一
「お早やうございます」
花は散つたが、まだ申分なく春らしい薄靄のかゝつた或朝、ガラツ八の八五郎は、これも存分に機嫌の良い顏を、明神下の平次の家へ持込んで來ました。
「大層寢起きが良いな、八。挨拶だつて尋常だし、月代だつて、當つたばかりぢやないか、何つかに結構な婿の口でもあつたのかえ」
平次は煎餅になつた座布團を滑らしてやつて、ぬるい茶を注いでやつたりするのです。
「婿の口はありませんが、岡惚れの口がありますよ。新色と申し上げてえが、まだ當つて見たわけぢや無いから」
「ヌケヌケした野郎だ」
「これから脈を引いて見るんだから、挨拶だつてぞんざいぢや惡いし、月代位は當つて置かなきア――」
「元金が掛らねえことばかり考へてやがる、――ところで、その新惚れてえのは何處のお乳母さんだえ」
「へツ、イキの良い人間の新造ですよ、親分」
「當り前だ、おコンコンの化けた新造だつた日にや、第一俺が不承知だ」
「ま、はぐらかさないで、聽いて下さいよ、斯ういふわけで」
「大層改まつたね」
でも、平次は神妙に、八五郎の話を聽く氣になりました。何んか深いわけがありさうな氣がしたのです。
「昨日向島で散々毛虫を眺めて」
「そんなものをわざ/\眺めに行つたのか」
「葉櫻見物ですよ、――櫻の葉つぱなんか見たつて面白かありませんが、歸りに一杯飮ませるからと、原庭の仙吉の野郎が言ふから、橋場の渡しを越えて向島を眞つ直ぐに、枕橋を渡ると、いきなりつれ込んだのは、中の郷の茶店ぢやありませんか。澁茶に團子ぢや少し話が違ふと思つたら、あつしを待つて居てくれたのが、その可愛らしくて利口さうでお品の良い、出來たての新造とわかつて、酒や肴なんかは、どうでもよくなりましたよ」
「出來たての新造つて奴があるかえ」
「あんなのは、本當に蛹から出たばかりの蝶々のやうなもので、人間附き合ひをさせて置くのは勿體ない位」
「それがどうした」
「驚きましたよ、その娘といふのは、本所八軒町で名題の大分限、石川屋權右衞門の一人娘お梅さんといふんだ相で」
「石川屋の一人娘ぢや、吊鐘がでつか過ぎて、お前は鼻から出た提灯位にしか見えないよ。惡いことを言はないから、はなつから諦らめてた方が宜いぜ」
「あつしが鼻提灯に見えますかね、驚いたね、どうも」
「ところで、お前に用事といふのは何んだえ?」
「口惜しいが、その目的もあつしぢや無いんで、錢形親分さんに逢はせてくれと、手を合せての頼みだから、いやになるでせう」
「いやになる事は無いよ」
「訊くと、十日前に、父親の石川屋權右衞門は死んだんだ相で、葬ひも濟んでしまつたし、何んにも言ふことは無いわけだが、その死にやうが、どうも腑に落ちないと――斯う言ふぢやありませんか」
「フーム、何が氣に入らないんだ」
「十八の娘の智惠ぢやありませんね、あれは。――父親の權右衞門が釣に行くと言つて出かけたのは、十日前の四月一日の晝過ぎ、業平橋の下から、横川筋へかけて、時々青鱚か沙魚を釣りに行くのが樂しみなんだ相で、その日も暮れるまでには歸つて來ることゝ思つて居ると、日が暮れても、夜が更けても、翌る朝になつても歸らず、それから大騷動になつて搜しに出かけると、間もなく、業平橋の下で、死んでゐるのが見つかつたといふのです」
「フーム」
「八軒町の店から近いので、身體の弱い内儀だけを殘して家中の者が皆んな飛出して行つた相です。すると、主人の權右衞門は、橋の下に繋いであつた小船の中で、仰向けになつて死んで居たと言ひます」
「仰向けに?」
