Chapter 1 of 1

久生十蘭

キャラコさんは、ひろい茅原のなかに点綴するアメリカ村の赤瓦を眺めながら、精進湖までつづく坦々たるドライヴ・ウェイをゆっくりと歩いていた。山中湖畔のホテルに、従兄の秋作氏の親友の立上氏が来ていて、これからのキャラコさんの旅行の方針について、いろいろと相談にのってくれるはずだった。

籠坂峠へかかろうとするころ、とつぜん、重い足音がうしろに迫ってきて、四人の男がキャラコさんをおしのけるような乱暴な仕方で追いぬいていった。

継ぎはぎだらけの防水したカーキ色の上衣に、泥のなかをひきずりまわしたような布目もわからないコールテンのズボンをはき、採鉱用の鉄鎚を腰にさし、背中がすっかりかくれてしまうような大きな背嚢を背負っていた。風体からおすと、ひとくちに『山売』といわれる、あの油断のならない連中らしかった。

ともかく、あまり礼儀のあるやりかたではなかった。そのうちの一人の手は、たしかにキャラコさんの肱にふれ、かなりな力で道のはじのほうへ突きとばした。

不意だったので、キャラコさんは道のはしまでよろけて行ったが、そこで踏みとまって、れいの、すこし大きすぎる口をあけて、快活に笑いだした。

おい、おれたちに追いついてごらん。……通りすがりに、きさくな冗談をして行ったのだとおもった。

キャラコさんは、笑いながらいった。

「見ていらっしゃい、どんなに早いか」

きっと唇を結んで、いっしょう懸命なときにするまじめな顔をつくると、前かがみになって、熱くなって歩きはじめた。

山売の一行は、はるか向うの橋のうえを飛ぶように歩いている。駆けだすのでなければとても追いつけそうもなかったが、三十分ほどせっせと歩いているうちに、双方の距離がだんだん縮まってきた。

峠のてっぺんで、とうとう四人を追いぬいた。

キャラコさんは、くるりと四人のほうへふりかえると、のどかな声で、いった。

「ほらね、早いでしょう」

泥だらけの四人の鉱夫は、ちょっと足をとめると、なんだ、というような顔つきで、いっせいにキャラコさんの顔を見すえた。

無精髯が伸びほうだいに顔じゅうにはびこり、陽に焼けた眉間や頬に狡猾の紋章とでもいうべき深い竪皺がより、埃と垢にまみれて沈んだ鉛色をしていた。

四人ながら、顔のどこかにえぐったような傷あとをもっていて、このどうもうな顔をいっそう凄まじいものにみせる。どんな残忍なことでも平気でやってのけそうな酷薄な眼つきをしていた。

四人の山売は、けわしい眼つきでキャラコさんの顔をながめていたが、そのうちに、きわだって背の高い、冷やかな顔つきをしたひとりが、三人のほうへ振りかえって、ささやくような声で、いった。

「なにをいってるんだ、こいつ」

小さな、円い眼をした貧相な男が、無感動な声で、こたえた。

「おし退けたのが、気にいらなかったのだろう」

いちばんうしろにいた、牛のようなどっしりと頑丈な男は、

「妙なやつ」

と、吐きだすようにいうと、小山のような背嚢をゆすりあげてサッサと歩きだした。

キャラコさんは、うまく追いつけたのでうれしくてたまらない。そうするのが当然だというふうに、いかにも自然なようすで四人の山売のうしろにくっついて歩きながら、愛想よく言葉をかける。

「これから、どこへいらっしゃるの?」

だれも返事をしない。みな、ひどく肚を立てているような不機嫌なようすをしている。

キャラコさんは、じぶんのいったことが聞えなかったのだろうとおもって、いちばんうしろからゆく、瘠せた、細面の、どこかキリストに似たおもざしの頤髯の男に、もう一度たずねてみる。

「どこへ、いらっしゃるの」

銀縁の古風な眼鏡をかけた瘠せた男は、見かえりもせずに、しめった声で、

「丹沢の奥へ」

と、こたえた。

キャラコさんには、この一行がどんな職業の人間かわからないが、なにか大急ぎに急いでいることだけははっきりとわかる。いったい、どんなさしせまった用事で、こんなに夢中になって急いでいるのだろう。

じっさい、一風変わった一行だった。まるで、敵でも追撃するような勢いで疾走してゆく。立ちどまりもしなければ口もきかない。必要があると、ごく短い簡単な言葉を互いにす早く投げあう。外国語らしい言葉もときどきまじる。山窩のようなむざんなようすをした男たちの口から、そんな言葉がとびだすのが、だいいち、いぶかしい極みだった。面ざしはいちいちちがうのに、なぜかひとつの顔のような印象をあたえる。この四つの顔は、ひどくさしせまった同じ表情でつらぬかれているのだった。

キャラコさんは、他人の生活に無遠慮に立ちいるようなたしなみのない娘ではない。他人のことに興味などを持ちたがらないのが自分のねうちだとさえ思っているのだが、この奇妙な一行には、なぜか、つよく心をひかれた。なんのためにそんなに血相をかえて急いでいるのかきいて見たくなって、のんきな顔をしながら四人のあとについて歩き出した。四人のほうでは、キャラコさんのことなどは、てんで問題にしていないふうだった。

キャラコさんは、この一行がどんな目的で丹沢山の奥へゆくのか、とうとう聞きだすことができた。たとえようもなく愛想のいいキャラコさんの問いかけには、この無愛想の山男も敵しがたかったのである。

四人のうちで、比較的やさしげな、銀縁眼鏡の黒江氏が、重荷そうな口調でだいたいのところをうちあけてくれた。

惨憺たるようすをしたこの四人の男は、じつは昨年の春まで、大学の研究室で『中性子放射』の研究に没頭していた若い科学者たちだった。

四人ながら、科学の研究にひたむきな熱情をそそぐことのできる誠実な精神のもちぬしだったので、戦争が始まると同時に熱烈に祖国を愛するようになった。

四人の血管の中に脈々たる熱いものがたぎりたち、はげしい情感が息苦しく心臓をおしつけ、自分たちにふさわしい、できるだけ直接の方法で祖国の苦難に協力したいと考えるようになった。自分たちのまわりの人間が、祖国にたいしてあまりにも無関心なようすをしているのに、呆気にとられたことにもよるのである。

慎重に意見を闘わせたすえ、これから一年間、研究室のレトルトや電離函から離れ、四人の努力で一つでも多くの廃棄金山を復活させようと申しあわせた。これが、自分たちの力でなしうるもっとも適切な仕事だと考えたからである。

この四人の若い学者たちは鉱山学にも深い知識をもっていたので、この仕事がどんなに困難なものか、最初からはっきりと知っていた。知識ではなく、不撓不屈の精神だけがこの仕事をなしとげさせるであろうということも。

四人は、日本中の廃棄金山の鉱床を調べ、過去の鉱量を精密に計算して、もっとも有望だと思われる六つの鉱山を選び出すと、四月のある朝、腰に砕鉱用の鉄鎚をはさみ、耳おおいのついた古びた眼出帽をかぶり、首にタオルを巻きつけ、小山のような背嚢を背負って、まず北陸へ向って出発した。

この大きな背嚢は、探鉱と分析に必要な器械や薬品類だけが詰め込まれ、生活に必要なものはこっけいなほど無視されていた。――一枚の寝袋、共同の一つのコッフェル、フォークのついた五徳ナイフ、コップが一つ。これで、全部だった。食べるためには米と味噌。そのほかに、蝋マッチひと包みだけはいっていた。

戦場の兵士と同じ労苦をあえてしようという素朴の感情のほかに、自分らの肉体に精密器械のような緻密性を課したのである。

廃鉱にたどりつくと、息をつく間もなく採鉱を開始する。

重力偏差計で鉱脈をさがし、傾斜儀や磁力計で鉱床の位置をきめ、『直り』を探り、露頭を削り、岩層を衝撃し、鉱石をくだき、掛し、樋で流し、ピペットで熱し、時計皿にかけ……、未明から夜なかまで、鉱夫のするはげしい労働から分析室の仕事までを、全部自分たちでやってのけた。

