Chapter 1 of 4

幕末に取材する大衆文芸は一部志士文芸(?)でもあるが、志士活動の基底にどんな社会経済が横たわっているのかはっきりしないものが多い。股旅物、三尺物の主人公が何で食っているかはいかにもはっきりしているが一歩すすんで、彼らの生活の物質的な地盤となっている社会経済――いわゆる旦那衆を構成する特定社会層の本質となると描かれていることがもう稀だ。筋の波瀾と離合のからくりが、いつかつくりばなしめいて感じられ、現実性と迫力を失ってしまう一半の原因は、そこらへんからくるのではあるまいか。

本来、志士なるものが大量的に登場するのは、安政以来のことで、万延・文久度のほうはいたる行動期となって、真木和泉『義挙三策』に見るように、みずから「義徒」と呼んだ。もとよりさまざまな出身で、一概にいえぬが、大量的支配的な現象として、無位無官「草莽」志士の地盤には、全国諸地方の新興産業商業の勢力が、脈々として息づいている。

この謂は、ことに初期の志士その人が多く文人学士で、時にひどい貧乏に耐えていた事態と、べつに背馳するわけでない。無産者運動の草分が小ブルジョア層から出たように究局は社会的な深い矛盾が、諸個人の思想と行動を乗せてゆくので、貧乏かくごで藩権にも幕権にもあえて屈しようとせぬ面魂が、そもそも物をいっているのである。

妻は病牀に臥し児は飢に号くと詠った梅田雲浜の貧乏は一通りのものではなかった。姪の矢部登美子に雲浜みずから述懐した話というのに、信子が嫁にきた時分(弘化元年雲浜三十四歳)、自分はこの京都にある藩校望楠軒で講主をしていたが、赤貧洗うがごとくで、妻帯なぞは思いもよらぬ。かたく断わったが、立斎先生(上原立斎)は娘をどうでも貰ってくれといって、他に許婚までしてあったのを破約して無理やり信子を押付けてしまった。むろん信子が才色兼備の女だとは、かねて知っていたものの、まだ二十歳に足らぬ女で、どうするだろうと危ぶんでおった。そのうちに長女竹子をあげる(弘化三年)、家はますます貧乏になる、たった二畳敷の浪宅に親子三人が、日に一食か二食で暮せるうちはまだしもよかったが、後にはそれさえ窮して、『大日本史』数葉を書写して門人の鳴尾(順造)に二朱で売ってやっと粥を炊いて凌いだこともあった。信子は辛がりもせず、事足らぬ住居なれども住まれけりわれを慰む君あればこそ、などと詠み、いじらしい心根であったと、暗然として亡妻をしのんだ。

雲浜が藩の忌諱にふれて素浪人になったのは嘉永五年でこの年長女竹子についで長男繁太郎が生れ、おまけに雲浜自身病気あがりで、どうにも凌ぎがつかぬところから、一時洛西高雄に引移ってかねて覚えのある医者の看板を出したが、内外情勢を見てじっとしておれず、江戸、水戸、郷里福井に遊説し、れいの臥床号飢の訣別詩を賦して十津川郷士の一隊を連れ大阪湾のプチャーチン乗艦に当ろうとした頃(安政元年)は、もう押しも押されもせぬ一派の首領だった。訣別詩が語るように以前にまさる窮乏状態で、福井遊説の旅費も、藩士中の同志数輩へあてて「大困窮進退是れ谷まり、一歩も動き候事も出来がたく候、毎々恐れ入り候事に候らへども」と手紙を書いている。

訣別詩といえば吉田松陰に、「報国精忠十八歳。毀レ家貧士二十金」というのがある。これは安政六年のはじめ、長藩主の参府を伏見に要して尊攘の機を掴もうといういわゆる要駕策決行のため、門人野村和作が、家禄を売って二十両を得、これを旅費として脱走するのにはなむけた詩である。この詩を贈る松陰にもとより金のあろうはずもない。時局不安の潮流は一見寒儒貧士によって代表され、富商富農層の動きなどおよそ認められそうもないのだが……。

事実また志士の一半は藩士なかんずく軽士層から供給された。松陰門下には野村和作だけでなく貧乏な軽士が多くいた。藩医の家柄の久坂玄瑞などはわりにいい方だが、文久二年三月、同志とともに脱藩してでも伏見挙兵に加わろうと準備最中の日記に、「金の一条には大困窮、英雄もこれには閉口なり呵々々」と書いて、その翌日、『リセランド窮理書』二巻と『グール小児書』二巻を抵当に知合の医者から五両借りた。一定俸禄に衣食する貧乏軽士に開港後の物価騰貴がことさらこたえて、ために攘夷論が流行したという説は、『徳川慶喜公伝』で渋沢栄一説くところであり、総じて経済過程に留意する近来の維新史家たちに卓見として同意を表する向もあるがあんまりそれでは穿ち過ぎて、経済ことに消費経済と志士の生命がけの政治とが薄っぺらな紙一枚の同似性となり、矛盾ぬきの政治観となり、どうかと思われる。

もっとも、そうした「志士」もいるにはいた。いつか田中貢太郎氏の小説で一役ふられているのを読んだようにも覚えているが、元治元年の秋鎌倉で英国士官バルドウィン少佐、バード中尉の両名を殺した清水清次、間宮一の一件が当時のスイス領事ロバート・リンダウの手記となっているのを読むと、「シミズ・セイイチ」(二十五歳)は親譲りの青森浪人で仙台の裏長屋に父親が窮死して後方々に仕官の伝手を求めたが、外国貿易以来諸物価騰貴し、支出は嵩み、殿様の借銭は殖えるばかりという情態ゆえ、とうてい新規御召抱は駄目だろうと相手にされない。攘夷戦争をおっ始めた長崎ならきっと仕官もできるだろうと、はるばる出かけてみれば馬関戦争に一敗したところで、仕官どころのさたでない。江戸に引返して人夫稼ぎで暮していると、一日江戸の商家から横浜まで荷物を運んで、夷人跳梁の有様をつぶさに見た。その後同じようなルンペン浪士と知り合って、夷人斬りの計画を立て資金百五十両を強盗して、決行したとある。

清水清次に関する記録は、他にもいろいろあって、水戸浪人に繰られたとするのもあるが、元治ももう秋の終りで、筑波も破れ長州も逼そくし、あらゆる点から見てバルドウィン殺しの背後に当年尊攘正統派の政治的な息がかかっていたろうとは考えられない。むしろリンダウ手記そのままの見方に、はるかに多くの妥当性が認められる。

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