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市電をおりた一人の男が、時計を出してちょっと機械的に眺めると、はげしい太陽に照りつけられながら越中島から枝川町のほうへ歩いて行った。左手にはどす黒い溝渠をへだてて、川口改良工事第六号埋立地の荒漠たる地表がひろがっていて、そのうえを無数の鴎が舞っていた。
その男は製粉会社の古軌条置場の前で立ちどまると、ゴミゴミした左右の低い家並を見まわしながら、急にヒクヒクと鼻をうごかしはじめた。なにか微妙な前兆をかぎつけたのである。
斜向いの空地のまんなかに、バラック建ての、重箱のような形の二階家があって、大きな柳の木が、その側面をいっぱいに蔽うようにのたりと生気のない枝を垂れていた……
男はひどく熱心にその家を眺める。それから、入口のガラス扉のそばへ近づいて行って、ほとんど消えかけているペンキ文字のうえへかがみこんだ。
〈10銭スタンド、那覇〉と書いてある。
しばらく躊躇ったのち、その男は思い切ったように扉をおして、酒場のなかへはいって行った。
うす暗い酒場のなかにはまだ電灯がついていて、土間のうえの水溜りが光っていた。ぷんと、それが臭かった。番台では汚れ腐った白上衣を着た角刈の中僧が無精な科でコップをゆすいでい、二人の先客がひっそりとその前の卓に坐っていた。
一人は縮みあがった綿セルの服を着た五十歳位の、ひどく小柄な小官吏風の男。まるで顎というものがなく、そのうえ真赤に充血した眼をしているので、ちょうど二十日鼠がそこに坐っているように見える。もう一人は四十歳位で、黒いソフトをあみだに冠った、すこしじだらくな風態だが一見して高等教育を受けた男だということがわかる。酒のみだと見えて、鼻のあたまが赤く熟しかけている。
たった今はいって来たほうは、夏帽を窮屈そうに膝に抱えたまま、見るからに落ちつかないようすで街路のほうを眺めている。なるほど、こういう場末町の不潔な酒場にはそぐわない男である。凄いほどひき緊った、端麗な顔をした三十四五歳の青年で、すっきりとした薄鼠の背広に、朱の交った黄色いネクタイをかけ流していた。銀座でもあまり見かけないような美しい青年である。
青年も二人の先客も、互いの眼をはばかるように背中合せに坐ったまま、さっきから身動きしようともしない……。こんな風にして時間がたつ。
それから二十分ほどすると、急に扉があいて、二人の男が前後になってはいってきた。
一人は小鳥のようにうるさく頭を動かし、キョトキョトと酒場のなかを見まわしながら、なにかしばらく躊躇っていたが、やがて、逃げるように出てゆくと、たちまち街路のむこうへ見えなくなってしまった。
もう一人は菜葉服を着た赧ら顔の頑丈な男で、番台に凭れかかると、そこからじろじろとしつっこく三人を眺め、それから、
「オイ、鶴さん、米酒」
と、酒棚のほうへ顎をしゃくった。
このほうは、どうやらここの常連らしい。発動機船の機関士か造船所の旋盤工というところ。チャップリン髭をはやしているのが異彩をはなつ。
手の甲で唇を拭うと、妙にきこえよがしに、
「おう、今朝だれか俺をたずねて来なかったかよ、鶴さん……」
と、男にきいた。男は頭をふった。(この問答をきくと、三人の客は一斉にちょっと身動きしたようであった)
菜葉服は、ふうん、といくども首をかしげてから、こんどは低い声で、
「……じゃなあ、俺はまたちょっと機械場へ行ってくるからよ、古田……古田子之作ってたずねて来たやつがあったら、子之はじきまたここへ戻ってくると言ってくんなヨ。……おい、頼んだぜ、鶴さん。すぐ戻ってくるってナ、いいか」
くどく念をおすと、バットに火をつけながら出ていった。
酒鼻はそのあとを見送りながら、思い出したように時計をひきだして眺め、おや、十一時か……と、つぶやく。すると二十日鼠はつぶっていた眼を急にパッチリとあけて、
「失礼ですが、いま何時でございましょう。正確なところは……」
と鹿爪らしい声でたずねた。
「十一時十分。……正確にいえば、十一時九分というところですかな」
二十日鼠は頭をさげると、また壁に凭れて眼をとじてしまった。酒鼻は時計をしまいながら、青年に、
