Chapter 1 of 20

秋が来たんだ

十月×日

一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。

秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。

秋はいゝな……。

今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。

そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。

なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようだ。

十月×日

広い食堂の中を片づけてしまって始めて自分の体になったような気がする。真実に何か書きたい。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋へ帰るんだが、一日中立っているので疲れて夢も見ずに寝てしまう。

淋しいなあ。ほんとにつまらないなあ……。住込は辛い。その内通いにするように部屋を探そうと思うが、何分出る事も出来ない。

夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと目を開けていると、溝の処だろう、チロチロ……虫が鳴いている。

冷い涙が不甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達三人枕を並べているのが、何だか店に晒らされた茄子のようで佗しい。

「虫が鳴いてるよう……。」

そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、

「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいね。」

梯子段の下に枕をしていた、お俊さんまでが、

「へん、あの人でも思い出したかい……。」

皆淋しいお山の閑古鳥。

何か書きたい。何か読みたい。ひやひやとした風が蚊帳の裾を吹く、十二時だ。

十月×日

少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結う。

日本髪はいゝな、キリヽと元結いを締めてもらうと眉毛が引きしまって、たっぷりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと額に垂れて、違った人のように美しくなる。

鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。日本髪は女らしいね、こんなに綺麗に髪が結べた日にゃあ、何処かい行きたい。汽車に乗って遠くい遠くい行きたい。

隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって故里のお母さんの手紙の中に入れてやった。喜ぶだろう。

手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの……。

ドラ焼きを買って皆と食べた。

今日はひどい嵐、雨が降る。

こんな日は淋しい。足がガラスのように固く冷える。

十月×日

静かな晩だ。

「お前どこだね国は?」

金庫の前に寝ている年取った主人が、此間来た俊ちゃんに話かける。寝ながら他人の話を聞くのも面白い。

「私でしか……樺太です。豊原って御存知でしか?」

「樺太から? お前一人で来たのかね。」

「えゝ!」

「あれまあ、お前きつい女だね。」

「長い事函館の青柳町にもいた事があります。」

「いゝ所に居たんだね、俺も北海道だよ。」

「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛がありますもの。」

啄木の歌を思い出して真実俊ちゃんが好きになった。

函館の青柳町こそ悲しけれ

友の恋歌

矢車の花。

いゝね。生きている事もいゝね。真実に何だか人生も楽しいものゝように思えて来た。皆いゝ人達ばかりだ。

初秋だ、うすら冷い風が吹く。

佗しいなりにも何だか女らしい情熱が燃えて来る。

十月×日

お母さんが例のリウマチで、体具合が悪いと云って来た。

もらいがちっとも無い。

客の切れ間に童話を書く、題「魚になった子供の話」十一枚。

何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。

可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配します。

「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいゝよ。」

三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のきゝかたでさそってくれた。

「えゝ……行くとも、何日でも泊めてくれて?」

私はそれまで少し金を貯めよう。

いゝなあ、こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがある。

「私しぁ、もうもう愛だの恋だの、貴女に惚れました、一生捨てないのなんて馬鹿らしい真平だよ。あゝこんな世の中でお前さん! そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男は今、代議士なんてやってるけど子供を生ませると、ぷいさ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールさ、いゝ面の皮さ……馬鹿馬鹿しいね浮世は、今の世は真心なんてものは、薬にしたくもないよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからさ……ハッハッ……。」

お計さんの話を聞いていると、ジリジリとしていた気持が、トンと明るくなる。素的にいゝ人だ。

十月×日

ガラス窓を、眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。

今日は少しかせいだ。

俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風機の台に腰を掛けて、憂欝そうに身の上話をしたが、正直な人だ。

浅草の大きいカフェーに居て、友達にいじめられて出て来たんだが、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいゝって云ったので来たのだと云っていた。

お計さんが、

「おい、こゝは錦町になってるんだよ。」

と云ったら、

「あらそうかしら……。」

とつまらなさそうな顔をしていた。

此の家では一番美しくて、一番正直で一番面白い話を持っていた。

メリービックホードの瞳を持って、スワンソンのような体つきをしていた。

十月×日

仕事をしまって湯にはいるとせいせいする。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも湯を楽しむ事が出来た。

湯につかっていると、一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。

秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれているのだった。

貴女一人に身も世も捨てた

私しや初恋しぼんだ花よ。

何だか真実に可愛がってくれる人が欲しくなった。

だが、男の人は嘘つきが多いな。

金を貯めて呑気な旅でもしよう。

――此秋ちゃんについては面白い話がある。

秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組みの大学生達は、マーガレットのようにカンゲイした。

十九で処女で、大学生が好き。

私は皆の後から秋ちゃんのたくみに動く瞳を見ていた。目の縁の黒ずんだそして生活に疲れた衿首の皺を見ていると、けっして十九の女の持つ若さではなかった。

其の来た晩に、皆で風呂にはいる時、秋ちゃんは佗しそうにしょんぼり廊下の隅に立っていた。

「おい! 秋ちゃん、風呂へはいって汗を流さないと体がくさってしまうよ。」

お計さんはキュキュ歯ブラシを使いながら大声で呼びたてた。

やがて秋ちゃんは手拭で胸を隠すと、そっと二坪ばかりの風呂場へはいって来た。

「お前さん! 赤ん坊を生んだ事があるだろう……。」

――庭は一面に真白だ!

