Chapter 1 of 5

終戦から四年となると、復員祝いも間のぬけた感じだったが、山川花世の帰還が思いがけなかったせいか、いろいろな顔が集まった。主人役の伊沢元仏蘭西領事と山川の教え子だった伊沢の細君の安芸子、須田理学士、貿易再開で近くリヨンに行く森川組の笠原忠兵衛、シンガポールの戦犯裁判で、弁護団側のマレー語の通訳をしていた岩城画伯などがやってきたが、定刻をすぎても、当の山川はあらわれない。

伊沢は窓ぎわのソファで笠原と領事時代の話をしていたが、そのうちに、いいものを聞かせようといって、空色のラベルを貼った古色蒼然たるレコードを持ちだしてきた。

「テット・スキッパの『蝶』だ。あのころパリにいた連中は、忘れられぬ思い出をもっているはずだ」

ほのかな歌声が、管絃楽のアンサンブルの中から音の糸を繰りだすように洩れてきた。繊細な技巧と熱情が美しく波うつスキッパのハバネラは、人間のいない薄いうたいかたでは、どんな派手な声を仕上げてもだめなものだという証をしながら、聞くものの心を深い陶酔にひきこんだ。

歌が終って、アペリチフが出ると、笠原が、

「あのころ、パリに遊びに来ていた豊沢大掾がこれを聞いて、河東か荻江のウマ味だと、うがったことをいったが、歌うという芸道もここまでくると、もう東洋も西洋もない。おれも何十回聞いたか知れないが、聞いているあいだ、西洋の歌だということを忘れているふうだったよ」

といった。すると、そばにいた岩城が、思いだしたようにこんな話をした。

「いまのハバネラで思いだしたが、バタヴィアの戦犯裁判にかけられたなかに、比島の若い娘たちにたいへんな人気があって、『蝶』という愛称で呼ばれていた日本人がいた」

須田が気のない調子でたずねた。

「そいつは、なにをしたんだい」

「マニラのポゥロ大学の八百人の非戦闘員虐殺、ラグナのカランパノの幼児虐殺、パタネスのバスコの残虐事件……それのどれかに干与しているはずで、そのため、いくども法廷へひき出されるんだが、ドタン場へいくと、五人も十人も若い娘の証人が出て、反証をあげて無罪にしてしまうんだ」

「丹次郎だな。ちょっとしたもんだ」

笠原がまぜっかえしにかかった。

「それで、逃げきったのか」

「そんなやつだったが、やはり最後の幕は出さざるをえなかった。比島のほうは逃げきったが、スマトラのパレンバンの虐殺一件を、なにやらいうスペインの混血娘に摘発されて、とうとうバタヴィアの刑務所で絞首刑になった。頭巾をとると、『蝶』の実体は案外つまらない男だったが、助けたのも若い娘なら、殺したのも若い娘……絵でいえば、デッサンのたしかな戦争画の細部を見ているようで、複雑な感銘をうけた」

のんびりとそんな話に耽っていたのではない。内実は、みなすこしずつ腹をたてていた。八時になったが、まだやって来ない。空虚な時間を、あてどのない会話で埋めていく努力に嫌気がさしかけたころ、須田が欠伸まじりで伊沢の細君に、

「なんだか、あやしいことになってきた……安芸子さんが資生堂で見かけたというのはほんとうに山川だったのかな」

と無駄をいった。

「あやしいって、どうあやしいの?」

「戦争に行って、あいつが生きて帰ってくるという法はないからね。どう考えても非論理的だよ。それは安芸子さんの告白小説じゃないのか。山川に逢いたい逢いたいで、祈りだしたのとちがいますか」

「反魂香ですか? まさか」

伊沢の細君が、さらりと受け流した。

「おどろいたのは、あたしだけじゃないのよ。山川さん、薄鼠のダブルのスーツかなにか着て、前触れもなく、すうっと庭先へ入って来たので、上の常子姉さまは、あらと縁の柱にすがりついたきり、動けなくなってしまったって」

五日ほど前、伊沢の細君が買物の帰りに資生堂へ寄ると、いつもそこときまっている、ギャラリーの鋳金の手摺に寄った卓で、山川花世がむかしどおりのようすでコォフィを飲んでいた。それで傍へ行って、

「山川先生、いつぞやは」

と挨拶したが、赤襷の山川を営門に送りこんでから、今日というその日までのあいだに、戦中戦後を含め、六年という非情の長い時の流れが介在するのだから、いつぞやという挨拶は、なんとしてもへんだった。