「あなたもここは始めてでしょう。……私はひとを待っているんですが、どうもたいへんなところ……」
「始めてです」
にべもない返事だった。酒鼻はいまいましそうに、男のほうへ向きなおると、
「オイ、ときに、ここのマダムはどうした」
と声をかけた。男はせせら笑って、
「マダム? ……大将ならまだ二階で寝てまさ。……昨夜すこしウタイすぎたんでねえ」
「喧嘩か」
「なあに、……昨夜妙な女がひとり飛びこんできてねえ……なにしろ大将はスキだから、いきなりそいつとツルんでだいぶんひっかぶったらしいんでさ。……もっとも、あっしゃ昨日は昼番、その時はいなかったが、いっしょう浴びたテアイのはなしでは、なにしろ女あ大した豪傑で、……お相手しましょう、てな調子で割りこんでくると、あとはもう、奴、酌げ酌げ、さ。……さすがの大将も、しまいにはオッペケペになって、とうとう兜をぬいじまったんだそうだ。……あっしゃ、すらっとした後ろ姿を拝見しただけだったが、連中の話じゃ、二十三四のモダン・ガールで、こいつがどうもやけにいい女だったそうでさア。……なんでも洲崎のバアの女給だってえこったが、いってえどういうんだろうねえ、その女……」
この時、また扉があいて、すらりと背の高い、二十二三の娘がはいってきた。
蓮色の服に、黒いフェルトの帽子をかぶった、明るい顔つきの、いかにも美しい娘だった。酒場のなかを見まわすと、青年のとなりの椅子にぎこちなく掛けて、ものおじしたようにうつむいてしまった。
ポート・ワインを酌いで、また番台へ戻って来ると、男は新聞をとりあげて、
「おや、また人殺しだ」と、とってつけたように言った。
「……えー、薪割りようのものにて、……滅多打ちにしたものらしく、六畳の血の海の中で、……よく流行るねえ、このごろは。……こないだも野銭場の砂利仲仕が、小名木川の富士紡の前で、どてっぱらを割られて倒れていたが、……どうもひでえもんだねえ、大腸をすっかりひろげちゃって、……苦しいのか、せつねえのか、そいつを自分の両手で、手繰りだすようにして死んでいるんでさ。いやになっちゃったア、あっしあ」
あちらこちらの工場のサイレンが鳴り出す。すると、それが合図のように、さっきの菜葉服が戻って来た。つかつかと番台の前へ行って、
「なに、だれも来ねえ? ……そんな筈はねえのだが。……(首をかしげながら)じゃ、おやじが知ってるかも知れねえな。……おい、鶴さん。おやじはまだ寝てるのか。……ふうん。……じゃ、すまねえが、ちょっと起してきてくんな。子之がききてえことがあるってヨ。大至急な用なんだからよウ」
「大将はまだ夜中だぜえ、子之さん。それに、ゆんべは……(と、いいかけて、急に二階のほうへきき耳をたてると)おう、だれか二階をあるいてら……。へ、へ、大将が正午まえに起きたためしはありゃしまいし、して見ると、……(酒鼻のほうへにやりと下素っぽく笑って見せ、子之に)起すのはよしなよ、殺生だぜ、女がきている」
と、小指をだしてみせた。
二十日鼠がついと立ち上った。が、それは帰るのではなくて、
「甚だつかぬことをお訊ねするのですが、みなさん、ひょっとしたらあなたがたも、わたくしと同様、未知の男から手紙をもらって、それで、……その、誰れかわからん人間をここで待っておられるのではないのですかな。たいへん失礼ですが……」
二十日鼠がこういうと、ほかの四人の顔にさっと血の色がさして、たがいに狼狽したように眼を見あわせた。
「……じつは昨日、わたくしは未知のひとから、遺産相続の件で、内密にくわしい相談をしたいという手紙をもらいまして、それでここへやって来たのです。……わたくしには、南米のサン・パウロで働いておる年齢をとった叔父があるにはあるのですが、しかし、どうもありそうもないことでね。……はじめは冗談か詐欺かと思った、だが、人間、慾にかけるとたわいのないもので、そう思いつつ、結局、まあこうしてやって来たというわけです。……どうです、みなさんもそういうわけではなかったのですか」
そういって、四人の顔を見まわすと、ずいぶんひとを喰った笑いかたをした。たれも否定するものはなかった。途方に暮れたような色がみなの顔にあった。二十日鼠は、
「……はは、(と、苦笑しながら)やっぱりそうでしたか。その手紙をここに持っておりますが、……ひとつ念のために読んで見ましょうかしらん」
