Chapter 1 of 3

出かけるはずの時間になったが、安は来ない。離屋になった奥の居間へ行ってみると、竹の葉影のゆらぐ半月窓のそばに二月堂が出ているだけで、あるじのすがたはなかった。

窓ぎわに坐って待っているうちに、六十一になる安が、ひとり息子の伊作の顔を見たさに、はるばる巴里までやってきた十年前のことを思いだした。

滋子はそのとき夫の克彦と白耳義にいたが、十二月もおしつまった二十九日の昼ごろ、アスアサ一〇ジ パリニツクという安の電報を受取ってびっくりした。

安は滋子の母方の叔母で、伊作を生むとまもなく夫に死に別れ、傭人だけでも四十人という中洲亭の大屋台を十九という若さで背負って立ち、土地では、人の使いかたなら中洲亭のお安さんに習えとまでいわれた。

長唄は六三郎、踊は水木、しみったれたことや薄手なことはなによりきらい。好物は、かん茂のスジと切茸のつけ焼、白魚なら生きたままを生海苔で食べるという、三代前からの生粋の深川っ子で、旅といえば、そのとしまで、東は塩原、西は小田原の道了さまより遠くへ行ったことがなく、深川を離れたら三日とは暮せないひとが、どんな思いをしながらマルセーユへ辿りついたのだろう、巴里までの一人旅は、さぞ心細く情けなかったろう。

伊作が巴里に落着いているのは、春と秋の三ヵ月くらいのもので、夏はドーヴィル、冬はニースと、一年中、めまぐるしく遊びまわっているふうだから、いまは巴里にいないのかもしれず、いるにしても、あのめんどう臭がり屋が出迎いなどしそうもない。駅の出口あたりで、途方にくれておろおろしている叔母のようすが見えるようで、思っただけでも胸がつまるようだった。克彦もしきりに心配するので、その日の午後の急行に乗り、夜おそく巴里に着いて伊作の宿へ行ってみると、案の定、どこかで遊び呆けているのだとみえ、叔母の電報は再配達の青鉛筆のマークをいくつもつけて、手紙受のガラスの箱のなかにおさまっていた。

翌朝、時間より早目に駅へ行って、ホームの目につくところに立っていると、鼠紺大小あられのお召に、ぽってりとした畝のある藍鉄の子持の羽織、阿波屋の駒下駄をはいて籠信玄をさげ、筑波山へ躑躅でも見に行くような恰好で汽車から降りてきて、

「おや、滋さん、どうしてここへ?」

と、けげんな顔をした。

「どうしてって、なによ。お出迎いにあがったんじゃありませんか」

安は、のびあがるようにして、あたりを見まわしながら、

「若旦那は?」

「伊作は、よんどころない用事があるっていいますから、あたしがご名代」

「それはどうも、わざわざ」

駅の表へ出ようとすると、安は急に渋って、「こんなところで降ろされてしまったけど、ここが巴里なの」と、ひくい声でたずねた。

「そうよ、ここが巴里よ」

滋子がうなずいてみせると、安は、

「へえ、これが巴里」

あきれたような顔で、煤ぼけた駅前の広場を見まわしていたが、タクシーにのせられるとだんだん機嫌が悪くなって、

「巴里って、ずいぶん、しみったれたところなんだねえ。若旦那、なにがよくて、七年も八年も、こんなところでまごまごしているんだろう……子供のとき、世界一周唱歌で、花のパリスに来てみれば、月影うつすセイン河、なんて、うたったもんだけど、まるっきり、絵そらごとだったよ。呆れたねえ」

と、こきおろしはじめた。滋子はつくづくと安の顔をみて、

「呆れるってのは、こっちのことだわ。こんなところまで、一人でトコトコやってくるなんて、いったい、どうしたというわけなの」

安は案外な落着きかたで、

「こんど、延が店をやってくれることになって、身体があいたから、ちょっと遊びにきたのさ」

「来るひとも来るひとだけど、出すひとも出すひとだわ。たいへんだったでしょう、マルセーユなんかじゃ、どうだったの」

「べつに、なんでもなかった」

「なんでもないことはなかったでしょう。でも、よく気がついて、あたしのところへ電報をうったわね」

「なんの電報?」

「あなたがマルセーユから電報をくだすったから、こうして白耳義からお出迎いに罷りでたんじゃないの」

「それは、あたしじゃない。滋さんの所書きを出るとき忘れてきたもんだから、打ちたいにも打ちようがなかった」

「でも、あなたのほかに、誰が電報を打つというの」

安もへんだと思ったか、解けきらない顔で、

「マルセーユじゃ、ちっとも心細い思いなんかしなかったのよ。税関がすんだので、なんとかいう旅行社のひとに、駅まで送ってもらうつもりにしていると、どこかの奥さまが寄っていらして、お一人で日本から? よくまあねえ。さぞ、たいへんでしたでしょう。駅でしたら、あたくしがお送りいたしましょう。ちょうど車を持っておりますからって」

「それは、いい都合だったのね」

「三十七八の、すっきりした、なんともいえない容子のいい方なの。まだ時間があるからとおっしゃって、なんという通なの、明石町の船澗のあたりにそっくりな河岸のレストランで、見事な海老や生海丹なんかご馳走してくだすって、それから……」

「電報も、その方が打ってくだすったのね」

「そうなのよ……でも、おかしなことだったの。あわてていたもんだから、電報の文句だけいって、若旦那の所をいうのを忘れちゃったんだから、なんにもなりゃしない。汽車が出てから気がついて、巴里へ着くまで心配のしどおしだったけど、あなたが出ていてくれたので、ほっとしたわ」

伊作のほうはともかく、ブリュッセルへ電報を打つところまで気をきかしたのは、誰だったのだろうと思って、

「その方のお名前、伺って?」

「それが、つい、気がつかずだったの。でも、あの方なら、どこでお逢いしても、すぐわかる。汽車が出るまで、ホームで見送ってくだすったけど、あんな愁いのきいた、眼に沁みるような美しい顔、見たことがない。いまでも、ありありと眼の底に残っているわ」

そんなことをいいながら、籠信玄から塩せんべいをだして、

「あなた、好きだったわね、銀座の田丸屋よ。荷物が着くと、どっさり入っているわ」

のどかな顔で、移りかわる河岸の景色をながめていたが、薄靄の中でぼんやりと聳えているエッフェル塔を見つけると、うれしそうに手を拍って、

「ちょいと、あれ、エッフェル塔でしょう……巴里の万国博覧会といって、よくあの写真を見せられたもんだった。おやおや、なつかしいこと」

他国で旧知にでも逢ったようにニコニコしていたが、

「ねえ、滋さん、あの上へのぼれるのかしら。エッフェル塔のてっぺんで初日の出を拝んだといったら、話の種になるわね」

「ええ、のぼれるのよ。でも、あそこが開くのは十時ですから、お日の出を拝むというわけにはいかないわね」

「ええええ、それで結構だから」

うつらうつらしながら、そんなことを思いだしていると、安が小走りに部屋へ入ってきて、

「滋さん、こんなところにいたの。もう時間よ、さあ、出かけよう」と、せきたてた。

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