四人ともすっかりやせこけてしまい、顔のなかに、寄りつきがたいような辛辣な表情が彫りこまれるようになった。

完膚ないまでにひとつの鉱山をやっつけると、この切迫した表情と、いよいよ昂揚する精神をひっさげて、疾風のようにつぎの鉱山へ乗りこんでゆく。この労働にささげない一分は、むだな一分だというふうに。

こんなひどい苦労をつづけてきたが、いままでの五つの鉱山は、この四人にたいして、なんの好意も示さなかった。

どの鉱山も掘れるだけほりつくされていて、一パーセントの金さえ単離させることができなかった。熱情と刻苦にかかわらず、この一年のあいだなんら酬いられるところがなかったのである。

この四人の山の餓鬼は、いま最後の鉱山にむかって疾駆をつづけている。火のついたような期待と科学者の熱情が一分間も四人を休ませない。丹沢山塊の奥に眠っている金色をした不生物が、絶えずやさしげな声で四人を呼んでいる。……

キリストのような顔をした若い助教授は、こんなに委曲をつくしたのではなかった。が、四人のひどい憔悴の仕方を見ると、ごく簡単な説明だけで、この一年の辛苦が、どんなにひどいものだったか充分に想像できるのだった。

キャラコさんは、思わずため息をついた。

「たいへんだ」

黒江氏が、重厚な口調でいった。

「かくべつ、たいへんなどというようなことではないです」

「でも、それでは、あまり過激ですわ」

黒江氏は、ひどく咳き込みながら、

「過激というと?」

「休む時間もないというのは、あまりひどすぎますわ」

「ほほう。……でも、われわれはそんなふうには感じていませんよ。つらいのは、この仕事の性質なんだから止むを得ません」

「でも、程度ってものがありますわ」

「われわれの仲間には、もっとつらいことをやっている連中だってありますよ。このくらいのことはとり立てていうほどのこともないでしょう」

「ともかく、もうすこしお休みにならなくては」

「有難う。充分休んでいます」

「そんなふうには見えませんわ。やせっこけて、今にも倒れてしまいそうよ。……それに、あなたは、たいへん咳をなさいますね」

えぐれたように落ち込んだ頬に、ともしい微笑をうかべながら、

「咳はむかしからです。この仕事のせいではありません。……ゴホン、ゴホン。……ほら、なかなか調子よく出るでしょう。……生理的リズムといった工合ですな。これだって、馴れると、ちょっと愉快なものです」

キャラコさんは、いいようがなくなって黙り込んでしまった。

黒江氏は、熱をはかるために、無意識にちょっと額へ手をやって、

「……憔悴しているのは、肉体ではなくて、むしろ気持のほうです。容易でないことは始めから予期していましたが、こうまで手答えがないものだとは考えていなかった。……研究室の中でなら仕事の過程のうちで、ちょっとした反応がわれわれを慰めてくれたり、希望を与えたりしてくれるもんなんですが、なにしろ、掘れるだけ掘ってしまったあとばかし行くんだから、そこから金を探そうというのは、空気の中でクリプトンを探すよりまだむずかしい。いくら科学の力でも、腐土を金にするわけにはゆきませんからな。しかしね、……」

急に快活な口調になって、

「しかし、今度はどうやらうまくゆきそうです。……今まではね、上総掘りというのでやっていたんですが、今までの失敗は、たしかに方法が不完全だったせいにもよるんです。……ところで、こんど、東京で電気試錐機というやつを仕入れて来ましたから、こいつでなら、必ずいい成績をあげることができると思うんです。……その一部分はこの中へ入っていますが、相当しっかりしたやつなんです」

子供が玩具でも楽しむように、眼鏡の奥で眼を細くして笑いながら、手をうしろへ廻して、ポンポンと背嚢をたたいて見せた。

須走の方へ峠を降りきると、四人は昼食をするために道ばたへ立ちどまった。

背嚢から乾麺麭の包みを取りだすと、掌の中でこなごなにくだき、たいへん熟練したやりかたで唾といっしょに鵜飲みにしてしまう。

一枚すむと、すぐ次の一枚にとりかかる。これを、腰もおろさずに立ったままでやっつけるのだった。

昼食は三分とはかからなかった。

口のまわりの乾麺麭の粉を払い落として、水筒の水を一杯ずつ分けて飲むと、背嚢をゆすりあげてサッサと歩き出した。

キャラコさんは、これだけのことで、この四人の連中が、今までどんな無頓着な日常を送っていたか、なにもかもわかるような気がした。

仕事に魂をうばわれた、この狂人いじみた科学者たちは、まともな食事をするのをめんどうくさがって、朝も晩も乾麺麭ばかり喰べてすましているのにちがいなかった。四人の仕方で、それがはっきりとわかるのである。

キャラコさんが、やさしく訊問した。

「ずいぶん手軽にすみましたね。……けさは、なにをお喰りになったの?」

黒江氏が、大儀そうに、こたえた。

「なに、って、いつもの通りです」

「いつもの通りって?」

「つまり、いま喰べたようなもの」

「その前の日は?」

「べつに、変わったことはありません」

「それで、お炊事なんか、どうなさるの?」

黒江氏は、ふしぎそうな顔で、キャラコさんのほうに振り返りながら、

「お炊事、って、なんのことです」

「ご飯なんか、どんなふうにしてお炊きになるの」

「ああ、その事ですか。……飯なんか炊いたことはありませんよ。米は持っているには持っているんですが、とても、そんな時間がないもんだから」

「すると、毎日、朝も夜も乾麺麭ばかり喰べているってわけなのね」

「そうです。この半年ばかり、ずっとこんなふうに簡便にやっているんです。……それでなくとも時間が足らないんだから、できるだけそんなことを切りつめなくては」

「でも、そんなことばかりしていて、身体のほうはどうなるんですの」

「身体?……身体のことなんか関っていたら仕事なんかできやしません。そのほうは、当分おあずけです。……喰わないわけじゃない、ともかく、キチンキチンと喰べているんだから……」

「乾麺麭ばかりね」

「ええ、そうです」

従兄の秋作氏の友達に、画かきや若い学者がおおぜいいるので、身体のことなんか一向かまわないそういうひとたちの無茶苦茶な勉強ぶりというものを知らないわけではなかったが、それにしても、こんなひどいのは初めてだった。

キャラコさんは、腹が立ってきた。

「なるほど、たいしたもんだわね!」

自分達の仕事が大切なら大切なだけ、こんな無茶苦茶な仕方をしてはいけないのだった。

(こんなにひどく咳をしながら、こんな生活をつづけていたら、それこそたいへんなことになってしまう)

どうしても、このまま放って置けないような気がしてきた。

このひとたちを丈夫にしてあげることは、間接に大きなものに寄与することになる。一分ほど考えたのち、キャラコさんは、四人にくっついてゆくことに決心した。

こういうすぐれた仕事に、じぶんも参加することができると思うと、たいへんうれしかった。

須走の村へつくと、四人は手分けして買物をはじめた。キャラコさんは、そのちょっとの暇を利用して、すぐそばの茶店で、山中湖ホテルにいる立上氏にこんなふうに手紙を書いた。

あたしは、いま、生まれてはじめといっていいくらい、つよく、感動しています。

ここまでくる途中で、四人の人と道連れになり、その人たちといっしょに、これから丹沢山の奥へ行くことに決心しました。

これから始められようとしているのは、たいへんに意義のあることで、あたしが、いくぶんでもそれに助力できることを、心から光栄に思うようなそんな、立派な仕事なのです。あたしのことはどうぞ、心配しないでちょうだい。

鉱山番が寝泊りしていたバラック建ての小屋は、あわれなようすで崖の上に立ち腐れていた。

扉などはとうのむかしになくなって、板敷きの床のあいだから草が萌えだし、枠だけになった硝子窓を風が吹きぬけていた。

小屋のなかへはいると、四人の一行はすぐ背嚢をおろし、うす暗い蝋燭の光をたよりに、探鉱や分析試験のこまごました器械を組み立てはじめた。

この四人自身が、それぞれ精巧な器械のようなものだった。無言のままで、すこしの無駄もなくスラスラと仕事を片づけてゆく。

キャラコさんは、暗いすみのほうへ遠慮深く坐って、いかにも馴れきった四人の仕事ぶりを感嘆しながら眺めていた。

古びた粗木の卓の上に、レトルトや、分析皿や、そのほか、さまざまな道具がならび、荒れはてた小屋は、たちまち実験室のようないかめしいようすに変わった。

四人は、かんたんな日誌をつけおえると、寝袋をとり出して、さっさと寝支度にとりかかった。

キャラコさんも、それにならって背嚢を枕にすると、じかに床の上へ長くなった。するどい寒さが爪さきから背筋のほうへ駆けあがる。きまりの悪いほど歯がカチカチと音をたてた。

