へツ、親分、變なことがありましたよ」

ガラツ八の八五郎相好を崩して飛込んで來たのは、松が取れたばかりの、薄寒く暮れた宵の口でした。

「何をニヤニヤしてゐるんだ。少し顏の紐を締めて歩けよ、松は取れてゐるぜ」

口小言をいひ乍らも、錢形平次は嬉しさうでした。天氣はよし、御用はなし、退屈しきつてゐるところへ、この少々タガのゆるい子分がやつて來て、漫談放語するのは、決して惡い心持ではなかつたのです。

「だつて、親分、場所は九段の牛ヶ淵ですよ。ピカピカするやうな娘が一人、しよんぼり立つてゐるから、思はず聲を掛けたと思つて下さい――あぶないぜ、お孃さん、そんなところに立つて水なんか眺めてゐると、河童に見込まれないものでもあるめえ、惡いことは言はないから、さつさと家へ歸るが宜い――とね」

「牛ヶ淵に河童が居るかえ」

「物の譬ですよ」

「顎の長い浮氣な河童ぢやあるまいな」

「へツ、冗談でせう」

「で、その河童ぢやない――娘は、何んと言つた」

「あつしの顏を見て居りましたが、いきなり、あら八五郎親分、丁度宜いところでお目にかゝりました。私はもう怖くつて怖くつて、何うしませうと――噛り付きやしませんがね、まア、斯う噛りつきたいやうな恰好をしたと思つて下さい」

「間拔けだなア、あの邊に惡い狐が居るやうな話は聞かないけれど――」

「狐ぢやありません。ピカピカするやうな人間の新造ですよ」

「ヒネた人間で拵へた新造だらう、白粉厚塗りの女實盛だ、人別を調べると還暦に近い代物さ、柳原から河岸を變へたことは知らなかつたが――」

「いやになるなア、夜鷹や惣嫁ぢやありませんよ。親分も御存じの、中坂の朝田屋の娘お縫、此間の火事の時、お調べに立ち會つたんで、あつしの顏を覺えてゐたのですね」

「男が好いととくだね」

錢形平次と八五郎は、相變らず斯んな調子で話を運んで行くのでした。

「良い娘ですね、新粉細工に息を通はせたやうな――」

「膝なんか乘出さずに――その娘が何が怖いといふのか、筋を通して見な」

「何が怖いといふ、はつきりした據りどころがあれば、お隣の三河屋の源次郎さんに相談して、除けるとか取拂ふとか、工夫も手段もあるだらうが、目にも見えず、耳にも聞えず、口でも言へないモヤモヤしたものが、此間から朝田屋の一家に祟つてゐるやうで、ゐても起つてもゐられないから番町の叔母さんに相談しようか、錢形の親分にお願ひしようかと、フラフラと出て來たんださうで――」

「暗くなつてからかい、若い娘が――」

「まだ、日が暮れたばかりで、そんなに暗くなつたわけぢやありませんが、兎も角若い娘の獨り歩きする時刻ぢやないから、叱るやうにして家へ送り屆けて來ましたよ」

「それは良かつた。が、朝田屋は燒け出された筈だが、何處に住んでゐるんだ」

「左前になつたと言つても、昔からの地所持の家持ですから、町内の貸家を一軒あけさして、母親と小さい弟と、それに下男の猪之吉といふ小佛峠で生け捕つた熊の子のやうな男と四人一緒に住んでゐますよ」

「外に近い身寄はないのか」

「厄介な兄が一人あるさうですよ、朝田屋の亡くなつた先妻の連れ子で、朝田屋と血の繋がりはないから、一年越し音信不通で、この秋朝田屋の主人勘兵衞が死んだ時も、顏を出さないといふことで」

「何處に居るんだ」

「どうせ傳馬町の無宿牢か、佐渡ヶ島だらうなんて近所でも噂は散々でさ。朝田屋で育つたには相違ないが、生みの母親が死んでからは、手綱も轡もきかず、到頭一年前に義理の父親と大喧嘩をして家出したんださうです。生きて居れば、二十七八になるだらうといふことで」

「それつきりのことか」

「娘のお縫を送り屆けた序に、近所で當つて見て、これだけのことは掻き集めて來ましたがね」

八五郎の報告は一向取留めもありませんが、

「若い娘が、ゐても起つても、といふほど脅えてゐるのは、何にか曰くのあることだらう。精々氣をつけて居るが宜い」

「へエ」

この平次の感は見事に當りました。朝田屋を繞つて、翌る朝も待たずに不思議な事件が起つたのです。

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