「六年といったら、老けるとか痩せるとか、なにかしら変化があるはずなのに、まるっきり、そんなこともなくて、出た日のままの顔で、眼を伏せて含羞んでいるじゃありませんか……それで、ついバカなことをいっちゃったんですけど、気がついて、いやァな感じがしたの。幽霊だとも思やしなかったけど、ああ、夢を見ているんだなって……」

山川が入営したのは、小雨の降る、うすら寒い朝だった。眼を釣りあげた上の姉の常子が、毛布地仕立の大外套の重ね着をして、鼻の下までマフラをひきあげた山川に蝙蝠傘をさしかけながら、なになには、どうとかしなくてはとか、ネオ・レバーを飲むことを忘れないでとか、子供にでもいうようにクドクドと注意していた。

日本の文化史が、かならず一頁を割く、権威あるクリスチャンの家族が、ただ一人の嫡男を育てたいばかりに、土俗の迷信にすがって、花世という女の名をつけた血迷いかたでも知れるが、山川花世は、母と二人の姉の犠牲と奉仕によって、辛うじて人並な発育をとげた。

そのため、上の姉の常子は、とうとう婚期を逸してしまったが、生れ落ちてから三十歳まで、山川の日常はサナトリウムさながらの生活で、生水は飲まず、外でものを食べない。よんどころないパァティなどには、姉の一人が、魔法瓶に蒸溜水を詰めてついて行くので有名だった。

学習院の女子部の先生になってからも、嫌なこと、むずかしいことは、みな母や姉がひきうけてやってしまい、山川は家庭と女達の蔭に隠れ、自分の流儀で、したいことをしていた。顔ひとつ洗うにしても、歯磨はデュマレの「コールゲート」の半煉、石鹸はモリヌウの「ヴェルゥ」ときまっていて、それらが東京で手に入らぬときは、姉がわざわざ神戸のクーン・アンド・コモルまで買いに行った。

軍教など思いもよらない。短期現役の勤務期間は、縁戚の軍医監へ手をまわして、病棟で本を読んで暮し、一日も実務につかずに予備少尉に任官するという特例をつくった。

戦争や軍隊にとって、これほど有害無益な男もすくなく、山川にとって、およそ戦争というものほど、性に合わないものはない。女子部の生徒のなかでも、特に山川をひいきにしていた十人ばかりが、花束ならぬ、紙の国旗を持って営門に並んだが、いじらしいやら、可笑しいやらで、涙を滲ませたり、忍び笑いをしたり、さんざんだった。

「山川先生、いちど雨にあたったら、溶けておしまいになるでしょう」

一人が泣笑いをしながら、感想を洩した。

母と姉の庇護によらなくては、一日も生きられない。顔を洗う水が足の甲に落ちても、すぐ風邪をひく含羞草のような山川が、荒くれた異土の風雪に十日もつづけてあてられたら、敵の弾丸を待つまでもなく、肺炎かなにかで、がっくりいってしまうのだろう。時雨もやいの朝寒におびえて鳥肌をたてている、眼ばかり美しい山川の細い白い顔を見ていると、この男は、もう生きて帰ってくることはあるまいという冷酷な感慨がわき、人並な挨拶をして営庭に入って行ったのを最後に、みなのこころのなかで、山川の思い出が死んでしまった。

生きた山川を見ようなどと、無益な期待をもっていたものは一人もない。そんな場所で、唐突に山川と鉢合せをしたら、伊沢の細君でなくとも、あっといって、一と足後へ退ったろう。「いやな感じ」というのは、よくわかった。

山川の家へ電話をかけると、二時間も前に出たというが、待つあてもないので、はじめると、九時近く、遅くなって、山川がつるりとした顔であらわれた。どこへ坐ればいいのかと、含羞み笑いをしながら座を見まわしているので、いい加減腹をたてていた須田が、