かたく眼をつぶって眠ろうとしていると、おもおもしい足音が近づいてきて頭の近くで止まった。

眼をあいて見ると、四人の指導者格の山下氏がすぐそばに突っ立っていて、つめたい顔つきで、じっと見おろしている。

「あなたは、そこで何をしているんです」

キャラコさんは、おどろいて跳ね起きた。

意外な挨拶だった。説明はしなかったが、自分の意志はちゃんと四人に通じてるのだと思っていた。うるさがりもしないで従いてくるままにさせたのはその証拠だとかんがえていたのである。途方に暮れて、その顔をぼんやり見あげていると、山下氏がいかめしい声で、いった。

「寝るなら、どこかほかのところへ行って寝てください」

キャラコさんの心臓が瞬間、キュッとちぢこまった。が、すぐ元気をとりなおして、しっかりした声でききかえした。

「あたし、出て行かなくてはなりませんの」

山下氏は超然とした眼つきで、黙ってキャラコさんの顔を見つめている。

……それは、いまいったばかりだ。

キャラコさんは、蚊の鳴くような声で、つぶやいた。

「……あたし、ここにいたいのですけど」

対等でものをいうつもりなのだが、いつのまにか哀願するような調子になっているのが情けなかった。

山下氏が、詰問するような口調でたずねた。

「なんのために?」

キャラコさんは、できるだけまっすぐに胸をはると、

「あたし、あなたがたのお手伝いをしたいのです。……力のつく食物をこしらえてあげたり、女でなければできないような細かいことをしてあげたいと思って、それで……」

「たいへん、有難いですが、見ず知らずのあなたに、そんなことをしていただくいわれはない。だいいち、われわれは、あなたの助力などを必要としないのですから」

キャラコさんは、熱くなって、大きな声をだす。

「いいえ、それはちがいます。あなたがたは、ご自分たちが、どんな不経済なことをしているか、まるっきり気がついていらっしゃらないのです。仕事が大切ならばそれだけ、ちゃんと喰べたり、適当な休養をとったりする必要があるんです。そんなことをうまくやってあげるためにあたしの助力が……」

ここまでいったところで、キャラコさんの言葉はピタリと唇の上で凍りついてしまった。冷然と自分を眺めている山下氏の無感動なようすが、キャラコさんのこころをすくみあがらせた。

キャラコさんは、顔をあげて、山下氏のうしろにある三つの顔を順々に眺めたが、じぶんのきもちを理解してくれそうなやさしい眼差しを発見することはできなかった。穏和な黒江氏の眼さえ、はっきりとキャラコさんを追い立てている。

これで、おしまい。いわれた通り、ここから出てゆくよりほかはないのであろう。

キャラコさんは、背嚢を取りあげてそれを背負うと、黙って戸口のほうへ歩きだした。

いつのまにか空が曇り、霧のような雨が、しんとした夜気をぬらしていた。

キャラコさんは、戸口のすぐそばまで行って、そこで踏みとどまった。もういちどやってみようと決心したのである。じぶんの気持を相手に伝えることができないのは、しょせん、まごころがたりないためであろうから。

元気よく廻れ右をすると、小屋のなかへもどってきて、四人のすぐまえで立ちどまった。

「……あまり突然でしたし、それに、私自身についてだって、なにひとつ申しあげていないのですから、気まぐれだと思われてもしようのないことですけど、でも、あたしがご一緒にここまでやってきたのは、決して、いい加減な考えからではなかったのです。……道みち、おひとりからいろいろうかがって、皆さまが、どんな目的で、どんな仕事をしていらっしゃるのか、よく承知することができました。……それから、食事の支度をする時間もないほどお忙しいということもよくよくわかりましたわ。……うかがいますと、この半年ばかりの間、ずっと簡便な方法で食事をすましていらしたのだそうですね。……仕事が大切だから、食事なんかのことで時間をつぶしていられないという考え方については、あたしにはあたしなりに別な意見がありますが、それはそれとして、たとえば、あそこで咳をしていらっしゃる黒江氏についてだけ申しあげても、誰れかちょっと気をつけてあげさえすれば、もっと丈夫になられるはずなんですわ。……みなさまは、仕事のほうが忙しくて、健康や日常の細かいことまでとても気をつけていられない。……それは、よくわかりました。……ところで、……ごめんくださいね、こんな生意気な言葉をつかって。……ところで、ここにブラブラ遊んでいる女の手がひとつあるんです。……自慢になるほどうまいというわけではありませんけど、そんなふうにばかりしつけられて来ましたので、皆さまがお仕事から帰っていらっしゃると、部屋の中がキチンと片づいていたり、ご飯ができていたり、たとえ一杯にしろ、熱い紅茶をあげたりするくらいのことはわけなくやってのけられるんです。お裁縫やお洗濯にも相当自信がありますし、お望みなら、部屋の中に、いつも花ぐらいは絶やさないようにして置きますわ。……それから、あたしは咳によく利く薬草の煎じ方も知っているんです!」

四人の目のまえに、敏感そうな顔つきをした娘が、正直そうなようすで突っ立ち、よどまない、率直な眼差しで、じっと自分たちを眺めている。

健康そうな、力みのある唇のはしがすこしばかりほころび、この荒れはてた小屋のなかでは、それが、新鮮な花々のようにも見えるのである。どんなに堅くひきむすばれたこころも、解きほごさずにはおかぬようなふしぎな魅力を身につけていた。

山下氏が、例の、すこし低すぎる声で、いった。

「……小屋へ帰ると飯ができていたり、部屋の中に花があったりするのは、たしかに気持の悪いことではないでしょう。われわれといえども、そんな楽しみを楽しみとしえないような片輪な人間ではありませんが、こんな苦しい生活をつづけているのは、むずかしい仕事の性質にもよることのほかに、これを機会に、戦場にいる兵士と同じような困苦を経験しようという積極的な意志によることなんです。……豊かに喰べたり、くつろいだり、ゆっくり眠ったり、……兵士的でないいっさいの生活態度を排撃しようと申し合わせているのです。……つまり、最初から、われわれの肉体に困苦を課すつもりで始めたことなんだから、むしろ、このほうがわれわれの望みなんです。……そんなふうなわけで、われわれは戦争をしているつもりなんだから、喰べることや着ることはともかく、あなたのような美しいお嬢さんが、われわれの生活の中へはいって来られるのはすこし困るのです。……われわれにとっては、いま、情緒ややさしい気分なんてものは必要がないばかりでなく、少々実のところ、迷惑なんです」

キャラコさんは頬に、サッと血の気がさす。いつになく、怒ったような声で、いった。

「お言葉ですけど、戦争は男だけがするものでしょうか。……戦場の兵士と同じような苦労を、女は、毎日じぶんの家庭でくりかえしています。……いつも、隠れて見えないところにいるけれども、その眼だたないところで、男性に協力して、びっくりするような大きな働きをしている『女の手』というものをどうぞ忘れないでちょうだい」

気がついて、困ったような顔をしながら、頬に手をあてた。

「あたし、……すこし、いいすぎましたわね」

四人のいちばんうしろにいた黒江氏が、低い声で、いった。

「かまいませんよ。どうぞ、どうぞ」

キャラコさんは、これで力をつけられてる。そのほうへちょっと感謝の微笑を送ってからまた続けた。

「……それから、情緒や女のやさしさなどというものを、なにか、役に立たない、つまらないものだというふうに考えるそういう考え方も、たいへん不服ですわ。……これは、聞きかじりですけど、欧洲戦争のとき、独逸の前線にも、聯合国側ほど豊富に女性の慰問の手紙や篤志看護婦がどんどん行っていたら、戦争の末期に、あんなひどい意気の阻喪の仕方はしなかったろうという事も聞いて知っています。……あたしにいわせると、みなさまのいまの生活は、食事や休養がうまく行っていないことはもちろんですけど、それより、むしろ、女のやさしさとか、慰めなどというものが足りないことがいちばんいけないのだと思います。仕事の能率の上でも、気のつかないところで、どんなに損をなすっていらっしゃるか知れませんわ。……つまり、あたしはそういうことでお手助けしたいと思うのです。……戦争にだって看護婦というものが必要なんですから、みなさまの戦争に、あたしのような娘がひとり加わるのも、無益なことでありませんわ」

