Chapter 1 of 6

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寛文本、仮名草紙の「薄雪物語」では、園部左衛門が清水寺で薄雪姫という美女に逢い、恋文を送って本意をとげたが、愛人に死なれて無情を感じ、高野山に入って蓮生法師になる。操浄瑠璃の「新薄雪」は文耕堂が時代世話にこしらえ、道行の枕に「旅立に日の吉凶をえらばぬは、落人の常なれや」というのが小出雲の名文句として知られている。

どちらも慶長三年の「うすゆきものがたり」を粉本にしていることはいうまでもないが、原作にあるのは、凡庸な恋愛風俗と室町時代の仏教思想をなえまぜたようなたわけた話ではない。仮名草紙で園部左衛門となっている大炊介は、男の中の男とでもいうような誠実な魂をもった大丈夫で、薄雪姫なる行子のほうは、自分の生きる道を愛の方則から学びとるほか、なにひとつ知らぬような純情無垢の女性である。この一対の男女の上に、両親の反対や、政治的な策謀や、行きすぎた友情や、偽りの恋や、ありとあらゆる妨害が山と積みかさなる。男は底知れぬ勇気と果敢な行動で、女はおどろくべき辛抱強さと機略をもって抵抗し、二十年に及ぶ愛の戦争を継続するが、その癖、どちらも最後まで純潔なのである。二人は物狂わしいほどの熱情であくまでも一念を貫こうと心を砕くが、悲劇的な宿縁の翳に禍いされ、あわれにも身を亡ぼしてしまう。この話には見せかけの僥倖といったようなものは片鱗もない。あるものは不幸と苦だけである。なにひとつ慰藉のない荒涼たる一篇の情史は、読むものの胸をうたずにはおかない。

筆者は松月尼というだけで、どういう人物か知られていないが、説話の文様からおすと、この事件に関係のあった一人だということがわかる。この事件の表裏に通じている人物といえば、大炊介の名親にあたる青山新七か、行子の母の資子か、行子の侍女の高根の三人のうちにちがいないが、「くやみてもかひなきことなれど、せめてもの心やりに書きもしるしつ」などと言っているところを見ると、あまり悧口すぎて、娘のあたら花の命を散らした母の懺悔ともとれるのである。

松月尼の述懐は、風摩大炊介と賀茂行子がはじめて小田原の城下で出逢った天正九年の夏からはじまり、大炊介が蜂須賀小六家政(二世小六、阿波守)の手について朝鮮征伐に行き、唐島を経て京都へ帰った文禄二年の秋の末で終っている。

天正九年といえば、信長が高野の僧都、二十余人を斬り、家康が遠州高天神の城で武田勝頼の郎党の首、七百余級を獲ちとり、秀吉が鳥取城攻めにかかった年である。応仁の乱にはじまった大暗黒時代がおおよそ百年あまりもつづいているが、まだ終らない。上は大小名、各地に割拠して戦乱をおこし、下万民、家も畠も顧みるいとまがなく、流賊の態になりさがって諸所を放浪し、ただもう人のものを掠め盗って当座の渇命を医そうとするばかり。かしこの乱暴、ここの一揆と、世をあげて動乱している中で、そうした纏綿たる愛の事業がくりひろげられたというのは異様に思われるけれども、当時の小田原という町のありようを考えると、うなずかれることもあるのである。

天文二十年、兵乱に追われ、近畿から小田原へ逃げてきた某という男が相模府中へ入ると、町の数多い小路には塵さえも見られず、ちまたには高館が立並び、城には喬木が森々と繁り、三方の池には白鳥がのどかに泳いでいる。一色というところから板橋というところまで、一里ほどの道の両側に隙間もなく棚を張り、唐の器物やら葡萄牙の珍品やら、山と積みあげて売買いしている。戦場の浅間しい地獄の沙汰を思いかえすと、とても現実のこととは思われず、あまりの勿体なさに涙を流したということであった。

大炊介と行子の最初の出会いはなに気ないことからはじまった。行子は預けられていた京都の黒谷の尼院から、大炊介は儒学の勉強をしていた下野の足利学校から、どちらも五年ぶりに故里へ帰り着いたその第一日目に、偶然、渡し舟に乗りあわすという運命的なめぐりあいをしている。

