一
「ヘッヘッ、ヘッ、ヘッ、近頃は暇で暇で困りゃしませんか、親分」
「馬鹿だなア、人の面を見て、いきなりタガが外れたように笑い出しやがって」
「でも、銭形の親分ともあろう者が、日向にとぐろを巻いて、煙草の煙を輪に吹く芸当に浮身をやつすなんざ天下泰平じゃありませんか。まるで江戸中の悪者が種切れになったようなもので、ヘッ、ヘッ」
「粉煙草がひとつまみしか残っていないのだよ。芸当でもやらなきゃ、煙が身につかねえ」
「煙草の煙を噛みしめるのは新手ですね。尤もあっしなんかは、猫が水を呑む時のように、酒を嘗めて呑むてを考えた。一合あると請合い一刻は楽しめますぜ」
親分も貧乏なら、子分も貧乏でした。八丁堀の旦那方をはじめ、江戸の岡っ引の大部分が、付け届けと役得で、要領よく贅沢に暮している中に、平次と八五郎は江戸中の悪者を顫え上がらせながらも、相変らず潔癖で呑気で、その日その日を洒落のめしながら暮しているのです。
「呆れた野郎だ、そんなことをしたら呑む下から醒めるだろう。それより鼻の穴から呑んでみねえ、とんだ利きが良いぜ」
「ところで、そんなに暇なら、少し遠出をしてみちゃどうです」
八五郎は話題を変えました。相変らず事件の匂いを嗅ぎ出して、平次を誘いに来た様子です。
「どこだえ。正燈寺の紅葉には遅いし、観音様の歳の市には早いが――」
「いやに鬼門の方ばかり気にしますね――、実は四谷伊賀町に不思議な殺しがあったそうで、弁慶の小助親分が、銭形の親分を連れて来るようにと、使いの者をよこしましたよ」
「四谷伊賀町なら裏鬼門だ。が、赤い襠とは縁がないな」
「その代り殺されたのは、山の手一番の色娘に、もとを洗えば品川で勤めをしていたという、凄い年増ですよ。曲者は綺麗なところを二人、虫のように殺して、こうスーッと消えた――」
八五郎の話には身振りが入ります。
「お前に言わせると、殺された女はみんな綺麗で、無事に生きている女はみんなお多福だ、――先ア歩きながら話を聴こうよ」
明神下から九段を登って、四谷伊賀町へはかなりの道のりですが、初冬の陽ざしが穏やかで、急ぎ足になると少し汗ばんで来るのも悪い心持ではありません。
「ね、親分、もとはと言えば遠眼鏡が悪かったんですよ。あんな物がなきゃ、二人の女が殺されずに済んだ筈です」
「ヘエ――、遠眼鏡ね。そいつは年代記ものだぜ。遠眼鏡の人殺しなんてえのは」
「眼鏡で叩き合いをやったわけじゃありませんよ。こういうわけで――」
「――」
「四谷伊賀町に、三千石の大身で伊賀井大三郎様という旗本がありますがね、無役で裕福で、若くて好い男で、奥方がみっともなくて、道楽強いと来てるからたまりませんや」
「まるでお前とあべこべだ」
「その殿様が近ごろ和蘭舶来の素晴らしい遠眼鏡を手に入れ、二階の縁側から、あちらこちらと眺めるのを楽しみにしていた――というのがことの起りで」
「――」
平次も黙ってしまいました。話がどうやら重大らしくなっていくのです。
「その遠眼鏡の中へ、いきなり滅法綺麗な娘の顔が映ってとろけるようにニッコリしたとしたら、どんなもんです、親分」
「俺はそんな覚えはないよ」
「殿様はブルッと身ぶるいして、その晩から寝込んでしまった」
「風邪を引いたのか」
「この道ばかりは銭形の親分でも見立てがつかねえ、――手っ取り早く言えば、恋の病ですよ。三千石の殿様が、町内の小間物屋の娘お君坊に惚れてしまったんだから厄介だ」
「たいそう古風なんだね」
「お君は山の手一番と言われた好い娘ですよ。年は十九で色白で愛嬌があって、色っぽくて、粉細工のように綺麗だ――裏へ出て洗濯か何かして、腰を伸ばして家の中の妹と話をして、思わずニッコリしたところを、二三十間先から遠眼鏡で見た殿様は、自分へ見せた笑顔だと思い込んでしまった、――恐ろしい早合点ですね」
「――」
「それから夢中になって、朝から晩まで二階に登って、遠眼鏡と首っ引だ。奥方の弥生様はあばたで大嫉妬と来てるからたまらない。早くも殿様の素振りに気が付いて、目当てが町内の小間物屋の若くて綺麗な評判娘とわかると、殿様の胸倉を掴んで、遠眼鏡をねじり合う騒ぎだ」
「早く筋だけ話せよ。お前の話には、相変らず無駄が多くてかなわない」
「筋だけ運んじゃ木戸銭になりませんよ。四谷は遠い、ゆっくり聴いて下さいよ」
「講釈の気でいやがる」
「殿様は人橋を架けて清水屋に掛け合い、娘お君を奉公に出せという無理難題だ。奉公というのは、申すまでもなく手掛け奉公だが、清水屋にはゆくゆくはお君と一緒にするつもりで、親類から貰った市太郎という養子がいる」
「面倒だな」
「その人橋の中には、伊賀井家へ出入りしている植木屋辰五郎の女房で、お滝という凄いのがいる。こいつはもと品川で勤めをしていた三十女で、以前は武家の出だというが、自堕落の身を持崩して、女の操なんてものを、しゃもじの垢ほどにも思っちゃいない。伊賀井の殿様に悪智恵をつけて、八方から清水屋の父娘を責めさいなんだ。金ずく、義理ずく、それでもいけないとなると、今度は腕ずくで脅かした」
三千石の裕福な殿様が、吹けば飛ぶような裏町の小間物屋に加えた圧迫の手は、残酷で執拗で悪辣を極めたものでした。
品川の女郎上がりのお滝――恥も外聞もとうの昔に摺りきらしてしまった凄い年増が軍師で、十九娘のお君が、好色の旗本の人身御供に上るまでの経緯は、平次にはよくわかるような気がするのです。
ガラッ八の話はまだ続きます。
「――一方では伊賀井の殿様の奥方――弥生の方は、御主人の気違い沙汰に取逆上て、これは本当に気が変になり、ひと間に押し込められて、体のいい座敷牢暮しをするようになった。それをまたいいことにして、いよいよ清水屋を説き落し、大枚三百両の支度金まで投げ出して、いよいよ明日の晩は、お君を伊賀井家に乗込ませると決った――昨夜になって、肝心のお君は自分の家の裏口で、植木屋の女房のお滝は、お湯の帰りをそこから一丁とも離れていない御仮屋横町の入口で、背中からひと突きにやられて死んでいるじゃありませんか。お滝なんぞいい気味だが――」
「なんという口をきくのだ」
「ヘエ、相済みません。お滝はどうせ百まで生きていたって、人様のためになる人間じゃないが、清水屋の娘のお君が可哀想でなりません。それを狙って爪を磨いだ旗本の殿様なんか穀つぶしみたいなものだが――」
「少しはたしなめよ八、人に聴かれたらうるさいことになるぞ」
「相済みません。が、あっしは本当のことを言っているんだ――山の手一番と言われた娘を、十九で殺しちゃもったいなさ過ぎます。ね、親分。十手冥利にこいつは是が非でも下手人をあげて、思い知らさなきゃ虫が納まりませんよ」
八五郎の拳骨は、冬の陽を受けて宙に躍るのです。