赤ら顔の原田氏が、牛のような太い声で、うむ、と、うなった。三枝氏が髯のなかから白い歯を出して微笑した。二人とも、熱心に弁じ立てているこの元気な娘に思わず同感したのである。

山下氏が、三人のほうへチラと振り返ってから、いぜんとして冷静な口調で、

「……それで、どんな動機でわれわれの手助けをしようなどと決心なすったのですか。……それに、あなたはいったいどういうお嬢さんなんです。まだ、それをうかがっていないようでしたね」

キャラコさんが、大きな声で、笑いだす。

「そうですわ。それからさきに申しあげなければならなかったのですわね」

急に、まじめな顔つきになって、

「……あたしのいまの境遇は、すこし奇抜すぎるようなところもありますので、信じていただくよりしようがありませんけど、あたし、最近、ある方からたいへんな財産を譲られましたの。それがあまり評判になったので、父がうるさがって、当分東京へ帰ってくるなというのです。ずいぶん困ったはなしですわね。……嘘でない証拠に、父の手紙をお見せしてもいいわ。……従兄の秋作の意見では、こんな機会にすこし世間を見て置くほうがいいだろうというので、あてなしに旅行をしていたんですの。……ご存知ないかも知りませんけど、今のあたしたちの年ごろの娘たちはどんなに精一杯な仕事をしたがっているか知れませんのよ。でも、めったにそういう機会にめぐまれることがありませんの。……だから、みなさまのような方にお逢いできたのは、あたしにとっては思いがけないしあわせでしたわ。意味もなく歩き廻っていただけですんでしまうかも知れなかったのですものね。……ところで、あたしが、みなさまにお逢いしたおかげで、この旅行は、たいへんな意義をもつことになりました。みなさまのお世話さえしてあげれば、間接に日本のなにかに寄与することになるのですから、こんなすばらしいことってありませんわ。……これが、あたしの決心の動機よ」

山下氏が、むずかしい顔をほころばせて、眼に見えないほどの微笑をした。

キャラコさんは、一歩前へ進み出て、胸を張って、いった。

「あたしは、こんな若い娘ですが、決してグニャグニャではないつもりですわ。それから、父も兄弟も従兄も、みな、あたしを信用していてくれます。あたしに絶対の信頼がかけられているんです。理由のあることなら何をしてもいいことになっていますの。ですから、あたしが、突然飛び込んで来たことで、みなさまにご迷惑をかけるようなことは決してあるまいと思いますわ」

愛想よく笑って、

「……ずいぶんしゃべりましたわ。……申しあげたいことは、まだどっさりありますけど、もうこれくらいにして置きますわ。……どうぞ、あたしをおしゃべりだと思わないでくださいね。ふだんは、これでも無口なほうなんです。あたし、一生懸命だったからなんですわ」

山下氏が、意見をたずねるように三人のほうへ振り返った。三人は思い思いの仕方でうなずいた。

山下氏は、キャラコさんのほうへ向き直ると、冷淡な口調で、いった。

「よくわかりました。……お見受けするところ、あなたは、男の仕事の邪魔をする、やり切れないお嬢さんとはすこしちがうようだ。仕事を助けてくださるという意味でなら、いてくだすって差し支えありません。……みなも、……どうやら……賛成しているようですから」

次の朝、まだ薄暗いうちに、四人は元気よく鉱坑のある谷間のほうへ降りていった。

キャラコさんは、たいへん忙しい。

四人の大の男をじゅうぶんに食べさせ、居心地よくさせ、くつろがせ、慰安をあたえ、休養させ、やすらかに眠らせ、……食べることから、身のまわりのいっさいのことを、十九になったばかりのこの二本の細い腕でやっつけなければならない。長六閣下とじぶんの名誉にかけて、宣言しただけのことは、やってのけなければならないのである。

四人が出かけてゆくと、キャラコさんは、小屋の掃除にとりかかった。

床板のあいだから生え出している草をたんねんにむしりとり、四つの窓には四人の防水衣をカーテンのかわりに掛けた。炊事場の棚をつけなおし、落葉でつまっていた樋を掃除して、清水が流場へ流れこむようにした。雑草のなかに倒れていた扉をひきおこし、骨を折ってこれを入口にとりつけた。

これに、午前いっぱいかかってしまった。

小屋のなかが片づくと、そろそろ夕食の支度にとりかからなくてはならない。まず、炊事道具と食糧の検査をはじめた。

四人がしょってきたものは、たいへん貧弱である。コッフェルが一つ、フォークのついたナイフが四挺、アルミのコップが四つ。……これでは、ないほうがましなくらいである。

材料のほうになると、これもまた心細いきわみだった。キャラコさんのぶんを合わせて、つぎのような貧弱な材料で、村へ買出しにくだる日までもちこたえなくてはならない。

(キャラコの分)コッペ二つ、レモン二個、角砂糖一箱、板チョコレート二枚。

(四人の分)米、塩、味噌、乾パン、熱量食。

キャラコさんは、意想の天才である。このような場合には、たいてい独創的な思いつきをしてひとを驚かすのだが、この貧弱な材料で四人の男を四五日養うというのには、たしかに、神の助けが必要なようである。

「困ったわね。これでは、どうにもならないわ。とりあえず、なにか力のつくものを喰べさせなければならないというのに……」

キャラコさんは、途方に暮れたようにため息をついていたが、間もなく気をとりなおして、男のように腕を組んでいろいろと工夫しはじめた。

しかし、思いつきをするのに、たいして時間はかからなかった。

「……裏山へ入ると、蕗ぐらいあるかもしれないし、ひょっとすると、川には岩魚なんかいるかも知れないわ。……ともかく、出かけてみるこったわ」

大急ぎで米をとぐと、裏山へ駆けあがって行ったが、木苺がすこしあるばかりで、喰べられそうなものはなにひとつ見当らなかった。

キャラコさんは、ガッカリして、情けない声をだす。

「おやおや、ずいぶん貧弱なところね。せめて、蕨か蕗の薹ぐらいあったっていいはずなのよ。木苺がこれぽっちとはあんまりだわ。……この分では、川のほうだってあまり期待ができないらしいわね」

キャラコさんは、ひとりでブツブツいいながら裏山をおりて川の岸までゆくと、すこしくい込んだ、沢のようになったところに、あさ緑の水草のようなものが密々と生えている。見ると、それは水芹だった。

キャラコさんは、夢中になって手をたたく。

「あら、水芹があるわ!」

手でさわって見ると、みずみずしい、いかにもおいしそうな水芹だった。

「これで、おひたしのほうは片づいた。……仏蘭西掛汁をかけてサラダにしてもいいし、お味噌汁の中へ入れてもいいわけね。……これだけあったら、充分二三日は喰べられるわ。……待っていらっしゃい、帰りにたくさん摘んであげるわ。……こんどは魚のほうだけど、うまく、何かいてくれるかしら……」

岸について川上へのぼってゆくと、すこしよどみになって深い瀬へ出た。水の中へ手をいれて川底の石をひろって仔細に眺めて見ると、水苔に魚が突ついた口のあとがついている。

「うまい工合ね。このぶんなら、たしかに山女魚ぐらいはいそうだわ」

岸からそっと身体をひいて、骨を折って大きな蠅を一匹つかまえて羽根をむしって水の上へ落してやると、まるで待ちかねてでもいたように、水の面がはげしく動いて、キラリと鱗を光らせながら、虹色の魚が飛びあがりざま、パクリとそれをのみ込んでしまった。四寸ぐらいもある美しい虹鱒だった。

キャラコさんが、うっとりとした声を、だす。

「虹鱒だわ! なんて、すばらしいこと!……水芹があって、そのうえ虹鱒まであったら、帝国ホテルのご馳走にだって負けはしないわ。……これじゃ、愚痴どころではないようね。貧弱なところだなんていったのは取り消してもいいわ」