大炊介は二十二歳、行子は十七歳であった。大炊介は郷士の伜だが、いまは儒生のはしくれにすぎないから、もちろん供などは連れず、小狩衣に侍烏帽子をかぶったくらいのところ。行子のほうは小田原一の分限者といわれる蘆屋道益の一ノ姫だから、荷担ぎのほかに、倔強な供と女房ぐらいは連れ、縫箔のある小袖に精巧な地の薄衣をかぶった優美な旅姿をしていたことだったろう。そうして磧から舟に移ったが、広くもない渡し舟のことだから、肩をすりあわせ、ひょっとすると膝を触れあって、おなじ胴ノ間に坐ることになる。

行子の眼にうつった大炊介という男性は、蔓巻の打刀を指した士の風体なのに、どこにも髯がないことであった。鎌倉時代にはじまった貯髯の風は、天文の終りごろからいよいよ盛んになって、自持ちの髯のほかに置き髯や懸けひげをつけ、法体になっても豊かな髯をたくわえるという凝りかたなので、まずそのことが心をひいた。そういう威毛のついた顔ばかり見馴れてきた眼には、汚れのない玉のようなツルリとした顔は、あまり突飛で異なものだったが、だんだん見ているうちに、なるほどこういう美しさもあるものだと納得した。このごろ、近畿の大名や寺院の長老が稚児を集めて珍重しているが、そこにいる男性の顔は、髷を二つ折にし、歯を黒く染めたありふれた美童の面ではない。威儀正しい気品のある凛々しさがあふれ、古画に見る上代の旧上達部が、なにかの都合でこの世にたちかえってきたかと思われるほどであった。

大炊介の見た行子は、稚気離れのしない、咲きたての花のような面差しをした愛々しい女性で、生まれてからまだただの一度もこの世の不幸に逢ったことがなく、この世で思いのままにならぬものはないという、驕るかにも見える寛濶な表情をしていた。

女性は顔をまわしてゆったりと川面や遠い河岸を眺めているが、どんなことにも興味と満足を感じる豊かな気質らしく、表情のなかにたえず微笑の波をたちあげるので、顔自体が生きているかと思われるほどである。なかでも溌剌と動いてやまぬのは、底知れぬ愛嬌をたたえた二つの眼で、こちらへ眼差をかえすごとに、しきりに大炊介に語りかけるのだが、なにを言おうというのか、大炊介にはついぞわからずにしまった。二人は舟のなかでは語りあわず、なにごともなく別れたのである。

「そこでさえ逢わなかったら、生涯、相引かず、思い臥ることもない二人だったのに」と松月尼が書いている。これは、一つは二人がそうした出逢いをした運命のことを、一つはとうていこの世では溶けあえぬ敵同士の身分のことをいっているのである。

この物語では、大炊介の父、関東一の乱破の大将、風摩小太郎が紀州貝塚の一揆に信長の手につき、里カマリ(大掠奪)で蘆屋道益の血族を焼き殺し、その風摩小太郎が、道益の子の道長に箱根の木賀の湯で討たれるあたりが、因果のはじまりのように見えるけれども、両家の過去の因縁はそんな底の浅いものではなかった。どちらも清和源氏の分流でありながら、四代、満仲のときから敵同士になり、五百年の間、それとも知らずに殺し殺される、因果な争いをくりかえしてきた業の深い間柄だったのである。

松月尼が説くのもそのことなので、そこは女だからあきらめが悪く、同族抗争の目もあてられぬ惨事を、七代まで遡って縷々懇切に述べている。そういう深い宿怨をたがいの血のなかにもった大炊介と行子の結びつきは、その後どんな風に運んでいたかというと、夏ごろ、ゆくりなく渡し舟に乗合わしただけの二人が、わずか一と月ほどののち、蟋蟀の声もおさない秋のはじめに、毎夜のように屋形の裏庭で忍び逢う退引ならぬ関係になっていたのである。

良縁結ばず、悪縁は至極疏通すという言葉があるが、このときの作用はだいたいそれに近いものであった。大炊介にしても、行子にしても、予定どおりに行動し、即興的な試みをしなかったら、おなじ渡し舟に乗りあわすようなことは絶対になかったはずだからである。足利学校の学頭をつとめた七世九華は六十一歳になったので、暇をもらって郷里の伊豆山へ帰ることになった。大炊介が、廃学する気になったのもそのせいだったが、老師を松原の渡しまで送ったところで、別れるに耐えられなくなり、その舟に乗って向岸まで渡り越してしまった。行子のほうの因縁のカセは、沼津あたりからはじまっている。父の道益は行子に箱根路を越させるのをいとしがり、沼津の浜まで迎いの船をやったが、真鶴岬をかわしたところで、行子は片浜から岸づたいに歩いて行くといいだし、急に船から降りてしまったのである。偶然と言捨ててしまえばそれだけのことだが、二人の上に眼に見えぬ操りの糸のようなものがからみついていて、どうでもそうなるようにひき寄せたのだと思えなくもない。