「ひとに招かれて、いまごろやってくるような不心得者は、おゆるしが出るまで、末席で慎しんでいろ」

と、いきなり浴びせかけた。

さすがは育ちのよさで、すまなかったといって、悪びれもせずに端初の席につきながら、食卓の上のクリスタルの酒注を見ると、

「葡萄酒だね。一杯もらってもいいかしら」

「赤ん坊が、酒を飲むって? あまり驚かせるなよ」

「軍隊でおぼえちゃったんだ……母や姉たちには、秘密なんだが」

山川は、グラスをクルクルまわして、切子の面を光らせながら、宝石でもながめるように酒の色に見入っていたが、香気を嗅いで口に含むと、

「ラローズだね。なかなかいいよ」

と、通人めかして、うなずいてみせた。

「こいつは、一流みたいな飲みかたをする。どこで、おぼえたんだ。まさか、ヨーロッパへ戦争に行ったわけでもあるまい。ふしぎなやつだね」

と岩城がいった。笠原は山川の顔を、と見こう見していたが、

「山川は、六年も戦争に行っていたというけど、ちっとも変っていないね。痛めつけられたようなところは、どこにもないじゃないか」

と呆れたようにいった。

水に晒したような絖のたつ白い皮膚は、どこといって日焼けもせず、華奢な手は、依然として敏感そうに、すらりとしたかたちを保っている。眼の艶もそのまま、声もそのまま。戦争は別にしても、歳月の腐蝕を受けずに、どうしてむかしのままの風姿を持続することができたのか、まず、それがふしぎだった。

「おれの友達なんだが、現地へ着くが早いか、敵前逃亡をして、終戦後、軍法会議と戦時特別刑法が廃止になるのを見さだめてから、悠々とあらわれてきたのがいる……兵科はなんだったんだ、そんな生っ白い顔でいられるというのは」

「高射砲隊……ひどい戦闘もしたが、ともかく運がよかった。終戦は、ニューギニアのカイマナだったが、あまり奥へ逃げこんじゃって、二年も終戦を知らなかった。陽の目も見えない大樹林の中で、食べるものもなくて……」

「それはたいへんだったといいたいところだが、どう見ても、お前の面は、美食して、安楽に暮していた面だよ」

「嗜好の善悪とは、緯度の差でしかない、と誰かがいった。見方を変えれば、僕は、すごい美食をしていたといえる」

「なんだい、緯度の差ってのは」

「アフリカやアラビヤでは、猿は最上の美食だということだが、僕らは、オランウータンばかり食っていた。食い残した猿の腕や掌が、その辺に投げだしてあると、人肉でも嗜食したような罪感をうけた」

「アッペリゥスという男のボルネオ紀行に、オランウータンを生捕りにする話があるが、あれァ、なかなか掴まらないものなんだろう。山川のようなのろまに、よくそんなことができたな」

「これでもずいぶん殺した……チーズのような猛烈な臭気のある、ドリアンという熱帯果実は、猿の大好物で、それが熟すころになると、五十匹、百匹という集団をつくって、ジャングルの奥から出てくる。手はじめに、伐木して猿どものいる樹を独立させ、大勢で遠巻きにしながら、円陣を狭めて行く……兵隊が木の下まで這って行って、幹に手斧を打ちこむ。こちらの意図がわかると、枝をゆすって暴れるが、間もなく、ドサリと樹が倒れる。母猿は子猿を抱えて立ちむかってくるが、目つぶしを食わされ、網をかぶされて、地べたへころがされる……そこを、乳の下を目がけて、銃剣でグサリと突くんだ。母猿は片手で子供たちをひきよせ、片手でまわりの草をむしって、胸の創口へおしこむ。そうして、絶望的なようすで、血のついた手を嗅いでみる……母猿の臨終の動作は、おそろしいほど人間に似ているんだ。あんな良心をおびやかす狩もすくない……猿のほうは利口で、礼節があって、ときには、道徳的にさえ見える。われわれ人間のほうは、低蒙で野蛮で、垢だらけになって、眼ばかりギョロギョロさせ、一枚のガネモの葉のやり奪りから、すごい斬りあいをやる……猿を殺すにしても、その残忍さときたら、お話にならない。見ていると、人間が猿を殺しているんじゃなくて、猿が人間を殺しているような、へんな気がしてくる。他人のことじゃない。顔に猿の血をつけたまま、猿汁をつくっているところなど、われながら、人間だなんて思えない。一日ごとに、動物に近くなって行く経過が、はっきりとわかって、この分じゃ、たとえ生き残っても、二度と人間社会へ帰って行けないだろうという自覚と絶望で、気がちがいかけたことがある」

やはり昂奮しているのだとみえ、無口な山川が、いつになく、つくづくと念頭の考えを洩し、疲れたといって、一人で先に帰った。

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