と、言いながら、もぞもぞとポケットを探して、邦文タイプライタアでうった紙きれをとり出すと、ひどく朗詠風に読みはじめた。
一、火急に就き小生の身分は申上げず、御面晤の折万々御披露可致候二、小生は貴殿が相続の資格を有せらるる未知の遺産につき、至急御通知申上ぐる義務を有し候三、右は不動産、有価証券並に銀行預金にて、財産目録は御面晤の折御一覧に可供候四、右は貴殿に於て当に失格せんとするものにて、至急資格申請並に諸般の手続を了する必要あり、猶々以上の外公表を憚る錯雑せる事情之有、御面晤の上篤と御説明申上ぐる外無之に付、左記場所まで日時相違なく御来駕給り度願上候敬具 六月四日
一、六月五日、午前十時。
一、深川区枝川町二二五番地。
「那覇」、絲満南風太郎方。
二十日鼠は椅子にかけると、不機嫌な顔をしてだまりこんでしまった。青年はすこし顔を赧らめながら、
「……僕も幼稚なんですねえ……その手紙はここに持っていますが、……でも、僕にも多少そういうこころあたりがあるので。……もっとも、半分は好奇心ですが。……(そして、微笑しながら娘に)あなたもそうですか」
と、優しくたずねた。
娘はやっと顔をあげると、もの悲しげにつぶやいた。……美しい声であった。
「あたし、半月ほどまえに、はじめて東京へ出てきまして、いま新宿の〈シネラリヤ〉ではたらいておりますの。……きのうの朝、十時頃、あたしのアパートへ女のひとから電話がかかってきて、いまの手紙とおなじことを言って、あたしにぜひきてほし言うのやし。……男の声のようなところもあるし、あたし、店のお客さんがいたずらしてるのだと思うて、いやや、ゆうて、笑いながら電話をきりましてんの。(すこし笑って)でも、ゆうべは、いろいろ空想をたくましゅうしてとうとう朝までよう寝られんのでした。……子供のとき生別れした父が、まだどこかに生きているはずなんですの。……今朝、そんな馬鹿なことないといくども思いかえしましてんけど……」
菜葉服は辛抱しきれない風で、横あいからひったくった。
「俺のほうもそうなんだヨ。……富岡町の支那屋で雲呑を喰ってると、そこへ電話がかかってきたんだ。上品な女の声でねえ……、こいつあ、たしかですぜ。(じろりと娘の顔を見ながら)嘘もまぎれもねえ女の声だったんで。……それで、なにしろそういううめえ話だから、あっしゃ喜んで、承知した、きっとお伺いしましょう、って返事をしたんだ。……もちろん、初めは……、あっしだっていろいろ気をまわして見たさ。だがねえ、あっしの考えじゃ、どうも冗談たあ思われなかったんだ。ちゃんとすじが通っているからね」
二十日鼠が、ふふ、と苦笑した。菜葉服はむっとしたようすで立ちあがった。
「おい、妙な笑いかたをするじゃねえか」
二十日鼠が言いかえす。菜葉服がいきり立つ。男までそれに加わって、おい追い手のつけられないようすになって行った。
娘は眼にみえないほど、すこしずつ青年のほうへ寄っていった。初対面の男たちが下素っぽく罵りあっている。この不潔な酒場のなかでは、青年の端正な美しさは、たしかにひとつの救いであった。
娘は青年の耳元でささやいた。
「……ここがわからんで、あたし、ずいぶん探し廻りましてんの。……しょむない……あたし、やっぱり慾ばり女なんですわ」
彼女のいいかたは、いかにもあどけなかったので、青年は微笑せずにいられなかった。
「でも、今のところまだ、担がれたんだときまったわけでもありませんし……」
腕組みをしながら、隅のほうで超然と三人の論争をきき流していた酒鼻が、急に口をきりだした。
「小生もこれを冗談だときめてかかる必要はないと思う。要するに、手紙の差出人がまだやってこないと言うだけのことなんだからねえ。……一年もたってからなら、やっぱり担がれたんだろうと思うがいいさ。しかるに、約束の時間よりまだ二時間しか経っていないんだ。どういう余儀ない事情で遅刻しているのか知れやしない。それに、小生ひそかに、これは冗談ではない。なにか重大なわけがあるとにらんでいるんだ。……そもそも、われわれ五人をこんな酒場によびだしてなんの利益がある。たいして面白い観物でもありやしないからねえ。……また、ことによれば、あの手紙の差出人は、実はここのおやじ、すなわち、絲満南風太郎君それ自身かも知れないということだ。……あるいは、そうでないかも知れん。……しかし、たぶん、……多分、彼はこれについてなにか知っている。すくなくとも、彼はわれわれを釈然とさせるに足る説明の材料を、持っている筈だと小生は思う」