これで物語の筋を運ぶ段になるのだが、その前に、あわれな終末をつくりだした二人の境界を説明しておかなくてはならない。乱破とか出抜とかと呼ばれていた山武士野武士の類は、百姓のような見せかけをしているが、保元以来、つぎつぎに滅亡した源平藤橘の血脈をひく武辺のまがいで、夢想家が多く、独力で家門挽回の大事をなすには、武芸の技くれなどは役にたたない、智能と機略によるが便利とあり、代々、山野に沈潜して六韜三略の勉強ばかりしていたため、そういう一類の中から異常な才能をもった軍師が大勢出た。美濃の蜂須賀、稲田、近江の日比野、長江、下総の勾坂、信濃の滝川などはその尤なるもので、各地の大小名に招聘され、ふしぎな働きをしてみせた。

大炊介の父の小太郎も清和から出た源氏の末流で、五代前から相州の聖山に住みついて風摩という姓を名乗った。天文のはじめ四百人の野武士を統率する関東一の乱破の大将になり、あらゆる合戦に参加して五畿内の戦場を馳せめぐっていた。

天正七年、武田勝頼が浮島ヶ原へ押しだしてきたとき、大炊介の父は北条の手について大いに武田の軍勢を馳け悩ました。北条三代記に「風摩小太郎、乱破四百人を扶持す」とあるが、領主だから合力したのではなく、勝頼のやりかたが不服だったというだけのことにすぎない。戦争の目的が気に入り、この大将ならと思うと、どちらの側へでも加担する。もちろん扶持は受けるが、その合戦かぎりのことで、どういう場合でも主従の関係は結ばない。これは乱破の一般の気風でもあるのだが、主従の関係ができて妙な重味がつき、恩愛の絆に縛られて自由を失うのを極度に嫌うのである。

大炊介の父は大体そういった人物だった。大炊介が五歳になると、手許から離して小田原の青山新七という儒家へ預け、成年に達すると、小田原、入谷津の山曲で年五十石の上りのある田地を買って小さな家を建て、大炊介を一人でそこに住まわせ、「生涯、俺の子であることを口外してはならぬ、青山大炊介と名乗っておけ」と申しわたした。

なんのために、そうまでして親子の関係を厳秘しようとしたのかわからないが、しかし、想像できないことはない。戦場における乱破の主な任務は、敵の後方を攪乱することにあって、村を焼いたり、敵産を掠奪したりするが、それを必要の程度にとめておくことはむずかしい。それどころか、大抵の場合、目をおどろかすような大掠奪になり、意外な血を流してしまうのが常なのであって、そのため思わぬところで深い怨みを受けている。そんなことは戦争には避けられぬ茶番のようなものだ、と小太郎は口ではいっていたが、心の底では、いつどこで仕返しをされるかわからぬという不安にたえず脅かされているふうで、小田原の町へ現われるときは、いつも何人か手下を連れ、たまさか一人で入谷津へやってくるときは、月のない夜中にかぎっていた。

大炊介は見かけの割に豪胆で、一廉の役には立つはずであったが、小太郎はただの一度もカマリに誘ったことがなかった。そういう稼業に嫌悪を感じている証拠なので、大炊介に父姓を名乗ることを禁じたのも、その辺に人知れぬいわくがあったのだと思うほかはない。

その父も死んでもう居ない。昨年の秋、どこかの戦争で重傷を受けて帰り、貝津藤吉という手下を連れて木賀の湯へ湯治に行ったが、それっきり帰って来なかった。藤吉にたずねると、「大将はいけませんでした」とそれだけ答えた。墓はと聞いたが口を噤んで返事をしない。乱破の墓のあるところが知れると、怨みのある土着人が死体をひきずり出しにくるので、乱破の仲間以外にはけっして明かさないものだということであった。別な話だが、風摩小太郎の墓のありかがわかったら、第一番に死体をひきだしに来るのはたぶん蘆屋道益だったろう。というのは、紀州貝塚の一揆のとき、道益の老父と二人の弟が風摩の一党に焼き殺され、忘られぬ怨みを抱いていたからである。

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