福々しき身の上となるために
第一には容易に腹を立てないこと、第二には他人をうらやまないこと、第三には時とものとをむだにしないように働くこと。この三ヵ条を忘れなければ、誰でもかならず福々しい身の上になることができます。
人は一生食べるだけのものを持って生まれているのだともいい、ものを粗末にする人は、年とってから乏しい目をするともいいます。そんなことはあるまいと思う人もあるようですが、よく考えてみると、ほんとにそうだということがわかります。考えてみてくださいませ。私たちは正直に働いていると、だれにでもよく思われて重宝がられるので、食うに困るというようなことはありません。しかしまた人ひとりの働きにはかぎりがあります。どんな人でもそうそう贅沢ばかりして一生を過ごされるものではありません。人間というものは多くもなく少なくもなく、ちょうど一生食べるだけのものをさずかって生まれているのでしょう。その中から粗末にものを捨てたりすると先になって食べるものもなくなるわけです。道具を粗末に扱って早くこわすのも、やはりさずかりものを粗末にして捨てるのです。ひとのものを粗末にしたからといって自分のものが減るはずはないと思うのはまちがいです。習慣というものはおそろしいもので、ことに若い時にしみこんだ癖は、決して一生ぬけるものではないのですから、主家のものをうっかり粗末にしていた人が、自分の世帯になったから、これから倹約にしようと思っても、なかなかそうはいかなくなって、ついつい一生むだをすることになります。悪気はもちろんなくても、面倒くさいと思っては、ものをむだにするのは、自分のさずかって来た一生の宝の中から、日日むだをしただけのものを捨てるようなものです。一生あれも足らない、これも足らないと思って暮らすようになるのはもっともなことだと思います。十代の時よりは二十代、二十代の時よりは三十代、もっと年をとったらなおさらというように、だんだん福々しい身の上になろうと思うなら、少しのものでもむだにしないようにと、毎日せいぜい気をつけるようにするのが何よりも大切です。
ものをしまつにする術を知らないで、一生乏しい乏しいで終わったものの子供は、生まれながらに福分うすく、一代で身上を起こしたというような人は、その親であった人も、またその親の親であった人も、代々心掛けよく暮らしたために、福分をたくさんにその子供にのこしたのだろうと思われます。
時は金だということは、よくいうことで、時間をむだにするのは、金を捨てるのとおなじこと、ものをむだにするのとおなじことです。時をむだにすることはなまけることで、時をむだにしてなまけると、貧しくなるのは誰でも知っていることです。主家の時間だからと思わずに、若い時にせっせと働く習慣をつけなければ、一生まめに身体を動かすことのできない人になります。まだ親がかりで奉公している若い娘が、楽なところ楽なところとさがしまわって、なるべく働かずに日をおくる工夫をするのは、つまり時間をむだにする工夫をするのです。時間を捨てるのは、金を捨てることになるばかりでなく、知恵をも捨ててしまうのです。
時は金だといいますが、さらによく考えてみると、時はまた知恵です。金などとはくらべものにならないほどに貴いものです。金をなにほど積んでも、人間を賢くすることはできないけれど、時を惜しんで働くと、誰でも金を得ることができるばかりでなく、心もまた賢くなり、身体も達者になります。時は金で、知恵で、またさらに健康です。
精出せば一時間でできることを、一時間半もかかっているというような、だらしない仕事のしかたは、金を捨て知恵を捨て、その上に身体までも弱くするのです。若い時から、この貴い時間というものを惜しんで働いたものは、どうして福々しい身の上にならずに終わることがありましょう。
笑う門には福来たるといいます。とかく腹を立てやすく、おこりながらに仕事をすると、仕事は少しも身になりません。あれがうらやましい、これがうらやましいと他人のしあわせばかり目につく人は、われとわが魂が身に添わないものです。身にならない仕事をするのは、幸運の神の何よりもきらいなことで、また魂のぬけ出している身体には、魔がさすといわれています。人にだまされて身をあやまるようなのは、みなこういう娘です。つまらないことに腹を立てないばかりでなく、並大抵のものならば、きっとおこるほどのことでもがまんして、いつもにこにこと、日々の仕事のためにわれを忘れて働いている人の身のまわりには、幸運の神が知らずしらず寄って来るようです。福の神に取り巻かれていると、また知らずしらず常にたのしく、大概のことには腹が立たなくなります。少しのことにもつい腹の立つ人は、自分の身のまわりに、まだ福の神がついていない証拠だと思って、せいぜい不平なく勉強して暮らすように奮発しなければなりません。毎日うれしげに、熱心に働く人は、とかくこの世の中に少ないのですから、幸福の神様は確かにひまにちがいありません。ですから少し心がけたら、幸運をよびよせるのは、わりに雑作もないことのような気がします。