絵師の誇り
霖雨と硝煙のうちに、上野の森は暮急ぐ風情でした。その日ばかりは時の鐘も鳴らず、昼頃から燃え始めた寛永寺の七堂伽藍、大方は猛火に舐め尽された頃までも、落武者を狩る官兵の鬨の声が、遠くから、近くから、全山に木精を返しました。
「今の奴、何処へ逃げた」
「味方を四五人騙し討ちに斬って居るぞ。逃してはならぬ奴だ」
「まだ遠くへは行くまい」
「見付かったら、朋輩の敵、一と太刀ずつ斬るのだぞ」
背負太刀、ダン袋、赤い飾毛をなびかせた官軍が五六人、木立を捜り、藪を分けて鶯谷の方へ降りて行きます。
その背後から、物の影のように現われたのは、彰義隊士日下部欽之丞、二十四五の絵に描いたような美男ですが、軽傷を受けた上、幾人か斬った返り血が、乱鬢と、蒼い頬と、黒羽二重を絞った白襷に反映して、凄まじさというものはありません。
「――――」
不敵な舌鼓を一つ、四辺を見廻した欽之丞は、又も近づく人影に驚いて、木立の蔭に身を潜めました。
「畜生ッ、――俺は怪しい人間じゃねえ」
血の臭いに酔って、無暗に吠え付く犬を叱り乍ら、桐油をすっぽり冠って、降りしきる細雨の中をやって来たのは、絵師の月岡米次郎こと、大蘇芳年の一風変った姿です。
明治元年五月十五日の夕刻。
その時芳年は三十歳、御家人の子に生れて武士の血を享けた筈ですが、月岡雪斎に養われ、菊池容斎、葛飾北斎の風を学んで、心も姿もすっかり町絵師になり切って居りました。
浅葱の股引に草鞋がけ、桐油に上半身を包んで、目ばかり出した風体は、腰の矢立てと懐の画帳が無かったら、葛飾在から来た水見舞と間違えられるでしょう。
油のような生温かい雨が降るのに、芳年の身体は、ガタガタ小刻みに顫えて、時々はしゃっくりをして居ります。その上足許も不確かで、ヒョロヒョロと行っては、ぬかるみに足を取られて、泥の中へヘタヘタと坐ったりしました。
そのくせ、藪の中や道の上に、斬られて死んでいる死骸を見ると、彰義隊であろうと官兵であろうと一々覗いて、その相好と、歪んだ姿態を見極めずには居られなかったのです。
「ひどい傷だが、――仏様のような穏かな顔をして居る」
そんな無事な死顔は、芳年の興味を引かなかったのでしょう。
「これは凄い」
時々は死体の前に踞んで、懐から出した半紙横綴の帳面に矢立の筆を抜いて――細雨をかばい乍ら、写生の筆を走らせました。
不意に――
「居たぞ居たぞ」
バラバラと押っ取巻く官兵、ギラリギラリと幾条かの刃が芳年の眼に焼け付きました。
「あッ、お許し」
驚き騒ぐ芳年、桐油を引きられて襟髪を掴まれたまま、二つ三つ小突き廻されます。
「何者だッ、うぬッ」
「お許し、お許し下さりませ。私は怪しい者じゃございません」
行儀の悪い猫の子のように摘み上げられた芳年は、意気地無くもガタガタ顫え乍ら、両手を合せて居ります。
「怪しくないことがあるものか。其処で何をして居た」
風体は落武者とも見えません。多分戦塵のまだ納まらぬ山内に潜り込んで、掠奪を目論む泥棒とでも思ったのでしょう。
「絵を描いて居ります。私は、私は芳年と言う浮世絵師で――」
「何? 浮世絵師? 出鱈目な事を言えい。浮世絵師と言えば、美人や、役者や、道中の景色などを、面白可笑しく描いて、女子供の慰み物にするのが稼業ではないか、――どれ見せい、貴様の絵は――何んだこりゃ、どれもこれも、気味の悪い、斬り合いや、死骸や、梟し首ばかり、これでも浮世絵師と言うのか、怪しい奴ッ」
頭立った一人の武士、芳年の写生帳をバラバラと開いて、不審の眉を顰めます。
「そ、それは違います。あなたの仰しゃる遊女や役者や道中絵を描くのは、泰平の世の浮世絵師、――女子供の慰みにする気はなくとも、世の中に事が無いと自然絵までが穏かになりますが、此節のように、斬った張ったの世の中、耳元で鉄砲の音のする時節には、それ相応の浮世絵がなくてはなりません。この世の中に様々な姿を、あるが儘に写して、後の世に伝えるのは、絵筆とる者の勤めでござります。――今時華魁や役者の絵を描いて、一人で悦に入っていられましょうか」
芳年は一所懸命でした。自分に掛けられた疑惑を解くというよりも、硝煙と血潮の洗礼を受けた浮世絵師の、精一杯の誇りを――斯う高らかに言ってやり度かったのです。
「可笑しな奴だ、言う事は一と通り筋道が立っているが――そのくせガタガタ顫えて居るじゃないか。そんな臆病者に、血腥い場面が写せると思うか」
「写しますとも、ヘエ、身体の顫えるのは疳のせいで、私の臆病のせいじゃございません。こんな時本当に突き詰めた人間の姿を写して置かなきゃ、――私は浮世絵師に生れた甲斐がありません。何んの」
「よし、それじゃ、もっと凄いところを見せてやろう、一緒について来い」
「ヘエ――」
「さア」
促されて芳年は起ち上りましたが、意気地無くも膝の蝶番が崩れて、ヘタヘタと綿のように泥濘へ坐ってしまいます。
「た、起てません」
「ハッハッ、馬鹿な奴だ。腰が抜けたのか、そんな事で本当の戦が描けるものか」
「少し気を落付けさせて下さい、直ぐ治ります」
「よしよし、何時までも腰抜の相手になっても居られまい。誰か二人ばかり、此辺で見張って居るが宜い、我々はもう一度落武者を狩り出して来よう」
芳年は腰の抜けたまま、松の根方に縛り付けられ、官兵二人はそれを見張るともなく残されました。
あとの一隊はバラバラと上野の森へ、暮れ残る道を取って返します。