Chapter 1 of 6

「親分、良い天氣ですぜ。チラホラ梅は咲いてゐるし、お小遣はフンダンにあるし――」

「嘘をつきやがれ。梅の咲いたのは俺だつて知つてゐるが、八五郎の財布にお小遣がフンダンにあるわけはないぢやないか」

錢形平次と子分の八五郎は相變らずの調子で始めました。

「なアに、お小遣のフンダンにあるのは親分の財布で――」

「あれ、人の財布の中まで讀みやがつて、氣味の惡い野郎だな」

「そこで、ちよいと御輿をあげてくれませんか。すぐ其處なんだが」

平次の出不精を知り盡してゐる八五郎は、ツイ餘計な細工までするのでした。

「いやに落着いてゐるやうだが、お前はもう今朝三里も歩いてゐるだらう――額口に汗を掻いて足から裾は埃だらけぢやないか。良い若い者が、長刀になつた草履なんか履いて行くのは、止しちやどうだ」

「叶はねえなア、親分に逢つちや、――でも埃は草履のせゐで、道はそんなに遠くはありませんよ」

「何處だ?」

「小石川表町、傳通院の前。山の手一番と言はれた呉服屋、鳴海屋の娘が殺されたらしいんで、富坂の周吉親分からの使ひで、朝のうちに一と走り行つて見て來ましたよ」

「それで?」

「死んだのは鳴海屋の娘でお町といふ十八の可愛いゝ盛り。井戸へ落ちて死んだといふ屆出だが、死骸を見ると、腑に落ちないことばかりだ。ちよつと親分行つて見て下さい。周吉親分が持て餘して、井戸ばかり覗いてゐますよ」

「仕樣がねえなア」

「十八や十九の滅法可愛らしいのが、寢卷で井戸へ飛び込むのも色氣がなさ過ぎるし、過ちにしても、水垢離を取りやしめえし、若い娘が、夜中に井戸端へ行くのも變ぢやありませんか」

「大層氣が付くぢやないか。其處まで解るなら、俺を呼出す迄もあるめえ」

平次の尻の重いのは、出來ることなら八五郎に手柄を立てさせようといふ、子分思ひの不精さでもありました。

「自慢ぢやねえが、その先は少しもわからねえ。周吉親分もさう言ひましたよ、八五郎兄哥にさう言つてやつたら、錢形の親分をつれて來てくれるだらうと思つたのに、獨りで來るのは人の氣も知らない、――てね」

「厄介だなア、――二月の寒空に、良い新造が井戸へ飛び込むか、飛び込まないか、理屈を拔きにしたつてわかるぢやないか」

さう言ひながらも平次は、手早く支度をして、八五郎を案内に、表町の鳴海屋に乘込みました。

無量山壽經寺が徳川幕府時代所謂傳通院殿のお靈屋と澤藏司稻荷で有名になり、大奧の尊崇を集めて、江戸の一角に儼然たる威容を持したことは、改めて言ふまでもないことですが、百餘宇の學寮を持ち、數千の所化を養つて、この邊一帶の町家の潤ひになつたことなどは、今の人には想像も及びません。

その所化寮の前、表町に角店を張つた鳴海屋の繁昌は、下町にも珍らしい特色的なものでした。前の主人彌左衞門は三年前に他界して、今は若い後家お富が、男優りの氣性と、珍らしい聰明さと、そしてそれよりも年齡を超越したきりやうで、店中の者を手足の如く使ひ、亡き夫彌左衞門在世の頃に優るとも劣らぬ繁昌振りを續けて居るのも、山の手衆の噂の一つになつて居りました。

その日はさすがに店を閉ぢ、大戸をおろしてひつそりとして居りますが、足一たび潜戸の中に入ると、不安と焦躁と、押し潰された恐怖が入り混つて、何んとも言へぬ緊迫した空氣を感じさせるのも已むを得ないことでせう。

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