「見ると、ひどく苦しんだ樣子で、二た眼と見られない凄い顏付をして居たが、身體には傷も何んにも無い。が、死んで冷たくなつてゐたことは本當で、水も呑まず、絞め殺された跡もなく、誰が見てもこれは頓死です」
卒中か、心臟痲痺か、兎も角そんなのを昔の人は頓死といふ言葉で片付けてしまひました。
「それから?」
「ザツト藪醫者に診せて、お寺が引受けて、何も彼も濟んでしまつたが、納まらないのは、お孃さんのお梅さんの胸のうちだ。死骸に傷が無いから頓死にして了ふのは、いかにも無造作で諦め切れない、それに――お梅さんは言ふんですよ。父親の死骸の側には釣道具は皆んな揃つて居たが、少し揃ひ過ぎたことがあつた」
「揃ひ過ぎた? 變な言ひ草ぢやないか」
「船の中に抛り出してあつた釣竿には、かなり大きな鯉が付いて居たんだ相で」
「鯉?」
「親分も變に思ふでせう。タナゴ竿のやうなヒヨロヒヨロの竿で、潮の入る横川筋ででつかい鯉が釣り上げられるわけは無いが、兎も角それはそれとして、何處かの釣堀からでも逃げて來て、權右衞門の竿に引つ掛つたのを、權右衞門、驚いて上げる拍子に、あんまり喜んで頓死した――といふことで、お葬ひも濟ませたが」
「まだ變なことがあつたのか」
「お梅さんが言ふんですよ。釣針に鯉が引つかゝつて居たが、もう鯉も死んでゐるのに、針は鯉が呑んだのでは無くて、外から鰓に引つ掛けてあつた――と斯う言ふんです」
「フム?」
「騷ぎと歎きの中で、その時は紛れてしまつたが、後で考へると、どうも釣竿の鯉のことが氣になつてならない、そつと母親のお時さんにも話して見たが、年寄はそんな話を相手にしてくれないから、一度錢形の親分の耳に入れ度いと、原庭の仙吉に頼んで、あつしを呼出したといふわけですよ」
八五郎の話は、これで大方終つたやうですが、平次は默り込んでしまつて、何んの意見も言つてくれません。
「石川屋の後は誰が立てるんだ」
「いづれ一人娘のお梅さんに、婿を取ることになるでせうね。今は主人の義理の弟の新之助といふのと、番頭の徳松と、後家のお時とが、兎も角もやつては居るやうです。別に商賣はして居ないが、中の郷一番の金持で、大した身上だといふことですが」
「娘の婿はきまつて居ないのか」
「番頭の徳松の伜の徳三郎といふのが、婿になり度い樣子だ――と仙吉は言つてはゐましたが、これはお梅さんが承知しさうもありません」
「他には?」
「石川屋には金があつて、娘が滅法綺麗だから、本所中の男の切れつ端は、皆んな夢中ですよ。その中でも業平橋の房吉といふのが、昔の良い男の業平にあやかり度いやうな顏をして居ますが、小博奕が好きで身が持てないから、死んだ先代の權右衞門は、寄せつけないやうにして居た相で」
「他に氣のついたことはないのか」
「内儀のお時さんは病身で、主人の權右衞門は町内の師匠のお朝といふ良い年増の世話をして居た相で、その筋からも、人の怨を買つて居たかも知れません」
「いろ/\厄介なことがあるらしいな。首を突つ込んで調べたら、釣竿の鯉の謎も解けない事はあるまいが、俺は暫らく手を放せねえことがある。お前が行つて、精一杯かきまはしてくれないか」
「掻き廻すんで?」
「不足らしい顏をするな。どうせ掻き廻すだけの事だらうが、岡つ引がウロウロして見せると、身に覺えのある奴は、何んか細工をして見たくなるものだ」
「へエ、よくわかりました。精一杯掻き廻して見ませう。泥鱒位は飛出してくれるかも知れません」
八五郎は大して嫌な顏もせずに、暫くは中の郷八軒町を見張ることになりました。