Chapter 1 of 8

「八、居るかい」

向う柳原、七曲の路地の奧、洗ひ張り、御仕立物と、紙に書いて張つた戸袋の下に立つて、平次は二階に聲を掛けました。よく晴れた早春のある朝、何處かで、寢呆けた雄鷄が時をつくつて居ります。

「誰だえ、人を呼捨てにしやがつて、戸袋の蔭から出て、ツラを見せろ」

八五郎の長んがい顎が二階の窓へ出ると、滿面に朝陽を浴び乍ら、眩しさうに怒鳴るのです。

「大層な見識だな、八」

「あ、親分ですかえ、こいつはいけねえ、又町内の餓鬼大將が、作り聲でからかつてゐるのかと思つて、――」

八五郎は面喰つて、階子段を二つづつ飛降りて來ました。

「本所の二つ目まで附き合はねえか」

「何處まででも附き合ひますよ」

「それぢや大急ぎで朝飯を濟ましてくれ、此處で待つて居るから」

平次はさゝやかな四つ目垣にもたれて、芽を吹いたばかりの貧乏臭い草花などを眺めて居ります。

「それには及ぶものですか、朝飯なんざ、昨日も喰ひましたぜ」

「あんな野郎だ、――面は洗つたことだらうな」

「それはもう、鹽磨きで、水の使ひやうが荒過ぎるつて、大家さんから小言をくひましたよ、何しろ若くて獨り者で、良い男だ」

「呆れた野郎だ」

「親分が一緒なら氣が強いや、いづれ歸りは幾代餅か、毛拔鮨か、――もゝんじい屋は少し時刻が早いが――」

「下らねえことを言はずに、空き腹を覺悟ならついて來い、だが、叔母さんが見えないぢやないか、家を空つぽにして出かけても大丈夫か」

「ちよいと隣へ頼んで行きませう、尤も泥棒に狙はれるやうな不心得な奴は、このお長屋には住んでゐませんがね」

八五郎はお隣の女房に留守を頼んで、平次の後を追ひます。

「ところでお前は、相生町の坂田屋といふ酒屋を知つてゐるのか」

兩國を渡ると、平次は思ひ附いたやうに、こんなことを訊くのでした。

「其處へ行くんですか? 親分」

八五郎はひどく驚いたらしく、往來の眞ん中に立ち止りました。

「それが何うしたんだ、相生町の坂田屋に何んかあるといふのか」

「あつしも近いうちに一度坂田屋を覗く積りでゐましたよ」

「誰かお前を呼出した者でもあるのか」

「手代の喜三郎といふ良い男ですよ、手紙もよこし、本人も來ましたが、『どうも私は殺されさうな氣がして仕樣が無いから、一度坂田屋を覗いて下さい――』といふんでせう」

「フーム」

「よくある冗談だから、あつしはまだ行つてやらなかつたんです、そこで親分を呼出さうといふ惡戯でせう」

八五郎はすつかり呑込んだことを言ふのです。

「惡戯か本氣か知らないが、俺のところにも、助け舟を呼んで、二人から手紙が來たよ、どつちも坂田屋のものだが、手代の喜三郎では無いやうだ」

「へエ? すると、坂田屋の者は三人も殺されかけてゐるわけですね、――親分へ手紙をよこしたのは、誰と誰です」

「坂田屋の内儀と、伜の柳吉だよ」

「へエ、驚きましたね、相生町の坂田屋といふと、本所でも評判の物持だが、その家がまるで死神に憑かれたやうなものですね」

「兎も角行つて見よう、こいつは容易ならぬことかも知れない、――ところでお前へ來たといふ手紙は?」

「これですよ」

八五郎はでつかい煙草入から取出して平次に渡しました。

八つに疊んで先を曲げた半紙を開くと、中はかなり達者な帳面字で、

私事は先日親分樣に無理を申上げ候相生町の坂田屋の奉公人、喜三郎と申すものに御座候、此間中から不氣味なこと相續き、今夜中にも殺されること必定と存じ候につき、親分樣の御助けを頂き度く、くれ/″\も御願ひ申上候―― とかなりはつきりしたことが書いてあるのです。

「この手紙をいつ受取つたんだ」

「昨夜ですよ、二三軒飮み廻つて、家へ戻つたのは子刻近かつたでせう、叔母さんが、手紙が來てますよと言つてくれたのを、階子段の途中で聞いて、今朝目がさめてから、受取つて讀むとこれでせう、もう間に合やしません」

「誰が持つて來たんだ」

「使ひ屋だつたさうですよ、吉原の女郎衆の色文から選り出したのが、この凄いやつで、尤も、天地紅の色文だつて、中味は大抵無心状に極まつてゐるから、凄くないことはありませんがね」

八五郎の話には、また無駄が入ります。

「妙なことがあるものだな」

平次は考込んでしまひました。相生町の坂田屋から、三人の人間が、しかも同じ日に助けを呼んでゐるといふのは、どう考へても容易ならぬことのやうな氣がするのです。

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