お前忘れやしないだろうね、リューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯革のように、何処までも真直ぐに続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。

お前覚えているだろう? 忘れやしないだろう?

――…………

――そうだよ。此桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。

と、桜の園のガーエフの独白を別れたあの男はよく云っていた。

私は何だか塩っぽい追憶に耽って、歪んだガラス窓の白々とした月を見ていた時だった。

お計さんの癇高い声に驚いてお秋さんを見た。

「えゝ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」

秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いてドポン! と湯煙をあげた。

「うふ……私処女よ、もおかしいものだね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」

「肺が悪るくて、赤ん坊と家にいるのよ。」

不幸な女が、あそこにもこゝにもうろうろしている。

「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」

肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。

「私のは三日めでおろしてしまったのよ。だって癪にさわったからさホッホ……。私は豊原の町中で誰も知らない者がない程華美な暮しをしていたのよ、私がお嫁に行った家は地主だったけど、ひらけていて私にピヤノをならわせてくれたの、ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾きよ、そいつにすっかり欺されてしまって、私子供を孕んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと分っているから云ってやったわ、そしたら、そいつの言い分がいゝじぁないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私口惜しくて、そんな奴の子供なんか生んじゃあ大変だと思って辛子を茶碗一杯といて呑んだわよホッホ……どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバを引っかけてやるつもりさ。」

「まあ……。」

「えらいね、あんたは……」

仲間らしい讃辞がしばしは止まなかった。

お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背に掛けてやった。

私は息づまるような切なさで聞いていた。

弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき、裏切った男の頭をかぞえた。

お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいゝって云う事が何の気安めになろうか――。

十月×日

……ふと目を覚ますと、俊ちゃんはもう仕度をしていた。

「寝すぎたよ、早くしないと駄目だよ。」

湯殿に皆荷物を運ぶと、私はホッとした。

博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私はそっと二人分の下駄を土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロして、人のいゝ主人の鼾も平かだ。

お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰ってしまった。

真実に、学生や定食の客ばかりでは、どうする事も出来なかった。

止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあっていたものゝ、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかった。

金が這入らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃走するより外なかった。

朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑として、食堂のセメントの池に、赤い金魚がピチピチはねている丈で、灰色に汚れた空気がよどんでいた。

路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと飛び降りると、湯殿の高窓から降した信玄袋を取りに行った。

私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。

「まあこんなにあるの……。」

俊ちゃんはお上りさんのような格好で、蛇の目の傘と空色のパラソル、それに樽のような信玄袋を持って、まるで切実な一つの漫画だった。

小川町の停留所で四五台の電車を待ったが、登校時間だったのか来る電車は学生で満員だった。

往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、インバイのようにも見えたろう。

たまりかねて、二人はそばやに飛び込むと始めてつっぱった足を延した。そば屋の出前持の親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。

自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなくなった。

ぺしゃんこに疲れ果てゝしまって、水がやけに飲みたかった。

「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいゝのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしないよ。」

「元気を出して働くよ、あんたは一生懸命勉強するといゝわ……。」

私は目を伏せていると、サンサンと涙があふれて、たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであっても今のたよりない身には、只わけもなく嬉しかった。

あゝ! 国へ帰ろう……お母さんの胸ん中へ走って帰ろう……自動車の窓から、朝の健康な青空を見た。走って行く屋根を見た。

鉄色にさびた街路樹の梢にしみじみ雀のつぶてを見た。

うらぶれて異土のかたゐとならふとも

故里は遠きにありて思ふもの……

かつてこんな詩を読んで感心した事があった。

十一月×日

愁々とした風が吹くようになった。

俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。

――寒むくなるから……――と云って、八端のドテラをかたみに置いて東京をたってしまった。

私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で、白いおまんまが、一ヶ月のどへ通るわけでもなかった。

お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして、私は私の思想にもカビを生やしてしまった。

あゝ私の頭にはプロレタリヤもブルジョアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたい。

いっそ狂人になって街頭に吠えようか。

「飯を食わせて下さい。」

眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしい情熱の中へ身をまかせようか。

夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって、遠くに明い廓の女郎達がふっと羨ましくなった。

沢山の本も今はもう二三冊になって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの「労働者セイリョフ」直哉の「和解」がさゝくれてボサリとしていた。

「又、料理店でも行ってかせぐかな。」

ちんとあきらめてしまった私は、おきやがりこぼしのように変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、風の吹く夕べの街へ出た。

――女給入用――のビラの出ていそうなカフェーを次から次へ野良犬のように尋ねて……只食う為に、何よりもかによりも私の胃の腑は何か固形物を慾しがっていた。

あゝどんなにしても食わなければならない。街中が美味そうな食物じゃあないか!

明日は雨かも知れない。重たい風が漂々と吹く度に、昂奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがする。――一九二八・九――

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