一
「親分、ありや何んです」
觀音樣にお詣りした歸り、雷門へ出ると、人混みの中に大變な騷ぎが始まつてをりました。眼の早い八五郎は、早くもそれを見つけて、尻を端折りかけるのです。
「待ちなよ、八。喧嘩か泥棒か喰ひ逃げか、それとも敵討ちか、見當もつかねえうちに飛び込んぢや、恥を掻くぜ」
平次は若駒のやうにはやりきつた八五郎を押へて、兎も角にも群衆をかきわけました。
「はいよ、御免よ」
などと、八五郎は聲を張りますが、場所が場所なり日和もよし、物好きでハチきれさうになつてゐる江戸の彌次馬は、事件を十重二十重に圍んで、八五郎の蠻聲でも道を開いてはくれません。
その間に誰が氣がついたものか、
「錢形の親分だよ、道を開けなきや――」
などと言ふものがあり、やがて道は眞二つに割れます。
群衆の中に、居竦んだのは二人の若い男女、男の方は三十前後の町人風で、女の方は十八九の旅姿の娘、これは非凡の美しさですが、何處か怪我をした樣子で、身動きもならず崩折れてゐましたが、それを介抱してゐる男の方も、額口を割られて、潮時のせゐか、鮮血が顏半分を染めて居ります。
「どうしたんだえ、これは?」
平次は、兄妹とも夫婦とも見える、この二人の前に突つ立ちました。
「へエ」
「怪我をしてゐるぢやないか」
「危なく返討ちになるところでした――、親分さんが、お出で下さらなきや」
若い男は、血だらけの顏を振り仰ぐのです。
色白で少しのつぺりして居りますが、なか/\の好い男です。縞物の地味な袷、小風呂敷包みを、左の手首に潜らせて、端折つた裾から、草色の股引が薄汚れた足袋と一緒に見えるのも、ひどく手堅い感じでした。
「返討ちは穩やかぢやないな、――一體どうしたといふのだ。いや、此處ぢや人立がして叶はない。八、その通の茶店の奧を借りるんだ、お前は娘さんを――」
平次は眼顏で八五郎に合圖すると、直ぐ傍の茶店の奧へ若い男をつれ込みました。
その後から、旅姿の娘に肩を貸して、同じ茶店の奧へ入つて來る、八五郎の甘酢ぱい顏といふものは――。
何しろ娘の可愛らしさは非凡でした。旅姿も舞臺へ出て來た名ある娘形のやうで、汗にも埃にも塗れず、芳粉として青春が匂ふのです。
「先づ、その傷の手當てをするがいゝ」
奧へ入つた平次は、若い男の右小鬢の傷を、茶店で出してくれた燒酎で洗つて、たしなみの膏藥をつけ、ザツと晒木綿を卷いてやりました。打ちどころが惡くて、ひどく血は出ましたが、幸ひ大した傷ではなく、かうして置けば四五日で治りさうにも見えます。
「まア/\こんなことで濟んでよかつたよ。ところで、深いわけがありさうだが、それを聽かして貰はうか」
「有難うございます。錢形の親分さんださうで、飛んだところで、良い方にお目にかゝりました」
「敵討ちが望みなら、強さうな武者修行か何んかに助けて貰う方がよかつたかも知れない。俺ぢや、助太刀の足しにはならないぜ」
「飛んでもない、親分さん」
それから温いお茶を呑んで、煙草を吸ひながら、心靜かに平次は、二人の話を聽いたのです。
「――私どもは腹違ひの兄妹で、私は山之助、妹はお比奈と申します。遠州濱松の生れで、父は榮屋といふ大きな呉服屋をいたして居りましたが、今から十年前父の山左衞門は、家中の惡侍大友瀬左衞門といふ者に討たれ、それが因で一家離散をしてしまひました」
山之助は涙ながらに――文字通り、涙に濡れて語り進むのでした。
大友瀬左衞門が榮屋山左衞門を討つたのは、少しばかり用立てた金を、やかましく取立てた怨みで、榮屋もそれで潰れましたが、大友瀬左衞門も、城下の町人を殺した罪で永の暇になり、それからは良からぬ者を集めて、自ら首領になり、海道筋を荒し拔いた上、近頃は江戸に入つて、押込強盜を働いてゐるといふ噂でした。
山之助はそれから間もなく、知邊を尋ねて江戸に入り、新鳥越の呉服屋、越中屋金六といふのに奉公して、親の敵討ちは叶はずとも、せめて父祖の家、榮屋を再興する念願に燃えて、一生懸命働いてをりましたが、
「――故郷の濱松在の叔母に預けて來た妹のお比奈が、叔母が死んで頼るところがなくなり、一人旅の苦勞を重ねて、江戸の新鳥越に、兄の私を訪ねて參りました。それはツイ二日前のことでございます」
ところが、肝腎の兄が奉公してゐる越中屋といふのは、もとは日本橋で相當の店を開いてゐたが、主人の金六が中風を患つて沒落し、今では新鳥越に引つ越して、呉服屋とは名ばかり、主人一人奉公人一人の見る影もない小布屋に成り下がり、妹お比奈が折角濱松在から訪ねて來ても、お勝手の板の間より外には、寢かす場所もないといふ有樣だといふのです。