菜葉服がうなるように言った。
「だから、俺あさっきからそう言ってるじゃねえか。ここのおやじにきけあ話がわかるってヨ。……それをこの先生が、(と、露骨に二十日鼠を指して)おっひゃらかすようなことを言うから、俺あ腹をたてるんだ。(こんどは酒鼻に)どうです、こんなことをしてるより、ひとつ、おやじを起してきいて見ようじゃありませんか(また、二十日鼠にむかって)おめえ、冗談だと思うなら、こんなところにまごまごしていることはなかろう。さっさと帰んなヨ」
「さよう。そろそろ失敬しよう。……なあに、どうせ話はわかってるんだ」
そのくせ、腰をあげるようすもなかった。
酒鼻は男にむかって、
「オイ、若い衆、ハエ太郎君を起して、ここまでつれてきてくれ。……おやじがなにか知ってるなら、われわれに説明する義務があるんだ。……反対に、もしなにも知らないてえなら、せっかくのご休息をお妨げしたについて、われわれ一同は、謝罪のために、大いにここで飲むことにする。……すくなくとも、小生は大いに飲む。……もう正午もすぎてるんだ。とっとと行って起してこい……」
男は頭をかきながら、
「大将を起すんですかい。……いやだなア。またがみつかれらア」
「だからヨ、みなであやまってやらあナ」
すると、酒鼻は大きな声で叫んだ。
「わかったぞ! ……やい、ボーイ。そういう風にぐずつくところを見ると、貴様も同類だな。あの手紙は、酒場の人集せにやった仕事だろう……。どうだ、白状しろ」
「じょ、冗談いうねえ。うちの大将はそんなんじゃねえや。……おめえらのような貧乏人を集せたって、切手代のほうがたかくつかあ、馬鹿にするな。……うちの大将ぐれえ寝起きのわるいのはねえんだからよ。それさ、あっしがいやなのは。……だがまあ、それほどいうんなら起してきまさ」
男は板裏を鳴らしながら、酒場の奥の狭い階段を、バタリ、バタリと、のろくさくのぼっていった。やがて足音は五人の真上へくる。
男はそっと扉を叩いている。階下では五人が、音のする方へ耳をすます。男はこんどはやや強く叩きながら、どなっている。
「大将……大将……もう正午すぎですぜ」
みな返事をまっている。……が、返事がない。
割れるように扉をたたく音が、酒場じゅうをゆすぶる。
「大将……大将、工合でも悪いんですか」
返事がない……
男がころがるように階段を駆けおりてきた。酒鼻がボーイを抱きとめる。
「返事をしない……(顔をしかめながら、うわずったような声で、)ああ、こいつあ妙だ。……こんなことははじめてなんで……どうしたってんだろう……あっしゃ、もう」
酒鼻がいった。
「よし! 一緒に行ってやろう。……とにかく見てみなくては……」
そこで、硬ばった顔をしながら、二人が階段をのぼってゆく。絲満の部屋の前へくると、酒鼻は鍵口からなかをのぞいた。
「……雨戸がしまってるんだ。……真っ暗でなにも見えやしない」
二人で力一杯に扉を叩く。……依然として返事がない。なにかひどく臭う。
「……オイ、いやな臭いがするじゃないか……(なにか考えていたが、急に顔色をかえると、おしつけるような声で)俺は知ってるぞ、この臭いを……。おい、若い衆! 早く交番へいって巡査をよんでこい! 早く!」
ボーイが駆けだす。酒鼻は男のあとからのっそりとおりて来た。すこし震える声で、
「巡査をよびにやった。……扉がしまっていて、……それに妙な臭いがするんだ」
「どんな臭いですか」
と、二十日鼠がたまげたような顔できいた。
「……行って、かいでごらんなさい。すぐわかるから……」
二十日鼠は動かなかった。
「いつもこんなによく寝こむのか」力一杯扉を叩いてから、巡査が男にたずねた。「そうじゃない? ……じゃ、ひとつ開けて見よう。……鉄槓杆があるかね? ……なかったらどこかへ行って借りて来い」