キャラコさんは、うれしくて胸がドキドキしてきた。

「フライにして、レモンをかけて喰べてもいいし、塩焼きにしてもいいわね。利用の方法はいくらでもあるわ。それはそうと……」

それはそうと、この虹鱒をどうして捕まえようというのです。気をきかして、虹鱒が自分からフライ鍋の中へはいってくるなんてことはとても期待ができない。いずれにしろ、釣るとか捕まえるとかするほかはないのだが、綸もなければ鈎もない。網の代用になるようなものも思いつかない。

キャラコさんは、無念そうな顔をして水の面をにらみつけていたが、なかなかいい考えがうかんで来ない。

「……困ったわね。こんなたいへんなご馳走が目の前で泳いでいるというのに、手も足も出ないというのはあまり情けないわ。なんとかならないものかしら」

虹鱒は、キャラコさんをからかうように、すぐ眼の前で水の面へ飛び出して、ボシャンと大きな音をたてて水の中へ落ち込む。キャラコさんは、腹を立てる。

「そんなふうにたんと馬鹿にしていらっしゃい。いまに、つかまえてあげるから……」

キャラコさんは、川下のほうを眺めながら、腕を組んで、かんがえる。

「……釣鈎も網もないとすると、簗をつくってかいぼりするよりほかないようね」

水はせいぜい膝がしらぐらいの深さしかないが、五間ほどの幅で、岩にせかれながら相当早い瀬をつくって流れている。ちょっと手軽にゆきそうもない。

「たいへんだ。この大きな川をかいぼりするのかしら……」

しかし、それより方法がないとなると、やっつけるよりしようがない。

キャラコさんは、だいたい思いきりのいいほうだから、いつまでもグズグズ考えていない。スカートの裾をたくしあげると、すぐさまかいぼりの実地検分にとりかかった。

丹沢の地震のとき、このへんもだいぶひどくやられたとみえ、凝灰石の大きな岩がいくつも川の中へころげ落ちて、ところどころで流れをせきとめている。その岩と岩との間を簗でふさいでゆけば、どうにかかいぼりができそうな工合だった。

キャラコさんは、物置小屋に古い葦簀があったのを思い出し、小屋まで駆け戻ってそれをひと抱えかかえて来た。

おもしろいどころではない。キャラコさんは、もう一生懸命だった。四人にこのみごとな虹鱒を喰べさせてあげたいという思いで、胸のしんが痛くなるほどだった。

膝までザブザブ水の中へはいって、岩と岩の間へ葦簀を張って、その裾のほうを石でしっかりととめて行った。

中瀬のところは流れが早くてたびたび失敗したが、いくども根気よくやり直してどうにかやりこなし、魚を追い詰められるように、岸のところへ古い蛇籠と木の枝を沈めてのようなものをつくった。

二時間ばかりかかって、簗を張り終えると、ずっと川上から流れの中へ入って、真剣な顔つきをしながら、そろそろと魚を追いおろしにかかった。

夕靄がおりるころになって、四人が小屋へ帰ってきた。

「お帰りなさい。たいへんだったでしょう」

キャラコさんは、小屋の入口まで走り出してひとつずつ鉄槌を受け取ると、四人を清水のわいているところへ連れて行った。

「顔と手を洗って、ちょうだい」

四人はよわよわしい反抗の身ぶりを示したが、ニコニコ笑いながら立っているキャラコさんのなんともいえない愛想のいいようすを見ると、抵抗し切れなくなったとみえて、観念したようにしぶしぶ顔を洗いはじめた。

大男の原田氏は、狼狽のあまり、たったひとつしかないキャラコさんの石鹸を手からすべらせて、どこかへなくしてしまった。

キャラコさんは、四人を台所兼用の『食堂』へ案内して、自然木でつくった大きな食卓のまわりに坐らせた。

主座には、色のさめたような蒼白い顔をした山下氏がついた。その右に、小さな円い眼をした縮れ毛の三枝氏。その向いが、どっしりと坐りのいい頑丈な原田氏。その隣りに、髯さえも悲しげな、しょっちゅう咳ばかりしている黒江氏が坐った。四人は、小屋の中があまりきれいになっているので、当惑したような顔つきで、眼のすみからジロジロと見まわしていた。

「思うようなことができませんでしたけど、どうぞ、どっさりあがって、ちょうだい」

キャラコさんが、すこし上気したようなようすで、食卓のうえの白い布を取りのけた。

「ほう!」

四人は、思わず、吐息とも嘆息ともつかぬ低い叫び声をあげた。

食卓の上には、冷静な科学者の眼をも驚かすほどのすばらしいものがのっていた。

かたちのいい川魚が、金色のころもをつけて、エナメル塗りの白い分析皿の上でそっくりかえり、現像用の大きなパットの中には、緑色の新鮮なサラダが山盛りになっている。そのとなりで、赤くゆであげられた海老のようなものが威勢よく鋏をのばし、山蘭の花をうかせたどろりとしたスープが手コップの中で湯気をあげている。コッフェルの蓋には、薄い褪紅色の木の実のようなものが山盛りになっている。……スープから食後の果物までのいろいろな喰べものが、蝋燭の光の中で鮮かな色をしておし並んでいた。丹沢の奥の、窓ガラスもないような破小屋の中に、こんなめざましいご馳走が並んでいるなどというのは、まるで、夢の中の出来事のようだった。

原田氏が、おびえたような顔で、

「これは、たいへんだ」

と、つぶやいた。

黒江氏は、感動して何かいいかけて、ひどく咳にむせんだ。

三枝氏は、小さな眼をパチパチさせながら呆気にとられたようにぼうぜんと食卓の上をながめていたが、顔をふりあげてキャラコさんの顔をみつめると、低い声でたずねた。

「これは、いったい、どうしたというご馳走なんですか?」

どういう手段と経過によって、こんな思いがけない結果に到達したのか、そこのところが知りたいという学者らしい好奇心を起こしたのだった。

キャラコさんは、額ぎわまであかくなって、夢中になって説明した。

「……分析皿の魚は川にいた虹鱒を、乾麺麭をくだいた粉にまぶして油で揚げたもので、このサラダは、沢に生えていた水芹を酢と油であえたものですわ」

三枝氏が、納得しない顔をした。

「でも、こんな山ン中で、フライの油などあるわけはないが……」

「それはね、測量機械をふくオリーブ油を少々拝借したのですわ」

「ほほう。……それで、酢なんかは?」

「分析の実験にお使いになる酢酸を、ひとたらしほど拝借しましたの」

「なるほど!」

「いけませんでしたかしら……」

三枝氏は、へどもどしながら、

「いや、結構です、結構です。……いけないなんてことはない。毒薬でさえなければ、何を使ってくだすっても結構ですが、それはそうと、この蟹と海老の合の子のようなのは、いったい何者ですか」

「これはね、有名な蜊蛄よ。……日本の食通がひどく珍重するんですって。あたし、日本アルプスの山のホテルでいちどいただきましたわ。となりのテーブルにフランス人がいましてね、これが皿に盛って出ると、エクルビース、エクルビース! といって夢中になってよろこんでいましたわ。フランスでも、たいへんいきなものになっているんですって。……でも、どんなふうにお料理するのか知りませんから塩うでにしましたの。……それから、お砂糖がかかっているのは裏山の木苺で、手コップにはいっているのは山女魚のスープです。たった一匹しか簗へはいってこなかったもんですから、こうするよりしようがありませんでしたの」

そういって、丁寧に会釈をすると、

「あたしたちの年ごろの娘のお料理なんていうと、一般には、あまり信用されないのが普通のようです。なかには、ひどくおびえる方もありますわ。……でもね、どうぞ、恐がらずに喰ってちょうだい。あまりひどいことにならないだろうってことだけは、自信をもって申しあげますわ」

