Chapter 1 of 5

兩國の川開きが濟んで間もなく、それは脂汗のにじむやうな、いやに、蒸し暑い晩でした。その頃上方から江戸に入つて來て、八百八町の恐怖になつた、巾着切と騙りの仲間――天滿七之助の身内十何人を珠數つなぎにして、江戸つ子達にやんやと喝采を送られた錢形平次と八五郎は、町奉行村越長門守樣小梅の寮に招かれ、丁寧なねぎらひの言葉があつた上、別室で酒肴を頂いて、寮を出たのはかれこれ亥刻近い時分でした。

平次も八五郎も悉く充ち足りた心持で、醉顏を濕つぽい夜風に吹かせ乍ら、兩國橋の上にかゝると、丁度金龍山の亥刻(十時)の鐘が鳴ります。上を見て通れ――と言はれた夏の兩國橋、亥刻過ぎになると、水の面もさすがに宵の賑はひはありませんが、それでも絃歌の響や猪牙を漕がせる水音が、人の氣をそゝるやうに斷續して聽えるのでした。

八五郎の他愛もない手柄話を空耳に聽き乍ら、丁度橋の中程まで來た時のことです。

「あ、八、身投げだ。後ろからソツと行つて抱き留めろ」

「醉つ拂ひぢやありませんか、親分」

「いや、醉つ拂ひぢやない。死に神に憑かれて雪を踏むやうに歩いて居る――危ないツ」

平次の言葉を半分聽いて、八五郎はもう行動を起して居りました。月はまだ出ませんが水明りに透して見當を定めると、反射側の欄干の方へフラフラと吸ひ寄せられて型の如く履物を脱ぎ、何やら口の中でブツブツ言ひ乍ら、飛び込まうとする男の後ろから、

「おつと待つた」

八五郎はガツキと組付いたのです。

「あ、死なせて下さい。お願ひ」

「何をつまらねエ。良い年をしやがつて、死に急ぐことはあるめえ」

羽交ひ締にしたまゝ、欄干から引き剥さうとしましたが、この身投男は思ひの外の剛力で、容易に八五郎の手に了へません。

「離して下さい。死ななきやならないわけがあるんだ」

「そのわけといふのを聽かうぢやないか。待ちなよ爺さん」

「離して下さいよ。あれ、着物が破けるぢやねえか」

「何を、今死ぬ氣になつたものが、着物くらゐ破けたつて」

「あツ、痛いツ、痛いよ。髻を掴んで引いちや、――無法な人だね、お前さんは」

「少しくらゐ毛が拔けたつて命に別條はないよ。剛情な爺いぢやないか」

「お前さんこそ亂暴だよ」

「何を」

この不思議な爭ひの馬鹿々々しさを、平次は面白さうに眺めて居りましたが、潮時を見て漸く二人を引離しました。

「八、もう宜い――死に神が落ちたやうだ。髻を掴むのは止せ」

「へエ、呆れた爺いだ。こんなに死にたがる野郎を俺は見たこともなえ」

八五郎はブリブリ言ひ乍ら、それでも老人の側から離れて、自分の衣紋などを直して居ります。

「爺さんも強情過ぎるよ、――死ぬ氣になつたのは、よく/\の仔細があるだらうが、留める方だつて、道樂や洒落ぢやない」

「へエ、まことに相濟みません」

老人は死に神から解放されて、張合ひ拔けのしたやうに、ピヨコリとお辭儀をしました。

「此處で話もなるめえ。何處かで一杯と言ひ度いところだが、もう亥刻過ぎだ。少し遠いが、俺の家まで行かないか」

「へエ」

「それともお前の家まで送つてやらうか。爺さん家は何處だえ」

「相州小田原在でごぜえますだアよ」

「少し遠いな」

八五郎は遙かの夜空に小手をかざします。

「馬鹿だなア、小田原まで行く氣でゐやがる――ね、爺さん。あんなノウテンキな野郎だが、命の恩人だと思つたら、髻を掴まれたくらゐ勘辨出來ねえこともあるめえ。サア、人立ちがするとうるせえ、歩いたり、歩いたり」

平次にさう言はれると、さすがに死ぬ氣を挫かれて淋しくなつたものか、老人は素直にうなづいて、平次の後ろから跟いて行くのでした。その後ろから虎視眈々として八五郎、老人が逃げ出したら、もう一度髻を掴んで引戻す氣だつたことでせう。

Chapter 1 of 5