돌아가기
九条武子
Table of Contents
九条武子
長谷川時雨
Reading Settings
글꼴 크기
18px
테마
라이트
다크
세피아
눈 보호
줄 간격
읽기 모드
번역 Pagera AI
원문 Public Domain
Chapter 2 of 4

2

「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。

かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな

三夜荘 父がいましし春の日は花もわが身も幸おほかりし

緋の房の襖はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや

――『金鈴』より――

二

東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖人の娘、弥女が再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所をつくったのにはじまる。この弥女は覚信尼といい、この人の孫が第三世覚如。親鸞の子善鸞から、如信となり、覚信尼の孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と煩悩もあったわけだった。八世の蓮如上人の時、伝道教化につとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまでのぼったのだ。十世証如のころは戦国時代ではあり、一向一揆は諸国に勃発し、十一世顕如に及んで、織田信長と天正の石山合戦がある。

石山本願寺は、現今の大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨が下って和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉から現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地の寄附を得た。しかし、この時に今日の東西本願寺――本願寺派本山のお西と、真宗大谷派本願寺のお東とが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門の示唆によって長子が退けられたともいわれている。

東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主――光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、お宝娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。

本願寺さんのお姫さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身でと、案じているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌のなかの玉をさらわれるふうに考えたものもなくはあるまい。

なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人たちには住みにくい世界よ、熟議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、籌子夫人について各地遊説に、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつまでおかわいいお姫さまでいるであろうか。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛と権謀の周囲で、離れてはじめて貴とさのわかるのは真だけだ。

一葉女史の「経づくえ」は、作として他のものより高く評価されていないが、わたしはあの「経づくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、あるとおもう、明治年代の、淑やかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふくめているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすこはぬけ出てしまって雑誌『白樺』の武者小路氏の愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて惜しむ心はなかなかにあわれは深い。

もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱の恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤秀吉の常の居間であったという、西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣から飛出されもしたであろうし、解決は早くもあったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、代る女はなかったとの歎をもたれたのだから悲しい。

も一度、

かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。

この歌は、嫁がれてのち、夫君を待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。

爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は経ってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、勝れた家の爵位を嗣ぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に飛出してくるはずもない。ここまで来て籌子夫人から、天降り案が提出されたのだから、捏ね廻してしまったものには具合がよかったと、ことが運んだわけだった。

山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、

――重職会議へ極めて内々のお諮りがありました。御生家の九条公爵の御分家たる良致男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。

籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に――良致男爵は籌子夫人の弟君に当られます。なお、夫人の妹君には九条家に子姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿様(光明師)へ子姫が、御縁づきになりますことは、籌子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方とも御結婚になり、両家にとりてこの上のお睦みはないのでした。

籌子お裏方より直接のお諮りを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。

なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのに拘わるのも、それでは男爵になれるようしますからとまでいって来たのを、すくなくも子爵でなくてはと拒絶したといわれているのを、わたし自身が頷くために、引いてみたのだが、良致氏は前から男爵ではなく、武子さんを娶る前になったのだった。

良致氏はお気の毒な方で、やったり、とったりされた人だった。ずっと前に他家へゆかれ、それから一条家の令嬢の婿金として、養われていたが帰されて――やっぱりこれも例をひいた方がよいから、山中氏の前のつづきを拝借すると、

――かつて一条公爵家の御養子として、暫く同家に生活していられました。それは、元来一条家よりの懇ろなお望みがありまして、御結縁になったのでした。しかし、家風の上から、その後、男爵は再び九条家へ、お復りになったのでした。(前掲一七四頁)

なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の蒐集に、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近かな人々からも指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよばず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者の序に、初校を終る机のそばに、武子さんが、近く来りていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔な著であるので、信頼して読ませて頂いたからだ。その行間からわたしは何を見たか――

籌子夫人のこのお婿さん工作も、愛弟だったときけば頷けるし、実家の嫂は東本願寺からきた人で、例の御連枝と縁のある方であり、それらの張合もないとはいえまいが、良致氏は、籌子夫人の手許へ引きとられていたというものがあるから、武子さんとも顔を合せていなくてはならないのに、この書では、結婚の日が初対面と記されてある。この初対面という方に従ってゆくと、これはまた、あれほど大切にしたお姫さんを、なんと手軽にあつかったものだか――もとより何もかも、知りすぎる位にわかってる方が進めてゆくのだから、誰にも安心はあったであろうが、いやしくも人生の最大事業をおこなう男女当事者が初対面とは――無智蒙昧な親に、売られてゆく、あわれな娘ならば知らず、一万円持参で、あの才色絶美、京都では、本願寺からはなすのはいやだと騒がれた美女なのに――

籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の指図だった。

も一度。

緋の房の襖はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや

三夜荘父がいましし春の日は花もわが身も幸おほかりし

緋の房の襖の向うは、彼女の胸の隠家でなくてなんであろう。

結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へ――けれども、御婚儀の日が、初対面の日なのでした。――昨日までの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほか、更に御承知はないのでした。

(『九条武子夫人』より抄)

――七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。

性格も趣昧も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、

「よろしいように」

と静かに答えるだけだったという。

印度では光瑞法主一行の、随行員も多く賑わしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、いつも姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。

船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、

「では失礼します。」

「どうぞ。」

水の如き夫妻だ。

武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっちかが軽蔑しているのだ。どっちかがすくんでいるのだ、でなければもっと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀儡になったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してしまった。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。

シベリア線で、籌子夫人して武子さんが帰朝ときまったとき、訣別の宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立のおりもプラットホームに石の如く立って、

「ごきげんよう」

と、別れの言葉は、この一言だけだとある。

良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなか隅におけない、白粉を袖や胸にもつけてくる人だというし、またある人も、気さくなよいサラリーマンだといった。新婚のころは、特別に、そんなムッとした人にならざるを得ぬことがあったものとおもえる。世間からは花の嫁御をもらって、日本一の果報男といわれたが、他人ではわからないものが、その人にとってないとはいえまい。

また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。

Chapter 2 of 4
|
광고
서평 한 편이 포인트가 됩니다
신청은 3초, 1,000포인트부터 현금으로 출금합니다. 출판사 102곳이 함께하고 있습니다.
펍스테이션 둘러보기