原田氏が、ひどく固くなってフォークを取りあげた。

三枝氏は、胸を張って、

「えへん」

と、しかづめらしい咳ばらいをした。黒江氏は、何から手を出したらいいのかというふうに、キョトキョトと両隣りのやり方をぬすみ視した。

さすがに、山下氏がいちばん冷静だった。手コップを取りあげてゆっくりとすすりはじめた。

破小屋の、ふしぎな晩餐がはじまった。

四人ながら戸迷ったようなようすをし、食べものの上へ深くうつむいて、互いに顔を見られないように用心し合うのだった。

半年ぶりで人間らしい食事をするというのに、みな、むっつりと頑固におし黙って、さもいやいやそうに喰べるのだった。

ところで、どうしたというのだろう。

ことさららしく顔をしかめているのに、みなの頬骨のうえのところに美しい血の色がさし、さながら輝きだすようにさえ見えるのである。

分析皿にも、現像のパットにも、何ひとつ残らなかった。あんなに山盛りになっていたサラダも虹鱒のフライも、朝日に逢った淡雪のようにどこかへ姿を消してしまった。特大のコッフェルで炊いたご飯が、ほんの申し訳ほど底に残っただけだった。キャラコさんは、乾麺麭でもかじって我慢するよりしようがないことになった。

黒江氏が、申し訳なさそうな声で、いった。

「こりゃ、どうも……、あなたのぶんまで侵略してしまったようですね」

キャラコさんが、笑いだす。

「いいえ、そんなことはありませんわ。あたし、手廻しよく、さっきすまして置きましたの」

食事がすむと、熱いチョコレートまで一杯ずつ配られた。

四人は、チョコレートのはいった手コップを取りあげると、這々のていで実験室まで引きさがって行った。

黒江氏が、チョコレートをすすりながら、遠慮がちに、つぶやくような声で、いった。

「……ともかく、あのお嬢さんに、家政と料理の天分があるということだけは、認めてもいいわけだね」

三枝氏が、同じような調子で、こたえた。

「……そのほうでは、たしかに良識だよ。こういう種類の快楽は、われわれの仕事の邪魔になるとしてもだな」

原田氏が、怒ったような大きな声を出す。

「きいたふうなことをいうな。……ご同よう、下宿の女中と、研究室の小使いの庇護のもとにいるだけで、ああいう女性の行き届いた心づかいなどを受けたことはかつて一度もないんだから、それが仕事の邪魔になるかどうか、経験として語りうる資格のあるやつは一人だっていやしないんだ。……ところで、おれの感想を率直に述べると、おれは、非常に愉快だった。……喰いもののことなんかいってるんじゃないぜ。……はじめての経験なんで、うまく感じをいいあらわすことはできないが、とにかく、呆気にとられるくらい愉快だった。……なんではあれ、見ず知らずのお嬢さんにこんなに親切にされて、それが感じられないんじゃ、諸君は、相当な非人間だぞ」

山下氏は、唇のはしにおだやかな微笑をうかべながら黙ってきいていた。かくべつ、原田氏の意見に反対するようなそぶりはしなかった。

毎朝、キャラコさんは、まだ東が白まないうちに起きあがる。火を焚きつけて朝のご飯をしかけると、眠っている四人の眼を覚まさないように、手早く、しずかに部屋の中を掃除する。まるで自分の心の中のように部屋を掃く。どんな隅でも掃き落とさない。

四時半には、小屋の中がさっぱりとなっている。掃除がすむと、鉱山でつかう道具をそろえて、すぐ出かけられるようにしておく。五時には台所の食卓の上で、味噌汁とご飯が湯気をあげて山へ行く四人を待っている。五時になると、四人がいっせいに起き出す。朝飯を喰べている間にサッサと寝床を片づけ、寝袋をよくたたいて戸外へ乾す。四人が出かけてゆくと、分析台の掃除にとりかかり、それがすむと洗濯をしたり繕いものをしたりする。十時になると、そろそろ昼の支度にとりかからなくてはならない。ご飯がたきあがると、せっせとお弁当をつくり始める。おむすびにしたり、海苔巻きにしたり、幕の内にしたり、いろいろである。

お弁当ができあがると、番茶の薬鑵をさげて、小屋のうしろの崖の上へあがってゆき、矢車草のなかに坐って谷底の合図を待っている。河原にいる山下氏が崖の上へ片手をあげる。これが、昼飯にしようという合図なのである。キャラコさんは、それを見るといっさんに谷底へ駆けおりる。……。

鋒杉の稜線のうえに、まっ青な空がひろがり、それを突きさすように高く伸びあがった檣の頂きで、虹色の旗がヒラヒラと風にひるがえっている。

あの次の朝、キャラコさんが食料をさがしに裏の崖へのぼって行ったとき、この檣を発見した。むかし、なにに使ったものか、崖のギリギリのところに、ちょうどナポリの笠松のようなようすで、すっくりと立っている。キャラコさんは、ふと思いついて、それに、虹色のマフラーを旗のように揚げた。

これは、なにによる感情なのかじぶんでもわからなかった。ただ、高いところでひるがえる旗のようなものがほしかったのである。

家政的なことでは、あまり、感心したような顔をしない四人の科学者たちも、キャラコさんのこの思いつきには、心から賛同した。原田氏が、いった。

「すこし参りかけたとき、谷底から小屋の旗を見あげると、ふしぎに元気が出てくる」

キャラコさんの頭のうえで、その虹色の旗が、この小屋の五人の希望の象徴のように、力強い音をたててハタハタとひるがえっている。

もう、正午ちかいのに、なかなか合図がない。キャラコさんは、檣の下まで行って、額に手をかざして谷底をのぞき込む。

渓流にそった広い河原は、陽の光でいちめんに白くかがやき、その白光のなかで、四人が崖を削ったり、石をくだいたり、めざましく働いているのが蟻のように小さく見える。槌で石をうつ音が、いくつもいくつも山彦をかえしながら気持よく響いてくる。

カチン、カチンという音は、いつまでたってもなかなかやみそうもない。腕時計を見ると、もう一時近くになっている。

キャラコさんは、そろそろ心配になってくる。

「また、ひるご飯を忘れそうだわ」

大きな声で、おうい、と叫びたくなるのをいっしんにがまんする。

四人は、ひと区切りがつくまで仕事をやめない。それを中断されるとあまり機嫌がよくない。キャラコさんはそれを知っているので、決して邪魔をしないようにしている。

キャラコさんは、矢車草の花の中へ坐って、しんぼうづよく、いつまでも待っている。

ようやく、槌の音がやむ。谷底から、おーい、という声がきこえる。谷底をのぞきこんで見ると、四人が崖の上をふりあおぎながら手をあげて叫んでいる。キャラコさんは、勢いこんで、いっさんに崖道を駆けくだる。

五人は、河原の涼しいところに坐ってお弁当をひらく。

四人とも、ひどく腹をすかしていてむやみにたべる。やっこらしょと下げてきたたくさんのおむすびが、たちまちなくなってしまう。

午飯がすむと、ちょっと一服する。誰も大してはずんだようなようすは見せないが、すくなくとも、不愉快そうではない。煙草の煙りをゆっくりと吹きだしながら、重い口で冗談めいたことをボツリボツリといい合う。以前にくらべると、これだけでもたいへんな変化だった。

三枝氏が、むずかしい顔をして考え込んでいたが、何か重大な感想でも打ち明けるような口調で、

「要するに、われわれは、毎日ピクニックをしているようなものだね」

と、いった。ピクニックという言葉がおかしかったので、みな、クスクス笑いだした。

三枝氏が、まじめな顔でつづけた。

「……これが、単なる昼食でない証拠に、こんなふうにしていると、なんとなく歌でもうたい出したいような気持になる。奇態なこともあればあるものだ。……たしかに、なにか変調が起きたのにちがいない」

キャラコさんは、お弁当の殻の始末をして崖の上にあがってゆく。が、夕方までぼんやりしているわけにはゆかない。三日に一度、往復四里の道を歩いて初繩の聚落まで食糧の買出しに出かけなければならない。バスに乗って別所まで出かけることもある。四里といっても、地震で壊されたひどい石ころ道ばかりなので、夕飯の支度に間に合うように帰って来るのはなかなか楽ではない。歩くことなら決してひとに負けないキャラコさんも、買出しから帰ってくると、いつも汗みずくになって息を切らしている。

