Chapter 1 of 8

二月のある日、歩いてゐると斯う、額口の汗ばむやうな晝下がり、巣鴨からの野暮用の歸り、白山あたりへ辿りついた頃は、連の八五郎はもう、何んとなく御機嫌が斜めになつて居りました。

「大層元氣が無いやうだな、八」

平次は足を淀ませて、八五郎の長い顎を振り返りました。

「さういふわけぢやありませんがね、何處かで一と休みして、一服やらかさうぢやありませんか」

「煙草なら、歩き乍らでも呑めるぢやないか」

「風に吹かれ乍ら呑んだ煙草は身につきませんよ、それに掌の中で灰殼を轉がす藝當は、どうもあつしの柄にないやうで」

「氣取つたことを言やがる、それより、腹が減つたら減つたと正直に白状するが宜い、先刻から、野良犬を睨み据ゑたり、團子屋の看板を眺めたり、蕎麥屋の前でクン/\鼻を鳴らしたり、お前の樣子は尋常ぢやないぜ」

「大丈夫ですよ、野良犬なんかへ噛み付きやしませんから」

「實はな、八、少し目當てがあるんだよ、白山の白梅屋敷といふのを、お前聽いたことがあるだらう」

「知つてますよ、大地主の金兵衞の庭で、何百年とも知れぬ、梅の老木で名を知られた屋敷ですよ、龜戸には、梅屋敷や臥龍梅といふ名所もあるが、白山の白梅屋敷は、たつた一本の梅だが、山の手では珍らしいから騷ぐんでせうね」

「その梅は今を盛りだから、ちよいと見てくれと、此間から二度も使が來たのだ」

「へエ、梅を眺めたつて腹のくちくなる禁呪にはなりませんよ、親分」

「又腹の減つた話だ、お前といふ人間は、よく/\風流には縁が遠いな」

「親分だつて、歌もヘエケイもこね廻しやしないでせう」

「その通りだ、濟まねえが、梅を眺めて脂下るほどの人間には出來てゐねえが、續け樣に來た二本の手紙に、腑に落ちないことがあるのだよ。腹の減つた序に、その曲りくねつた梅の老木を眺めて、歸りは白山下で一杯といふ寸法はどうだい」

「有難いツ、さすがは親分、話がわかりますね、さう段取がきまると、腹の虫なんかにグウグウ言はしやしませんよ、梅でも松でも櫻でも、覺悟をきめて晒さうぢやありませんか」

「花札と間違げえちやいけない」

平次と八五郎は、無駄を言ひ乍らも、白山の一角、詳しく言へば武家屋敷と寺と、少しばかり町家に挾まつて、坂なりに構へた白梅屋敷の金兵衞の家に入つて行きました。

多寡が地主の金持と思つたのは、大變な見縊りやうで、近所の木つ端旗本や、安御家人の屋敷などは蹴落されさうな家です。

「誰だえ」

不意に、物蔭から飛出して、平次の前に突つ立つたのは、四十五六のひどく御粗末な男でした。手にはドキドキする鎌を持つて、汚ない布子のジンジン端折り、捻り鉢卷がそのまゝずつこけたやうに、煮締めた手拭を、緩く首に卷いて、恐ろしい無精髯、金壺眼で、狐面で、聲だけは朗々と、威壓と虚勢に馴れた凄いバリトンです。

「この屋敷の梅を見せちや貰へないかね、大層立派だといふ話を聽いてゐるが」

平次は無造作に斯う言ひました。男はジロジロ二人の樣子を見て居りましたが、

「駄目だね、近頃はうるさいから、人に見せねえことにしてあるだ、それに、今日は主人も留守だよ」

まことに劍もほろゝの挨拶です。

「止しませうよ、親分、塀の外からだつてよく見れるぢやありませんか、屋敷は坂なりだから――まさか、匂ひも嗅いぢやいけないとも言はないでせう。」

ガラツ八は、甚だ氣乘りのしない樣子です、歸りの一パイの方に氣を取られてゐるのでせう。

「さうか、わざ/\やつて來たが、見せないと言はれちやそれまでのことだ、とんだ邪魔をしたね、さア、歸らうか、八」

平次は氣輕に背を向けました。半農半商風の頑固な建物で、其處から門は直ぐですが、振り返ると建物の後ろの方から、巨大な老梅の、花少なに淺黄色の春の空に蟠まる姿が見えるのでした。

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