男が鉄槓杆を担いできた。巡査は槓杆をうけとると、扉の下へそれを差込んで、ぐいともちあげた。蝶番がはずれた。錠の閂下がまだ邪魔をしている。うん、と肩でひと押し。扉は内側へまくれこんだ。
むっとするような重い臭いが鼻をつく。手さぐりで壁の点滅器をおす。……照明がはいって、そこで虐殺の舞台装置が、飛びつくように、一ペンに眼の前に展開された……。
敷布のくぼみの血だまり、籐椅子の上の金盥には、赤い水が縁まで、なみなみとたたえられている。血飛沫が壁紙と天井になまなましい花模様をかいている。……そのすべてから、むせっかえるような屠殺場の匂いがたちのぼっている。寝台と壁の間の床の上に、裸の人間の足……乾いて小さくしなびた老人の蹠がつきだされていた。
「おや! あそこにいた。……ひどいことをしやがったな」
巡査はハンカチで首のまわりを拭いた。
気抜けしたような男のうしろには、五人の客が、明るい電灯の光の下で、ねっとりとかがやく血だまりを見ていた。藁蒲団をしみ通した血が、ポトリ、ポトリ、と床のうえにしたたるのがはっきりときこえる。
二十日鼠は背中を丸くして、歯の間から荒い呼吸をしていた。草笛のように甲高くヒュウヒュウ鳴る音は、血の滴る陰気な音と交りあって、ひとの気持ちをいらいらさせた。
娘は青年の方をふりかえると、溺れかかるような眼つきをした。青年は急いで娘の傍へよると、腕のなかへ抱えた。娘は蒼ざめた額をおさえながら、夢のさめきらないひとのような声で、どうぞ……階下へ……と、いった。
その声で巡査がふりかえる。五人を見ると、はじめて気がついたように、男にきいた。
「この連中はなんだね」
「店のお客です。始めてのひとばかりなんで……」
「ふうん。……さ、みんな、おりた、おりた。帰らずに階下で待っていろ。……もうここへあがって来ることはならんぞ」
巡査はみなを階下へ追いおろすと、あたふたと街路へ出て行った。
自動車がとまり、警部の一行がはいって来て二階へあがって行った。一人の巡査は、こらこら、と言って店先の弥次馬を追いはじめる。
検証は四十分近くもかかった。警部は低い声で二人の部長とささやきながら降りて来た。酒場の卓の前へ坐ると、じろじろと五人の顔を見廻した。手帖を出しながら、
「そこで、……(二十日鼠を指して)ちょっと、……君から始めよう。なんだい君は。ここへなにしに来たんだね、今朝?」
「わたくしども五人は、ある不明な人物から、今日の十時までにここへくるように指定されまして、それでやってまいったのでございますが、……しかるに、当の告知人は、とうとう姿をあらわさなかったというわけで。……手紙とは、すなわちこれでございます」
二十日鼠はポケットから、さきほどの手紙をとりだすと、うやうやしく叩頭して警部に渡した。
「姓名は?」
「乾峯人。……高等官七等。元逓信省官吏。只今は恩給で生活いたし、傍ら西洋古家具骨董商を営んでおるのでございまして、住居は、淀橋区角筈二丁目二十七番地。……五十二歳。はい、まったくの独身でございます」
「それから、そちらの婦人……」
「雨……雨田葵……只今、新宿の〈シネラリヤ〉で働いております。……四……四谷区大木戸二ノ一文園アパート。二十三歳。独身でございます」
「よろしい。……つぎ」
「西貝計三(酒鼻が無造作にこたえる)東都新聞の演芸記者。四谷区新宿二丁目五十八。当年三十七歳」
警部は菜葉服のほうへ顎をしゃくった。
「古田子之作。深川区富岡町二一七。〈都タクシー〉で働いております」
「運転手か」
「へえ、運転もいたしますが、いまはおもに古自動車をなおす方をやってるんで。……住居は、そこの二階で寝泊りしております。(頭をかきながら)まだ嬶はございません。へえ、三十三でございます」
警部は手帖をしまいながら、もう自由にひきとってよろしい、といった。青年が警部の前へすすみでた。
「私はまだすんでおりません」
警部は、すこしてれながら、
「ああ、……君は?」
「私は四日前に台北から上京いたしまして只今は麹町〈南平ホテル〉に泊っております。もとは青島の貿易商会につとめておりました。現在は無職……失業中なのです。……久我千秋。明治三十五年生れ」
そういって、上品なおじぎをした。
五人はわいわいいう弥次馬をおしわけながら街路へでた。
久我が片手をあげる。久我と葵をのせて、自動車は走り去った。