夕飯がすむと、四人はすぐに鉱石の分析試験にとりかかる。

キャラコさんは、手早く食事のあと片づけをすますと、すぐ白い前掛けをつけて実験室へ現われてくる。

一週間もたたないうちに、キャラコさんは分析実験の段取りをすっかり覚えてしまった。

キャラコさんは、額にむずかしい皺をよせながら分析台のそばに立って、せわしそうに動く四人の手を注意深くながめている。そして、適当な時に、ツイと分析皿を差し出したり、アルコール・ランプに火をつけたり、無言で差し出す手にピンセットを渡してやったりする。

キャラコさんはひとことも口をきかないばかりか、大きな呼吸さえしないようにしているので誰れもキャラコさんがそばに立っていることに気がつかない。仕事の区切りがついて、ひと息いれるとき、いままで円滑に仕事がはかどっていたのは、キャラコさんが手助けをしていてくれたお蔭だということを知ってびっくりしてしまう。黒江氏が、いう。

「ほほう、またキャラコさんだったんですね」

「ええ、そうよ、あたしですわ。幽霊ではなくてよ」

三枝氏が、感嘆したような声をだす。

「たしかにそれ以上ですよ。……僕は原田がそばにいるのだとばかし思っていた」

山下氏が、生真面目な表情で、うなずいた。

「キャラコさんは、たしかに、研究室の学生よりもうまくやる」

廿分ほど休憩すると、四人は仕事の続きにとりかかる。キャラコさんは、また無言で働きだす。

十一時になると、四人は実験を切りあげて寝床へゆく。

キャラコさんは、みなに、おやすみ、をいってじぶんの寝床のある『食堂』までひきさがると卓の上に立てた薄暗い蝋燭の光の下へノートをひろげて、低い声で、

「……Au……金、……CuFeS2……黄銅鉄、……Ag2S……輝銀鉱……」

と、二時ごろまで、鉱石の成分式の暗記をやっている。

気むずかしい顔をした楽しいあけくれが、こんなふうに半月ほどつづいた。みな、見ちがえるように健康そうになり、互いの顔をながめては呆気にとられるのだった。

ところで、キャラコさんは、やはりこの小屋に必要な人間だった。人生にとって、『女の手』というものがどんなに大切なものか証明されるような事件が起こった。

夜なかに、こっそり起きて分析試験をしていた黒江氏が、誤って吸管の炎を咽喉に吸いこんで大怪我をしてしまった。

黒江氏は炎などを吸い込む気はなかった。

夜がふけて、しんしんと小屋の中が冷えてくると、例の咳がはげしくなってくる。自分の咳で仲間やキャラコさんの眠りをさまたげまいと思って、がまんにがまんをかさねる。突然、咽もとへ突っかけて来た咳の発作をこらえようとして、無意識に息をひいたとたん、吸管の炎を深く吸いこんでしまったのである。

たいへんな怪我だったけれど、黒江氏は、みなを驚かすまいと思って、叫び声ひとつあげなかった。

板壁を伝ってそろそろと扉のほうへはっていったが、とうとう力がつきて、戸口のところで気を失ってバッタリと倒れてしまった。清水で咽喉を冷やし、そっと自分で始末してしまおうと思ったのである。

最初に発見したのはキャラコさんだった。

キャラコさんは眠っていたのではなかった。いつものように食卓の上に蝋燭を立てて、せっせと鉱物学の常識を養っていた。入口の扉のほうで何か重いものが倒れたような音がしたので、そっと出て来てみるとこの始末だった。

キャラコさんは、たいへん沈着だった。

額に手をあてて見ると、たいして熱はなかったが、もし、脳溢血で倒れたのでもあったら、へたに動かしたらたいへんなことになると思って、そのままそっと床に寝かしたまま、しずかに、三人を呼び起こした。

「すみませんけど、ちょっと、起きてちょうだい」

三人は、すぐ眼をさました。が、キャラコさんがいつもと変わらないようすをしているので、こんなたいへんなことが起きているとは、とっさに気がつかなかった。

山下氏だけは、何かけはいを感じて、キュッと顔をひきしめながらたずねた。

「どうしました、キャラコさん」

キャラコさんが、しっかりした声で、いった。

「ちょっと、黒江さんのようすを見てちょうだい。ひどく悪いのだったら、これからすぐ医者を迎えにゆかなくてはなりませんから……」

そういっておいて、じぶんは急いで黒江氏の寝床をつくり、洗面器に清水を汲んでタオルと一緒に枕もとへそなえて置き、いつでも医者を迎いに出かけられるように甲斐甲斐しく身支度をしはじめた。

黒江氏は、間もなく意識をとり戻した。ぼんやりした眼つきで皆の顔を見廻していたが、頭がはっきりすると、吸管の炎を吸い込んでしまったのだと手まねで説明した。

ようやく原因はわかったが、どの程度の負傷なのかわからないし、どういう手当をすればいいのか見当がつかないので、ともかく医者を呼んでくることがさしあたっての急務だった。

キャラコさんが、ちゅうちょなく立ちあがった。

「あたし、行ってきますわ」

時計を見ると、夜なかの二時だった。小雨がふり、それに、風が出かけていた。

三枝氏がおどろいて、とめた。

「冗談じゃない、キャラコさん。こんな夜ふけに、あなたのようなお嬢さんをひとりでやられるものですか。私が行きます」

「だいじょうぶよ、心配しないでちょうだい。そんなことをなすったら、あなたあしたの仕事に差し支えるでしょう。あたしは遊んでいるんですから、あたしが行くのが当然よ。こんな時のために、あたしがここにいるんですわ」

そして、黒江氏の顔をのぞき込むようにしながら、いった。

「すぐ医者を呼んで来ますから。元気を出していてちょうだい」

黒江氏は、首をふって、いやいやをした。急に気が弱くなって、眼をしっとりとうるませていた。キャラコさんに、そばにいてもらいたいのらしかった。

山下氏が、いつになく懇願するような調子で、いった。

「医者を呼びに行くことはわれわれにだってできますが、介抱するほうはわたしどもではうまくゆきそうもないから、あなたは、どうか、ここにいて、こいつを見ていてください。……黒江にしたって、そのほうが心丈夫だろうし……」

キャラコさんは、素直にうなずいた。

「あなたが、そうおっしゃるんでしたら、そうしますわ」

カバード・コートを脱いで、袖をまくりあげると、酢酸をたらし込んだ冷たい水で、せっせと黒江氏の咽喉を湿布しはじめた。

「黒江さん、あなた、熱もないんですし、それに、そんなふうに、しっかりと眼をあいていられるでしょう。けして、たいしたことはありませんの、すぐ癒りますわ。災難なんて部類にもはいらないくらいよ」

キャラコさんの声の中には、ひとの心をなだめすかすような、明るい、しっかりした調子があって、それをきいていると、この世の中に、クヨクヨしたり、思いわずらったりするようなことは何ひとつないのだというようなのどかな気持になるのだった。

朝の九時ごろになって、三枝氏が宇部から医者をつれて来た。

医者の意見では、差し当って火傷面が融合するような危険はないが、こんなところでは手当も充分ゆきとどかないだろうから、町までおろして入院させたらどうかということだった。

ところで、黒江氏のほうは、この小屋から出てゆくことをどうしても承知しないのだった。じぶんをひとりだけ町へおろすようなことはしてくれるなと哀願した。とりわけ、行き届いたキャラコさんの介抱を受けられなくなるのが心細いのらしかった。

ぜひそうしなければならぬというのでもなかったので、病人の望むようにさせることになった。

黒江氏は、キャラコさんが、ちゃんとじぶんの枕もとに坐っているのを見届けると、安心したようにこんこんと眠りはじめた。

怪我のほうもそうだけれど、こんな折に休養と栄養を充分とらせて健康を回復させてあげたいとかんがえて、その思いだけでキャラコさんの心はいっぱいだった。

まだ重湯が通るぐらいなので、元気のつくような食べものを喰べさせられないが、せめてさっぱりさせてあげようと思って、倒れたときのままの肌衣と靴下をはぎとりにかかった。

黒江氏は、この地球上にどこにも身の置きどころがないというふうに身体を固くしながら、ささやいた。

「ひどく、よごれていますから……」

「ですから、サッパリしたのと取り換えましょうね」

「でも、……どうか、よしてください」

「じゃ、せめて、靴下だけでもとりましょう」

「しかし、きっと、ひどく臭うでしょうから……。このままにして置いてください」

「どうしても、いけませんの」

「死ぬよりつらいから、どうか、このままにしておいてください」

ところで、小屋の災難は、これだけではすまなかった。

一日において、その次の日、こんどは原田氏が落石の下敷きになって右足をつぶしてしまった。

その日、三人は支柱のない危険な廃坑の中で働いていた。夕方ちかいころ、三人のすぐ横の岩盤が、きしるような妙な音を立てた。

これが、災難のキッカケだった。根元のところから始った亀裂が、布を裂くような音を立てながら、眼にもとまらぬ早さで電光形に上のほうへ走りあがってゆき、大巾な岩側が自重で岩膚から剥離しはじめた。

原田氏は、二人より比較的入口の近いところにいた。

妙な音がするのでそのほうへふりかえって見ると、大きな岩側が、今まさに二人の上に倒れかかろうとしている。

原田氏は、とっさに身をひるがえすと、二人のそばへ飛んでいって、岩側と二人の間に自分の躯を差しいれた。

屏風倒しに倒れて来た幅の広い岩側は、牛のような頑丈な原田氏の肩でガッシリと防ぎとめられたとみえたが、それも束の間のことで、原田氏は岩盤に押されて海老のように躯をおしまげられてしまった。原田氏の頸に、打紐のような太い血管がうきあがり、顔は朱を流したようにまっ赤になった。

山下氏と三枝氏は、原田氏のそばへ駆けよって、力を合わせて落盤を支えようとすると、原田氏は、切れぎれに叫んだ。

「逃げろ! おれの股の下をくぐって!」

二人は、原田氏を見捨てて逃げ出す気にはどうしてもなれなかった。一緒になって岩につかまっていると、原田氏は、地鳴りのような声でほえたてた。

「馬鹿野郎! 俺を殺す気か。……君達が逃げ出せば、俺も助かるのだ。早く、俺の股の下を!」

原田氏は、そういうと、何とも形容のつかぬうなり声を出しながら、肩の岩盤を押しかえしはじめた。

二人は、すぐその意をさとって、いわれた通りに原田氏の股の下をくぐりぬけて入口の方へ駆け出した。

原田氏は、二人が無事にぬけ出したのを見ると、肱と肩を使って微妙に身体をひねりながら、恐ろしい重さでのしかかってくる岩盤の桎梏のしたからツイとすりぬけた。

そこまでは、たしかにうまくいったが、急に支えをはずされた岩盤は、えらい速さで洞道の上に倒れかかり、まさにはい出し終わろうとしている原田氏の右の足首をおしつぶしてしまった。

原田氏は、膝から下を血みどろにして、三枝氏におわれて小屋へ帰って来た。

この時も、キャラコさんは、たいへんに沈着だった。

分析台の上に寝かされた原田氏の足首が石榴のようにグズグズになり、はじけた肉の間から白い骨があらわれ出しているのを見ても顔色ひとつかえなかった。その度胸のよさといったらなかった。

山下氏と三枝氏が、気ぬけがしたようにぼんやり突っ立っているうちに、キャラコさんは鋏でズボンを切り開き、手早く清水で傷口を洗うと、左手でギュッと原田氏の脚をおさえながら沃度丁幾を塗りはじめた。

原田氏が、牛のような声でほえ出した。

「ああ、灼けるようだ。気が遠くなる」

蒼ざめた額に玉のような汗をかき、身体じゅうを痙攣させながら悲鳴をあげた。

「もう、よしてくれ。足なんかいらないから、もう、よしてくれえ。死にそうだ」

キャラコさんは、やめない。しっかりした声で、激励する。

「もう、一、二分。……すぐすんでしまいますわ。もう、ほんのちょっと!」

そういう間も手を休めずに、セッセと沃度丁幾を塗る。

原田氏は、ありったけの力をふりしぼって叫び立てる。

「もう、よしてくれ!……おれの足へそんなものを塗ったくっているのは誰なんだ!……おい、誰だってえのに!」

キャラコさんが、手を動かしながらこたえる。

「あたしよ。……もう、ちょっとだから我慢してちょうだい」

原田氏が、急に黙り込んだ。もう、うんともすんとも言わなかった。頭をまっ赤にふくらせ、ギュッと歯を喰いしばって、とうとう我慢し通してしまった。

二人が病床についてから、もう、一月近くになる。

この六つめの山も、今までのそれと同じように、あまり好意のある反応を示さなかったが、山下氏と三枝氏は、たゆむことなく、毎日、朝はやく谷間へ降りて行った。

夕方になると、二人は疲れたようなようすをして小屋へ帰ってくる。

原田氏は、

「今日は、どうだった?」

ときく。黒江氏も、ささやくような声でようすをたずねる。

すると、山下氏は、判でおしたように、

「いいほうだ」

と、かんたんにこたえた。

キャラコさんも黒江氏も原田氏も、山下氏がそういう以上、鉱山はすこしずつうまく行っているのだろうと思っていた。ところが、それは嘘だった。

それから、また五日ほどたった夕方、遅くまで二人が帰って来ないので、河原まで迎いにゆくと、二人は鉱坑のそばの石に腰をかけて、白い夕靄のなかでこんな会話をしていた。

靄の向うで、つぶやくような山下氏の声が聞える。

「いよいよ、この山ともお別れだ」

ながい間をおいてから、三枝氏の声が、こたえた。

「そう、いろいろなものとお別れだ」

「いろいろなものに……」

山下氏としては、珍しく感情のこもった声だった。

また、ポツンと間があく。渓流の音が、急にはっきりと聞えだす。

山下氏が、つづけた。

「われわれの労苦がむくいられることなどは、すこしも期待していなかったのに、思ってもいない方法で、感謝された。……かりに、神というものがあるならば、神様とは、なかなか油断のならない人格だね」

「おれも、そう思うよ。……あの二人さえ、怪我をしたことを、ちっとも情けながっていないんだからな。それどころか、たいへんなもうけものでもしたようにかんがえている」

「幸福なやつらだ」

「正直なところ、おれも、足ぐらい折りたかった。あんなにしてもらえるなら」

「馬鹿なことをいうな」

「そういう君だって、あのひとに別れたくながっている」

「そんなわかりきったことを、口に出していうやつがあるか」

三枝氏が、低い声で笑った。山下氏がつづいて、つぶやくような声でなにかいったが、それは渓流の音にけされてキャラコさんの耳にはとどかなかった。

キャラコさんは、沈んだこころで小屋へ帰ってくると、入口の柱に背をもたせて長いあいだ立っていた。じぶんの沈んだ顔いろを原田氏や黒江氏に見られてはならないと思ったからである。落胆が激しかったので、こころをとりなおすのにだいぶ時間がかかった。

納得のゆくまで充分考えたすえ、気を取りなおした。四人の剋苦の精神のほうが、金の何層倍も尊いのだと思った。

「これだけやれば充分よ、勝ったもおなじことだわ」

夕食がすむと、山下氏が、率直に切り出した。

「いままで嘘をいっていたが、こんどもやはり駄目だった。この一年の間、われわれがどんなに努力したか、お互いによく知っているのだから、これ以上、しちくどくいう必要はないだろう。あす、山をおりて東京へ帰るつもりだが、われわれの仕事はこれで終わったというわけではない。鉱山のほうはうまくゆかなかったが、われわれの研究のなかで、この失敗をとりかえすことにしよう」

三枝氏は、鉱石のはいった採集袋を食卓のうえにおくと、

「この一年の記念のために、最後の鉱山の鉱石をひろってきた。われわれ四人の遺骨だ。数もちょうど四つある。ひとつずつだいて帰ろうや」

といった。

山下氏が、立ってきて、キャラコさんに挨拶した。

「あなたは、ほんとうに不思議なお嬢さんでした。どういう素性のかたなのか、……また、ほんとうの名前さえ知らずにお別れすることになりましたが、このほうが、たしかに印象的です。……最も心のやさしい女性の象徴として、いつまでも、われわれの心に残るでしょうから……」

あとの三人は、何もいわなかった。

原田氏と黒江氏は寝台の上で、三枝氏は、食卓に頬杖をついて、いつまでも、じっとしていた。

Chapter 1 of 1